響きの糸
翌日からアデルリーナはスルミナの元に通った。エンハルトが送ってきて、夕刻迎えに来る。エンハルトの方もマダン達にしごかれているらしい。エンハルトの代わりの護衛たちはアデルリーナの前には現れないが、どこかから見守っているようだ。
アデルリーナは毎日テレージェかドラと森の中で薬になる素材を集めて回った。薬草はもちろん、新芽や葉っぱ、蕾や花びら、さらに木の皮や石塊、土まで採取するのだ。アデルリーナが初めて見る素材も多かった。
「芽でも葉でも蕾でも、全部を摘んでは駄目よ。次の年のために残してあげなくては」
テレージェはそう言いながら、慣れた手つきで蕾を摘んでいく。アデルリーナも薬の知識は教えられていたし、簡単な調薬はやったことがあるけれど、素材を一から集めるのは初めてだ。
集めた素材を持ってスルミナのねぐらに戻り、仕分けをして処理をする。干すもの、煮るもの、漬けるもの、燻すもの。そのまま使うものも刻んだり混ぜわせたりと結構忙しい。
「素材はそれぞれ一番力がある季節があるの。だからその時を逃さないように処理しておくのよ」
「必要な時に使えるようにしておくんだ。それに今回は洪水があったから、かなり在庫も減ったしね」
ドラの言葉にアデルリーナおや? と思う。隠れ住んでいて人前には出ないのかと思っていた。作った薬は一族のために使って、余ったら城に売るくらいなのだと。
「洪水の時に、皆にもお薬を出してくださったんですか?」
「もちろんだよ。普段から薬師として町や村に降りていくし、時には占いのようなことも頼まれたりもする」
「でも、幽霊みたいなものだとおっしゃってました」
「それは本当さ。どこにいるのか、どうやって暮らしてるのかは知らないんだから。あちらも知らないままにしておいた方がいいんだしね」
面倒なことになりそうだから関わりあうのは避けたいということか。何かあっても、いないはずのものなら知らぬ存ぜぬで終わる。
「森の魔女とか森の女神とか呼ばれたこともあったみたいだけど、どちらも今のご時世にはごめん被りたい呼び名だね。危なくっていけない。幽霊のままでいさせてもらった方がありがたい」
危ないという言葉の意味にアデルリーナは背中がひんやりとする。教会から咎められたら、と思うと怖い。
「それでも私たちの薬を待っていてくれる人もいるし、困った時に手助けを求められたりはするの。修道院へも薬草を届けたりもしてるのよ」
テレージェがあっさりというけれど、修道院? それは大丈夫なのだろうか? と思った時にふと気がついた。サリスタット修道院の院長はアデルリーナの大叔父、つまりセルペンテスの弟だ。
「大叔父様の?」
「そうそう、ロシュタットの御領主一族は『森』に理解が深い。だから助かっているんだ。もっともあちらさんも手に入れにくいものばかり頼んでくるけどね」
スルミナは笑いながら言う。ある意味では持ちつ持たれつということなのかもしれない。どちらかが一方的に庇護するだけでは長続きはしないものだ。世の中は単純じゃないんだ、とアデルリーナは思った。
スルミナたちは、アデルリーナを森のあちらこちらに連れて行き、薬師としての知識と技術を教えながら、アデルリーナがその日に聞こえてきた『音』について話をさせた。どんな時にどんな音が聞こえたのか、その時にテレージェたちに何か視えたかどうか。
そんな風にして六日が過ぎた。
七日目、スルミナはアデルリーナだけを伴って森の奥にある滝に連れて行った。木立の間に幾重にも響く流水音が聞こえる。足を進めると絶え間なく響く重低音があたりに満ちてきて、近づくにつれて音が大きくなってくる。
目の前を覆っていた木々の葉に明るい光が差してふいに視界が開ける。白く砕けた水飛沫が銀色に輝き、落ちる水がカーテンのように岩場を覆い、その脇に小さな虹がかかる。ひんやりとした空気の中に漂う緑の匂い。
高さは15メートルほど、幅は20メートルほどだろうか。壮大というよりもどことなく優美さも感じさせる。
深く青い色に染まった滝壺は落下する水に白く泡立ち、水煙が立つ。流れる水はどこまでも清く澄んでいる。鮮烈で清浄な中に轟音だけが響き渡る。ある種の静寂さを感じさせる世界。
「ここは女神たちの水浴場と言われている。男は立ち入れない聖地だ」
滝の音がうるさいはずなのに、スルミナの声ははっきりと聞こえた。アデルリーナは辺りを見渡す。確かにこれほど美しく清らかな場所ならば、女神たちが水遊びをしても不思議ではない。
「あたしらが薬を作るときはこの滝から汲んだ水を使っている。効き方が違うんだよ」
「では、甕にあった水はここから?」
「そうだよ。帰る時にはルリナも汲んで持って行っておくれ」
