白鳥のお告げ
私はそこまで言ったあと、小さく息を吐いた。
「……って、あのとき面と向かって言えてればよかったね」
どろっとした気持ちに蓋をして、向かっていくこともせず一方的に被害者になってめそめそしていた私もどうかと思うのだ、今となっては。結局私は「傷つけられた」という事実で自分を守って楽な方へと逃げていたのかもしれない。
「言いたいこと言ってたら、ケンカにはなったかもだけどこんなにお互い引きずらなかったかも。だから、……私もごめんね」
見つめ合う。長い沈黙の後、戸部はぼそりと言った。
「そんなの……。謝るのは俺の方だし。傷つけて、ほんとに、ごめん。自分のことしか考えてなかったって、俺も思ってるよ。ただ、あんな思いさせてどうやって謝っていいか悩んでるうちにどんどん時間が過ぎて。……怖くて」
「弱虫」
「……うん。ごめん」
「いいよ」
私はうなずいた。苦い思い出は、今まで以上に上手く消化できそうな気がしていた。言いたいことを言ったら思いのほかすっきりしたし、戸部もずっと後悔してきたんだったら楽になってほしい、と思えたからだ。私の心を癒したのはすぎた時間で、彼の心を癒すのは私の「いいよ」であればいい。
「ほんとに、もういいから」
戸部は表情を変えなかったけれど、不意に眉をしかめたかと思うとくしゃみをふたつした。
それを合図にしたかのように、夕闇を切り裂き近づいてくるバスの大きなヘッドライト。
バスに乗り込んだ私は窓から戸部を見る。
「バイバイ」
手を振る。彼は手を振り返さなかった。
※
「奈緒」
次の日もまたバス停に戸部が立っていたときは驚いた。もうここで会うことはないと思っていた。謝って、許し許された。それで完結したと思っていたのに。
両手をポケットに突っ込んで、寒そうに丸まった背中、薄暗い中でも分かる赤い鼻。相当ここで待っていたのかもしれない。今日は金曜日で、土日に勉強を頑張ろう、ということで友達とお気に入りの店でケーキを食べて長いことおしゃべりをしてきたのだ。今季一番の寒さになるでしょう、という朝の天気予報通り、冷たい北風が道端の落ち葉を巻き上げている。
「さ、さむそう」
「寒い」
「……私、昨日結構ひどいこと言ったと思うんだけど」
ちょっと言いすぎだっただろうか、と帰ってからもんもんとしていた。侑は、戸部先輩そのバス停の近くもう歩けないんじゃない、なんて言っていた。
「別に。あれくらい言われて当然だし。でも、俺もう謝らないよ」
「だからもういいってば……。今日はそれ言うためにここで待ってたの?」
「違うよ」
戸部は空を仰いだ。雲の隙間に見える紺色の空にはもう星が見えている。
私はベンチに座った。冷え切った空気にさらされていたベンチはとても冷たい。
「戸部もよかったら座る?」
「奈緒んちの椅子か、ここは」
軽口を叩きながら彼はぎりぎりのはじっこに座った。
「……あのさあ。俺さあ」
その言葉を遮るように、私のスマホの呼び出し音が響いた。「自宅」の表示が出ている。通話ボタンを押すと同時にコウの大声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん、いつかえってくるの?」
「もうすぐだよ。今バス待ってるとこ」
「ねえねえ、あれ、おみやげ、買ってくれた? コウの大好きの!」
「もちろん。すぐ、帰るから待っててね」
「ユウも待ってるからあ」
最後の気持ち悪い声色は侑だ。じゃあね、と電話を切る。熱はすっかりさがりいつも通り元気いっぱいになったコウだけど、大事をとって保育園を休んでいる。今日の朝、元気がありあまっていて暇だ暇だと不機嫌だった。友達とケーキ屋さんに行く予定だから、コウのお土産を買ってくるからね、と約束したのだ。
「今のって、下の弟? もう五歳ちかく?」
「うん。そうだよね、戸部は知ってるもんね。生まれた次の日、一番に報告したの、すごい覚えてる」
「可愛すぎてお世話が楽しいって、めっちゃ楽しそうだった。そっか、トシとるわけだよ。その子がもうぺらぺら話してるんだから」
どこのおじいちゃんだ。その口ぶりに私は噴き出した。戸部もつられて笑い、久しぶりに二人で笑い合った。そしてついさっきのことを思い出す。
「ごめん、電話の前、何か言いかけてたよね」
「え? あー、いや、やっぱいいや」
何かを言い淀む彼を見て、私はしみじみとした気持ちになった。
「戸部、変わったね。なんていうか、前はなんの迷いもなく思いのままに生きてる感じだった」
「大人になったって言って」
