エピローグ
———朝焼けが始まる前の、空が紺色を帯びる静かな時間。バンプキン領の朝は早く、畑には既に、領民達が作物を収穫する為に集まって来ていました。
今年のバンプキン領の芋はとびきり美味しいと評判です。なんせ、今回は肥料が違います。いつもは痩せ細って栄養がスカスカな土から辛うじて採れていたものが、ある大物が後継人としてついた事で、最高級の肥料を潤沢に使用する事が出来ました。
バンプキン領は他領に卸すだけでなく、自家販売も行っております。もちろん手紙でのご注文を頂ければ、遠く離れた領地にも産地直送荷馬車での販売事業も———
「って! なんでアンタまで畑仕事をしてんのよっ! いい? ミーア。アンタはアタシの婚約者なの。これからは外聞にも影響が出るんだから、アンタも言動には気をつけなくっちゃ駄目なの。わかったかしら?」
「だ、だってぇ……! 今日はこれから王妃様主宰のお茶会があるんですよ……? 私なんかが行っていい場所じゃないですって! 無理ですよぉ〜……!」
そう、べそべそと泣くのは、今をときめくマーリオ・ビスコンティーヌ氏の婚約者であり未来の花嫁、ミーア・バンプキン嬢。彼女は一躍時の人となりました。なんせ、あの英雄の子孫である、マーリオ氏の最愛の人として一気に社交界を駆け上がっていったのですから。
この春学園を卒業した彼女は、半年後に婚礼をする事が決まっています。長らく暮らした生家を離れて、今はビスコンティーヌ邸で暮らしていますが、時折こうして帰って来ては、早朝からの日課だった野良作業に勤しんでいるのです。
———そう。目まぐるしく移り変わっていく環境に置いていかれないよう、心を落ち着ける為に。
「だってだって! 無理ですもんっ! 私の他に招かれている方って、最低でも伯爵令嬢以上の高貴な身分の方々ばっかりなんですよっ!? お茶を派手に溢したりとか、すっ転んで他のお嬢様を巻き込んだりとか絶対するに決まってますもん! それで制裁を加えられたりして……あ、想像するだけでお腹が痛くなって来た……」
「もう! やあねえこの子は。……いい? ミーア。アンタはアタシの宝物なの。そんな大事な人に、誰も危害を加えやしないわ? 今日呼ばれる皆は分かってるから、必ずアンタを助けてくれる。今のアンタはお作法もダンスもきちんと出来てるから大丈夫。アタシと沢山特訓したでしょう? ね? 自信を持って頂戴?」
「マリー様ぁ……!」
マーリオの言葉に胸を打たれ、ミーアはじんわりと目尻に涙を浮かべます。そうだ。なにをやっても失敗してばかりの自分を相手に、彼は決して諦めず、辛抱強く付き合ってくれたっけ。
これまでの辛く険しい道のりにミーアは思いを馳せます。ダンスでは体格差についていけずにマーリオの足を踏みまくっては怒られ、テーブルマナーでは、彼の親族———もとい、対王族用に対応する為に見たこともないような食事に戸惑い、フォークを落っことして怒られたり……いや。そういえば怒られてばかりであまりいい思い出がない。
そこまで思い出してからミーアは頬を膨らませました。マーリオに再び会えて確かに嬉しかったけれど、肝心の、どうして自分を選んだのかを詳しく聞いていません。
「……そういえば、マリー様はどうして私に結婚を申し込んだんですか? だって! マリー様って、私のお爺様が好きだったんでしょう? こういっちゃなんですけど、男性が好きって事ですよね……?」
ジトっとした目つきで、ミーアはマーリオを見上げます。
「あら。アタシそんな事、ひとっことも言ってないわよ?」
「は?」
予想外の答えにミーアはキョトンとしてしまいました。マーリオは心外そうな顔をしながらミーアと視線を同じにすべくしゃがみます。
「アタシはアンタのお爺様———アランの心根に惹かれたの。彼はとっても素敵な人だったわ? 穏やかで、知的な眼差しがアタシは大好きだった。彼が隣にいるだけで、まるで新緑の木々に身を預けているかのように心安らげたの。だから性別だなんて関係ないのよ?」
「そう、なんですね……って! じゃあ、私を選んだ理由は……? マリー様の本性を知ってたから、とかですか……?」
「いいえ。それだけじゃないわ? アタシね。目覚めてからすぐ、アンタに会いに行きたかったの。これは本当よ? でも身体の方はずっと寝たきりだったじゃない? 筋肉もすっかり落ちちゃって、随分とほっそりとしちゃったわ? アタシが起きた事、お世話にきてる使用人達から連絡がいったのね? すぐに王城に保護されて、みるみる元気になっていくうちに、レオンのヤツに言われたの。今更死んだはずの英雄が姿を現してみろ。しかも当時の若いままで尚更出てこれないだろうって」