そのために桶と瓶を持ってきたのか、と合点がいった。本来なら領主の娘で姫と呼ばれるアデルリーナがすることではない。けれど、ここでは単なる弟子の一人だ。アデルリーナは躊躇うこともなく頷いた。
「この水は城の横を流れるラント川に続いている。男たちは戦いに赴くときは、その川で体を清めていくんだよ。女神たちの加護があるようにね」
戦いに赴く時。アデルリーナが生まれてからはロシュタットでは大きな戦いはなかった。けれど他国や他領では鉱山や港を巡る戦いがあることは知っているし、教会の要請で異教徒の討伐戦もある。
祖父や父が王からの命令で他国の異教徒との戦いに赴いたことがあるという話も聞いている。二人は無事だったから今があるが、領主である父たちが戦地に向かうときは、家臣団はもとより、森の傭兵たちも一緒に出向いたのだろう。中には不帰になってしまった者もいたはずだ。
「加護は、あったのでしょうか?」
そう聞かずにはいられない。
「あったのかも知れないし、なかったかも知れない。でもね、生きて帰ってきた者たちは加護があったと信じているし、死んじまった者たちも加護がなかったわけじゃなく、守るべき人やものを守れたっていう意味では加護があったと思いたいね」
守るべき人やもの。それは王や領主ということではない。自分たちが暮らす場所、そこに住む人、それらを守るために戦いに赴くのだ。ましてや異教徒を自分たちの神に服従させるためでは決してない。
加護があるから信じるわけではない。信じるから加護があるのだ、とアデルリーナは思った。
スルミナは滝に向かって歩き出した。慌ててアデルリーナも後に続く。
滝の脇に狭い足場のような岩が出ている。大人の足の片方がなんとか乗る程度だ。スルミナはそこに片足をかけて、するりと滝の裏側に入っていく。そこには岩が細い通路のようにつながっていて、裏側から滝を見上げることができた。
「すごい……」
アデルリーナが感嘆するとスルミナは少し微笑んだ。
「こちらだよ」
スルミナの後に続くと、滝の真ん中たりに、人が一人入れるくらいの小さな穴があった。スルミナはそこに入っていく。入り口は狭かったが、中は頭を屈めることもなく岩肌にぶつからない程度の広さがあり、光苔のようなものが辺りを照らしていて、そこをスルミナはスタスタと歩いていく。
しばらく歩いていくと出口が見えた。眩く明るい陽の光が差し込んでいる。穴を抜けると目の前にロシュタットの最高峰であるアトス山脈のシェツリア山が見えた。右手にはヴォルネ山脈の山々が連なっている。
アデルリーナたちが立っているのは山に突き出た大きな岩場の上だった。岩場の淵は切り立った崖になっている。平らで広いそこには光が降りそぞき、天上からはまるで舞台のように見えるだろう。
「ルリナ、何か聞こえるかい?」
呆然としていたアデルリーナはスルミナの声に我にかえる。言われてみれば、何も聞こえない。『糸』としての音だけではなく、あれほど響いていた滝の音も、風や葉擦れの音も鳥の鳴き声も皆無だ。
「何も、聞こえません」
「やっぱり。ここはあたしらの女神ダーナ、大神が支配しているからね」
女神の支配する場所、結界も張られているのかも知れない。音さえも聞こえないと言うことは、何も干渉できないということなのだろう。
「ここは祈りの場であり、感謝の場だ。ルリナ、あんたは神様の楽器だと言っただろ? だけど、ここじゃその神様たちもあんたを好きなように奏でることはできない。女神ダーナに捧げるものだけが許される」
そういうとスルミナはアデルリーナを岩場の真ん中に座らせた。
「さて、ルリナ。あんたがあんた自身を使って女神に捧げる曲を奏でてごらん」
自分を使って曲を奏でる? そんなことができるとは思えない。自分自身が神様の楽器だと知ったのはつい最近だし、その実感は今でもないのだから。
戸惑うアデルリーナの手を取ってスルミナは言う。
「まず、目を閉じてごらん。自分のいる場所を頭の中に描いて」
アデルリーナは言われるままに、先ほど見た周辺の風景を思い浮かべる。ふわりと体が浮くような気がした。
「ルリナ、あんたの得意な楽器はなんだい? 楽器がなければ歌でもいい」
音楽は貴族の娘としての教養で一通りのものは習っている。『糸』ならば弦楽器の方いい。フィドル、リュート、ハープ……。
「得意、というわけではありませんが、リュートなら。ただ弾けるのは子供用のものですけれど……」
「そりゃそうだ。ルリナはまだ子どもなんだから、それでいい。それに子供用だろうと大人用だろうと関係ない。じゃあ、自分自身がそのリュートになったことを想像してごらん」
リュートになった自分。なんとなくだけど想像してみる。
「うん、できたようだね。そうしたら、その自分に自分の手で音を出してみるんだ」
