09:00 コイツはぜったい雑魚じゃない。
――人間は水がなければ三日と保たない。
それは事実だが、裏を返せば、三日近くは生きられるということでもある。
ただし、それは、あくまでも。
なにひとつ、飢えと渇き以外の問題がなければ――の話なのだ。
「……なんか、鳴き声がするねー……」
見晴らしのいい野原とはいえ、青々とした雑草の丈は、場所によっては膝から腰くらいまである。
こんななかで白骨さんを見つけられたのは偶然によるところが大きかったけれど、まずそもそも論として。
《――よく考えたら、白骨さん、なしてこんなとこでお亡くなりになってたん?》
湧き上がる不安を、そう書き送る。
繰り返しになるけれど、財布が残っていたのだから、盗賊だのなんだのの仕業ではない。
いや、わかっている。わかっている。なにが白骨さんの死因かって、もう判っている。
雑草の茂みのなかで、きゅるるるるるる――って。ゲームや映画でしか聞けないような、異様な鳴き声がする。
判っていても、駄目だ。自分の職業は、勇者でもハンターでもない。ただのシステムエンジニアだ。
逃げるべきだというのはわかっている。でも、足が動かない。動くのは、携帯を握る指先だけ。
《\(^o^)/オワタ》
草むらから、ずるっと姿を現した――まあ、ここは便宜上、モンスターとしておこう。
そのモンスターを前にして、これまでの人生のなかでは知ることのなかった、絶望という言葉の意味を初めて知った。
《なにあれこわい。ゲル状の、いわゆるスライム的ななにか……。
あれ物理通じない系のやつだ。つかどっから鳴き声だしてんのあれ》
そんな言葉を書き送ったのは、あるいはやはり、現実逃避だっただろうか。
ゲル状の流動体が、どこからどうやって鳴き声を発しているのかというのは、少しだけ興味はある。
だが、そんなことよりも何よりも先に知るべきは、このモンスターから逃れる――或いは、退ける手段なのだ。
《タバコ吸う人ならライターという素敵アイテムを持ってたろうに。
私、生きて地球に帰れたら、喫煙者にもう少し優しくするんだ……》
だけれど、生憎、自分は嫌煙者だ。ライターなんて、蚊取り線香か仏壇の蝋燭に着火するときくらいにしか遣わない。
なにか火種があれば、或いは、ボトルに残ったワインでフランベにでもしてやって、その間に逃げられるかもしれない。
だけど、こんなだだっ広い草原で、火種なんてあるはずがない。
都合よく雷が落ちて、野火が起きる――なんて幸運を期待するにしても、異世界の空はあまりにも青かった。
《(急募)スライムを物理で倒す方法》
レベルを上げて殴ればいい――という回答をしそうな知人が何人もいるが、この現実にレベルなんてものはない。
大体、どれだけレベルを上げたところで、相手がスライムでは意味がない。
スライムというと最弱のモンスターという印象を抱いている人は多いが、それは某ロールプレイングゲーム以降の話だ。
それ以前のゲームにおいて、スライムというのは、属性攻撃を持たないパーティにとっての鬼門だった。
何故か。その理由を、いまから自分で確認することになるはずだ。そろりと膝を曲げて、足元の小石を拾い上げる。
小学生の頃、雑草だらけの空き地でやっていた野球ごっこ。ピッチャーをやったことはほとんどなかったけれど、内野だって一塁への送球くらいはするものだ。
思い切って、腕を振る。ビュッと風を切った小石は、狙い違わず、スライムのど真ん中に命中した。命中しただけだった。
ゲル状の流動体のなかに、石がずぶりと沈む。もっと勢いがあれば突き抜けたかもしれないが、だとしても意味はない。
もしいま、手元にマシンガンがあったって、スライムを倒すことなんて出来やしない。極端な話、水を撃ち殺すことなんて、誰に出来るだろう?