「はあ……まあ、そうですよね……?」
自分を選んだ理由を聞いただけなのに、内容がどんどんずれていくのは気のせいでしょうか。なぜに今その話を……? と、ミーアは訝しがりつつも相槌を打ちます。
「それでね、かの英雄に実は隠し子がいたって事にするのはどうかって提案してきたのよ? ほら、アタシってばいろんな方面から恨まれてたじゃない? それこそ何度も命の危険があったんですもの。 ……本当に困ったものよね。黙っていても向こうからやってくるんですもの。まるで沢山の羽虫達を惑わす麗しい花のよう。ね? アンタもそう思うでしょう?」
「いや思いませんけど……?」
最早恒例となりつつあるミーアの返事を聞いているのかいないのか、マーリオはほう、と艶めかしくため息をつくと、ミーアの頬についた土汚れを親指で拭います。
「それでね。レオンのヤツ、なんて言ったと思う? 『空席のままだったビスコンティーヌの爵位を継ぎたければ、どっかのご令嬢を引っ掛けてこい』だなんて言ってきたのよ? 『誰でもいいから見つけろ。さもなくば強制的にこちらで決めたご令嬢と結婚させる』だなんて言うんですもの。ほんと失礼しちゃうわよね? 誰でも良いだなんて、アタシはそんなふしだらな人間じゃあないわ? 爵位だって元々はアタシのものなのに」
「えっと……それって、まさか……」
「うふ。当たりよ? 結婚するならミーアしかいないって思ったのっ! それに、アンタはあの人の血を受け継いだ子ですもの。運命的だと思ったわ? きっと、あの人がアンタと引き合わせてくれたんだって」
夢見る乙女のように瞳を潤ませて、マーリオは空を見上げています。紺色一色だった空は朝焼けを帯びて徐々に明るくなっていき、彼等の未来を祝福しているかのようです。
ミーアは納得しかけて———思い留まりました。今のミーアはマーリオと出会った頃よりも沢山の経験を積んでいるのです。言葉を素直に信じる危うさだって少しは理解しているつもりでした。今の話もなんだか美談のように聞こえるけれど、それはつまるところ……
「……いや、単に都合が良かったからなんじゃ……?」
「やぁねぇ? そんな捻くれた事言って! アタシ、これでもアンタの事、愛しているのよ? それこそ、あの人に負けないぐらい。……ううん。きっと、それ以上に」
「本当に……?」
「ええ。勿論よ?」
マーリオはふわりと笑います。彼の眼差しに射抜かれて、ミーアはドギマギとしてしまいます。ほんのりと赤く色づいた頬を隠すように、ぷいっと顔を背けました。
「…………それなら、もうちょっと頑張ってみても、いいですよ」
くすり、と小さく笑いながら、マーリオはミーアを宥めます。
「ねえ? ミーア。そっちを向いてたらわからないわ? アタシにお顔を見せて頂戴? アンタのその若草色の綺麗な瞳、アタシ、大好きなの。 ……ね? お願い」
「……それは初耳です。これも本当ですか?」
「ええ。本当よ?」
「………………えへへ」
振り返り、へにゃりと眉を下げながら、ミーアは照れたようにはにかみます。マーリオは彼女の髪を優しく撫でてあげ、後頭部に掌を添えながらを引き寄せます。ミーアはそっと目を瞑りました。唇と唇が触れ合う瞬間———
「……イチャつくのもいい加減にして頂けますか? マーリオ様。こちらに居たのですね? お迎えにあがりましたので、早々に馬車にお乗り下さい。 ……さあ、ミーアさんも」
二人の間に朗らかなアルトの声が響きました。声の主は、紫色の瞳を細めて、面倒くさそうな顔を隠そうともしません。
「へ、ヘリオ君……! いつからそこに……!?」
「そうですね。割と始めの方からいましたが」
「え、ええぇ……っ!」
という事は、頭を撫でられているところも、口づけを交わそうとしていたところも! ヘリオにバッチリ目撃されていたという事です。ミーアは恥ずかしさのあまりボッ! と顔から火がでそうなほど真っ赤になりました。
「い、いるならすぐに言って下さい……! ハッ! そういえば、マリー様! 喋り方を直さないと!」
「ああ、大丈夫よ? この子には全部話してあるからっ!」
一連の流れを見られたというのにまるで気にもかけず、マーリオはあっけらかんと答えます。彼の言葉を肯定するようにヘリオも頷きました。
「ええ。かの英雄がまさかオカマ……失礼。女性的な性格の方だとは思わず衝撃を受けたものでしたが……大丈夫ですよ? 僕はこれでも口が硬いですからね。誰にも漏らさない事を誓いましょう」