自分が二人になるけれど、あくまでも想像するだけだ。アデルリーナはもう一人の自分を弾き手にして糸を爪弾いてみる。自分の内側から音が響く。
「えっ?!」
驚いて目を開けたアデルリーナにスルミナは微笑んだ。
「それでいいよ。そのまま何か曲を弾けるかい?」
女神に捧げる曲。セレスト教の讃美歌ではあまり好ましくはないかも知れない。アデルリーナはロシュタットの古い子守唄を奏でた。遠い昔、この地にやってきた祖先たちから伝わるものだ。
アデルリーナが弾き終えると、金色の光の粒が舞うように降ってきてアデルリーナを取り囲む。
「女神には殊の外ご満足いただけたようだね」
スルミナも満足そうだ。アデルリーナは少しはにかむ。
「拙い演奏だったと思いますけれど……。お師匠様にも聞こえたのですか?」
「いいや」
スルミナは首を振る。
「だけど、金の光の粒が降ってきたんだ。奉納に対する祝福だと思うのが当たり前だろ?」
そういうものなのか。
「これでルリナは女神ダーナのお気に入りの楽師であり、楽器として認められただろう。いかな神様たちだって、大神様のお気に入りを好き勝手に使えなくなるとは思わないかい?」
アデルリーナにはスルミナのいう意味が飲み込めない。
「この一週間、テラやドラにルリナの周りを視ているように言いつけておいたのさ。そうすると、ルリナの周りに時々神様たちらしい光が取り巻いているっていうんだ。まあ、別に糸を弾いて音を出すだけなら悪いことをしているわけでもないし、ルリナもそれを受け入れているようだから構わないけどね」
スルミナはそこで一度言葉を切る。
「だけどね、神様たちに好かれるってことは、そうじゃないものも惹き寄せるってこともあるんだ。それに神様の中にはいたずら好きなお方もおいでだしね。悪意じゃなくてもとんでもないことなることだって少なくない。ルリナがそれに気づかず、知らないままでいたら危険な目に遭うかも知れない」
これまではそういうことはなかったけれど、悪意のある何かがアデルリーナ近づいて偽の音を奏でたら、ひどい時には戦争の引き金になるようなことや、病を蔓延させるようなことだってあるかも知れない。アデルリーナに聞こえる音は良いことばかりを告げるとは限らないのだ。
「だからあたしらは考えたんだ。一つはルリナ自身が自分が神様の楽器なのを認識することが必要だってね。もう一つはその楽器を守るためには何がいいかって」
自分自身が楽器だと認識すれば、自分のものを勝手に他者に触れられないよう意識することにつながる。その上で、上位の神様に守ってもらえればさらにいいだろうということになったという。
確かに勝手に自分に触れられるのはいい気分ではない。実際の身体ではなく形のないようなものであったとしても。
「でも、わたくし、どうすれば触れられないようにできるのかわかりません。実態がないのですもの」
「ルリナ、あんたは自分で弾いただろ? その時はどうだったんだい?」
自分がリュートになって、それを自分で弾いた。リュートがそこに『ある』ものとしていたのだ。
「そこにあるものとして意識していました」
「そこにあるものなら、隠すこともできるんじゃないのかい?」
あっ、とアデルリーナは思った。確かにそのとおりだ。アデルリーナは自分の内にリュートを隠す扉をつけてみた。これで無闇に触れられて音を奏でることも無くなるのだろうか。
「このあたりにいるような神様は、大神様の眷属がほとんどだから悪さもしないだろうし、大神のお気に入りの楽器を疎かにはしないだろうけど、他の場所じゃどうかわからないからね、ルリナはそれの扱いを覚えなくちゃいけないだろう」
実態のあるものを動かすのとは違う。形のないものの扱いを意志の力だけで行うことは、簡単なようでいて難しい。人間には雑念が入るのだ。
それでも、自分の力がやっと自分のものになったような気がするアデルリーナだ。
「大神、女神様のお気に沿うように、頑張らなくてはいけませんね」
実際にリュートの練習をすればもっと上手くなるだろうか、と考えた時スルミナが言った。
「形のないものを扱う時には、形のあるものから入るのは正しいやり方さ。それにね、正しい考えは知識と経験から培われるもんだ。ルリナはこれから勉強することがいくつもあるだろう。だけど、無駄になるものは何一つないよ」
知りたいことは山ほどある。過去の「響きの糸』のこと、そもそも『響きの糸』と呼ばれ始めたのはいつなのか。ロシュタットのこと、森の民のこと、セレスト教のことだっても知らないことだらけだ。
学ばなければ。アデルリーナは師匠の顔を見て大きく頷いた。
響きの糸としてのアデルリーナの自覚ができてきました。けれど力は諸刃の剣。自身でコントロールするには訓練も必要です。スルミナの教えも続きますが、さらに勉強させられることになるようです。