「あー……もう、やっぱり、なぁっ!! そうなりますよねっ!?」
自分の表情筋が引き攣っているのを、自覚できる。わかっていたことだ。スライム相手には、こうなるって。
それでも、結果がわかっていても、もしかしたらと試してしまうのが、人間というものの愚かさなのかもしれない。
そんな悟ったような思考を浮かべている合間にも、スライムはゆっくりと距離を詰めてくる。
こうなっては、もう、覚悟を決めるほかない。白骨さんから奪った――もとい、ありがたく頂戴したナイフを鞘から抜く。
凝った装飾が施されていて、もしかしたなら、魔法の力が籠められた逸品であるかもしれない。そう願うしかなかった。
「亜人型のモンスターじゃなくて、いまだけは感謝しとこう……」
ゴブリンとか、コボルトとか。ヒトに近い種族だったら、刃先を向けるのには流石に躊躇いがあったと思う。
そうでなくとも、見慣れた動物に似ているようなモンスターだったら、殺し殺されるという実感がありすぎる。
その点にだけ限れば、出てきたのがスライムだったというのは、ありがたいことだった。遠慮なく、斬りつけられる。
あの白骨さんのようには、なりたくない。ならば、ここでやるしかないのだ。手にした凶器の重みが、力をくれる。
「こんなところで――死んで、たまる、かッ!!」
――覚悟を決めて立ち向かえば、どうにかなる。そんなのは、フィクションのなかだけだった。
「っ……!?」
ナイフは、光を放ちはしなかった。炎を起こしたりも、冷気を纏ったりも、何もなかった。
包丁で羊羹を切るほどの手応えもなく、ナイフの刃はスライムの身体に沈み――そしてぐずぐずと溶けていった。
「……あっつッ!?」
慌てて柄だけになったナイフを手放して飛び退ったけれど、少し遅かった。
スライムが触手のように伸ばした身体の一部に触れられた手の甲が、薄っすらと煙を上げていた。
視線をやれば、そこだけ産毛がなくなって、肌もどこかぬるりとしているようだった。
理科の実験で、水酸化ナトリウム溶液――苛性ソーダを触ったときの感触に近いものがある。効果はそれどころではないけれど。
「そしたら、アルカリ……なのかな?」
もっとも、この推測が正しかったところで、状況が変わるわけではない。
ワインは確かに酸性の液体だけれど、ボトルに半分もない量で、数十リットルはありそうなスライムを中和しきれるはずがない。
嘆息して携帯の画面を見れば、殴れという東野の助言。バカ野郎。胸中だけで罵って、腕が溶けてしまうと返事をしておいた。
第一、ナイフが溶けたところをみると、本当にアルカリかどうかも怪しいところだ。アルカリで腐食する金属は、そう多くない。
いっそ、化学反応以外のなにかで溶けているにしても、驚きはしない。今朝からこの方、驚きとかいう感情は完売状態だ。
いまやるべきことは、スライムの生態についての仮説を立てることじゃない。
《オーケー逃げよう。とりあえず斬ってみたらナイフが溶けた》
もちろん、メッセージを書き込むことでもない気がする。三十六計、逃げるに如かず。頼れるものはもう、自分の両脚だけだ。
身を翻して駆け出せば、当然のようにスライムは追ってくる。それも、意外と素早い。
「コイツのどこが、雑魚だって……!!」
叫びたい気分だった。物理攻撃が効かないし、割と素早いし。某ロールプレイングゲームの広げたイメージは、罪深い。
もっとも、素早いといっても、所詮は不定形生物。全力で駆ければ引き離せる程度ではあるけれど、それをやってしまうと、直ぐにバテる。
全力で走ってスライムとの距離を広げて、スライムが諦めるのを祈る。或いは、付かず離れずのままで長距離を走って、スライムが諦めるのを祈る。
どちらをとっても、リスクはある。どちらを選ぶかは、賭けのようなものだった。
全力で走った場合、バテるまでに稼いだ距離がスライムが捕食を諦めるだけの距離に足りなかったら、それで終わり。疲れ果てて、もう逃げられない。
出来るだけ長くを走る場合も、スライムに縄張りのようなものがあるのかどうかが判らない。最悪、知性なんてなくて、目の前の獲物を追う――みたいな行動パターンだと、どこまで逃げても無駄かもしれない。いずれは体力が尽きて、追いつかれる。
どちらがいいのか。どうすべきなのか――悩む必要は、すぐになくなった。
「っ……とぁ!?」
選択肢に悩んで、足元を見ていなかったからか。自分のものではない靴だったからか。或いはそれ以外の要因か。
考えても仕方のないことだった。重要なのは、ただ、モンスターから逃げている最中に転んだという事実だった。
《こけた》
勢いよく打ち付けたせいで、起き上がれない。現実逃避気味に、そう報告する。
スライムの姿をとった死が近付いてくる気配を感じて。人生最期になりそうなメッセージを、冗談に紛らわせて書き込むことにした。
《死ぬ前にPCは処分したかった……》