———オカマ。前時代的なその発言を耳にした瞬間、マーリオが鋭い視線を送ってきたのを察知し、ヘリオはなんでもない顔で言い直しました。長らく組織というものに属している彼は知っているのです。上司に上手く取り入ることこそが、長く安定した生活を送る基盤になるのだと言う事を。
「……まあ、それはともかく。早く王城にお越し下さい。お召し物も全てこちらでご用意しておりますから、ミーアさんは着替えなくても結構ですよ?」
「あっと、そうなんですね? 何から何まですみません、ヘリオ君」
「いいえ。良いのですよ? 貴女が楽しそうにしているのを見るのが、僕の楽しみでもあるのですから」
ある種の誤解を招きそうなヘリオの発言に、マーリオはミーアの腰へ手を伸ばし抱き寄せます。
「ああら。なあに? ヘリオ。アンタ、まさかミーアの事狙ってるんじゃないでしょうね? ……駄目よ? この子はアタシのなんだから。未来永劫ずうっと、ね?」
ぎゅう、っと回した腕の力を強めて、ミーアを自身の胸元に深く抱き込んでしまいます。ミーアは「わっ!」と声を発しながらバタバタと身動ぎをしますが抜け出せそうにありません。
なにをやってるんだかと言いたげな顔をして、ヘリオはさっさと馬車に乗るよう二人を促します。
「まあ、冗談はそのくらいにして早く行きましょう。ミーアさんは汚れも落とさなくてはいけませんから支度に時間がかかりますよ? 今から行っても遅いくらいです」
「ええっ!? お茶会って、確かお昼からですよね……?」
「いいえ。ただ招かれているだけではないのです。ミーアさん。貴女は試されているのですよ? 実は、今の王妃様はかの英雄の崇拝者だったのです。憧れであった方が生きていて、それをぽっと出の貴女に盗られたのだと思っているでしょうから、どちらかと言うと憎らしく思われている筈。貴女が如何にマーリオ様に相応しいかを始終観察される事でしょう。 ……ですから、貴女の為に一つ、助言をして差し上げましょう。誰よりも早くに会場入りを果たし、さり気なく王妃様を助けて差し上げるのです。本日は沢山のご令嬢が招かれているのですから、きめ細やかに応対するのは難しい筈。王妃様のお心を溶かす事が出来れば、貴女は誰にも害される事のない安寧を手に入れられるでしょう」
ヘリオは簡単に言いますが、ミーアからしたら、いや結構難しいのでは……? だなんて思います。そもそも国でトップクラスに入る高貴な方の手助け等、出来る自信がありません。
「な、なるほど……! でも、私に出来るでしょうか?」
「あら。大丈夫よ? 今日はアタシも陰からこっそり手助けしてあげるから!」
「マリー様ぁ……!」
抱きしめたまま色っぽくウインクをするマーリオを、ミーアは心強く感じます。彼が協力してくれるならば、きっとなにが合っても大丈夫。ミーアは感激してマーリオを見上げました。じっと見つめ合う二人の甘やかな空気をぶった切るように、ヘリオはコホン、と咳をします。
「マーリオ様……貴方は近衛隊隊長としての仕事がある筈ですが……? 本日も、9時から会議がありましたよね?」
「まあまあ、いいじゃないのっ! どおせたいした話しないんだしっ! ……そうだわ? ヘリオ、アンタ代わりに出といて頂戴? それならアタシがいなくたって大丈夫でしょう?」
「はあ。 ……まあ、良いですが」
割とままある事のようで、諦めたように了承するヘリオに、ミーアは驚いてしまいます。
「良いんですか……? え、えっと……では、マリー様。今日はよろしくお願いしますね?」
「ええ。任せておきなさい? アタシがちゃあんとアンタを導いてあげるわ!」
「……えへへ。マリー様がついていてくれるなら百人力ですね?」
「でしょう?」
それから、二人は微笑みながら、馬車へと乗り込みます。その後ろ姿を見送りながら、ヘリオはやれやれと首をふり、後に続きました。
彼等を乗せた豪奢な馬車は王城へ向かって走りだします。
空にはすっかり太陽が登りきり、キラキラとした日差しがバンプキン領に降り注ぎ、彼等がいた場所には爽やかな風が吹き抜けていきます。
二人一緒ならば。
どんな事があったとしても、きっと乗り越えていけるでしょう。
———昔々、あるところに、全てを失った騎士がいました。
毒に敗れ、永きに渡る眠りから騎士を目覚めさせたのは、貧しい貴族のお嬢様。様々な困難を乗り越えた二人は、末長く幸せに暮らします。
彼と、彼女のお話は、これにて終幕と致しましょう。