戸部は苦笑する。
「奈緒は変わらないよな。前も今も、ずっとやさしい」
「い、いや、そんなことはないと思うけど。戸部はみかんのことをいつまでも恩に感じすぎだよ」
お前ってやさしいよなーと言われたのは中学一年、給食のデザートのみかんを戸部にあげたときのことだ。戸部とよく話すようになったのはあれがきっかけだったような気がする。みかんをあげただけで、あんまりしみじみと言われたものだから、かなりおかしかった。それ以来戸部は私のことを良い人認定してくれて、何かとやさしいやさしいと言ってくれていたのだった。
「みかん? 別にあれだけでやさしいとか言ってたわけじゃないけどさ」
分かってないな、奈緒は自分のこと。戸部はいたずらっぽく笑った。なんと答えていいか分からず、私は少し赤くなってしまった。誤魔化すように咳払いをする。
戸部が空を指差した。
「あ、白鳥」
彼の指の先を見たら、連なって飛ぶ群れがあった。白鳥の声は好きだ。冬のきんとした空気にどこまでも染みわたるような高い声。ほんとだ、とその声を聞きながらなんとなく見とれていた。ふと横を見たら戸部が今度は私を見て笑っていた。ぽかーんと口を空けていたのを見られたかもしれない。私はさっきより赤くなってしまって、あーさむいとマフラーに顔をうずめた。
「好き、って言ってたよな。白鳥、昔から」
「え、言ったことあったっけ。密かな趣味だったのに」
「あれで密か? キーホルダーとか文房具とか、白鳥だらけだったじゃん……。一昨日もさ、奈緒のこと思い出してたら、ちょうど白鳥が飛んでるの見かけてぼーっとしてたんだ。そしたら、たまたま帰りが一緒になった友達にいつもは行かない図書館に誘われて、そのときだよ。奈緒見かけたの。もう、行くなら今しかないぞって、何者かに言われた気がして」
「何者かってなに」
「わかんねー。白鳥とか?」
「なにそれ」
膝の上にはケーキ店で買った、コウへのお土産のシュークリームがある。大好物の帰りを待っている弟の姿が目に浮かぶのに、もうそろそろバスが来る時刻になるのがほんの少しだけ寂しい、とか思ってしまうなんて我ながら単純だと思う。
一際強い風がふき、耳たぶが痛くなる。戸部はくしゃみをした。五回も。こんな寒空の下長時間過ごして、テストなのに風邪をひいたら大変だ。私はティッシュを差し出す。
「ほんとにもう、ここで待ってなくてもいいからね。私、ちゃんといいよ、って本当に思ってるから」
「それは分かってるよ。だから、今日は、謝るためじゃなくて」
言葉が途切れる。戸部はティッシュを受け取り、鼻をかんだ。
「ちゃんとテスト勉強も、したほうがいいよ」
見た感じ、勉強しながらこのバス停で待っていたわけでもなさそうだ。中学のときもテスト前日になってやばいやばいと騒いでいた戸部が心配になる。さっきとはまた別の白鳥の一団が鳴きながら頭上を行き過ぎ、その鳴き声がそうだそうだ、とまるで私の言葉に同意するかのように響いた。
戸部は、はは、と小さく笑い、赤い鼻で目を伏せたまま言った。
「会いたかっただけ」
「え?」
「奈緒。……また、これからも会いたい。だからこれからもここにきていい?」
不意打ちの台詞に、私は固まる。見たこともない戸部の顔に、あの傷とは全然別の場所が痛くなったけど、これは直してくれる薬なんて、今のところあるはずない。
私はシュークリームの箱をぎゅっと握った。
「もうここで勝手に待ってないで」
「……だよな」
「待ってられると思うと、心臓に悪いから……」
「確かに。ストーカーみたいだよなあ、俺」
「じゃなくて。待ち合わせしてからなら、いいよ」
「……」
戸部は顔を覆って下を向いてしまった。
「なに、まさか。泣いてんのー。戸部」
「……」
冗談で言ったのに、戸部は顔をあげない。え、ほんとに泣いてるの?
「ご、ご、ごめんね」
私は焦ってハンカチをポケットから出した。ずいっとそれを押しつける。受け取る冷たい戸部の手が、私の指先にふれた。彼の肩が震える。
「白鳥柄。やっぱり全然秘かじゃない」
「え? あ、うん。可愛いでしょ」
濃紺色の生地に小さな白鳥がたくさん飛んでいる柄のハンカチを見て、戸部が笑った気配がした。私はほっとした。だから、戸部が妙に鼻声で、俯けた顔をあげようとしないのは、もう気にしないことにする。
ちょうど時刻表ぴったりの時間になり、バスのライトが近づいてきた。
「じゃあね」
立ち上がって言うと、戸部はハンカチを持っていない方の手で、小さいけど、確かに手を振った。




