ついにギルドへ
「ゲゲッ、ゲホッ!」
ホブゴブリンは満足げな表情を浮かべていた。
人間が見れば、まさに地獄絵図というべき光景。しかし彼にとっては、実に喜ばしい眺めだった。
「キャアアアッ! 来ないで! 助けてぇ!」
幼いゴブリンたちに喰いちぎられる女。
「殺して……お願い……」
成体のゴブリンに陵辱されながら、消え入りそうな声を絞り出す女。
「ヒヒヒッ! ゴブリンが四匹、五匹、六匹! キヒヒッ!」
自分が産んだゴブリンたちを見て、泣きながら笑う女までいる。
だが、このゴブリンたちの新たな王は、それでも満足していなかった。
少し前に入ってきた報告のせいだった。
人間の武器を持たせて送り出した狩猟部隊のゴブリンたちが、馬車一台に全滅させられたというのだ。
自らが登場して以来、群れの知能も徐々に進歩してきたが、人間の武器を使いこなすにはまだ足りなかったらしい。
だが、部下たちがそこまで成長するのを、ただ待っているつもりはなかった。
人間とゴブリンは、互いに殺し合い、喰らい合う宿敵のような存在だ。
早くあの忌々しい人間どもをこの世から消し去りたい――そう思っていた。
比較的賢いこのモンスターは、ふと遠くを見やるように首を巡らせた。
少し前に突如現れた、謎の怪物。ゴブリンどころか、この一帯のモンスターたちが束になっても敵わない天災のような存在だったが、その知能は他のモンスター同様にかなり低そうだった。
じっと考え込んでいた狡猾なモンスターは、やがて牙を剥きながら笑い始めた。
――
ギルドの建物の前に到着した私は、ぼんやりと口を開けたまま看板を見上げていた。
背後からアルバスとマルコスの困惑した視線を感じたが、それに気を配る余裕はなかった。
「파인・길드」
目をこすって、もう一度看板を見た。
「파인・길드」
『……あれ、これってハングルじゃない? なんで?』
前の職場では、韓国への事業展開を計画していたため、社員に韓国語の勉強をさせていた。
『自分で勉強しろとか言われて、週末に試験も受けさせられたんだよな。あれ、キツかったな……』
そんなわけで、今では韓国語もある程度読める。
異世界に転移した今となっては、もう使うこともないだろうと思っていた知識だけど――
『なんで今さら韓国語が出てくるんだよ!』
「どうかなさいましたか? 何か問題でも?」
アルバスが心配そうに尋ねてきた。
「あっ、いえ、なんでもありません。」
説明のしようがなかったので、俺はとりあえず誤魔化した。
「なんでもないなら、道を塞ぐな。俺は先に入る。」
傭兵の死体を担いでいたマルコスが、俺たちを置いて先にギルドへ入っていった。
「僕たちも入りましょうか。」
アルバスが笑顔で俺を促す。
「はい」
私はアルバスに続いてギルドの中へ足を踏み入れた。
『よし! ついにここまで来たぞ』
この世界のギルドは、田舎の辺境ギルドであっても基本的に建物が大きい。
今いるファイン・ギルドも、正面入り口から受付カウンターまで、およそ30メートルはある。
しかも四階建てだった。
もちろん、その広い空間がすべてロビーになっているわけではない。
中央には、二人がすれ違える程度の通路があり、その左右にはずらりとテーブルが並んでいた。冒険者たちの待機スペースだ。
テーブルの向こう側には、人ひとりが通れるほどの幅の通路を挟んで壁がある。
当然ながら、私はその壁の向こうに何があるか知っている。
『正面から見て左が銀行、右がレストランだな』
正面玄関から入ると、すぐ左には簡易銀行の窓口があり、右にはレストランの入り口がある。
『銀行の正式な出入り口は別にあるんだよな』
簡易銀行の窓口は、出入り口のない廊下のような場所にあり、窓口も三つしかない上に、スタッフの顔すら見えない小さな窓になっている。
ここでは小額の金貨や預金証書の両替、他人への送金ができる。
だが、それ以外の銀行業務をするには、正式に銀行の中へ入る必要がある。
『いわば手動式ATMってやつだ』
ATMと違う点は、ここでは人が対応するため24時間営業ではないし、休みの日はちゃんと休むこと。
『で、右側はギルド直営のレストラン』
こちら側の壁はガラス張りになっており、食堂のホールが見渡せるようになっている。その先の壁もガラスなので、外の景色までも丸見えだった。
普通、ギルド直営のレストランには特別な名前が付いておらず、ギルドの名前で呼ばれている。
そんなふうに改めてギルドの中を眺めながら、ようやく受付カウンターにたどり着いた。
「いらっしゃいませ~。ご用件はなんでしょうか~」
受付嬢は、抑揚のない無表情な口調で俺を迎えた。
『知ってる女だ……!』
赤みがかった茶色の髪を短く切り揃え、白い肌が印象的な美人。
私は彼女が胸元につけている名札を確認した。思っていた通りの人物だった。
『リシ。ゲームの主人公のヒロインのひとり』
ギルドタイクーンに登場するヒロインは、実際にはヒロインというほどでもなく、好感度が存在していて、それによって少しイベントが増えたり、セリフが変わったりする程度だ。
『でもやっぱり、ゲームの顔はヒロインなんだよな』
ゲームにはヒロインが全部で6人登場するが、特殊な経歴を持つ2人を除けば、4人はかなり人気があった。
『でも、ゲームではこんな性格じゃなかったような? ネームドキャラも性格が変わるのか? ちょっと確認してみるか』
どうせファイン・ギルドは初めて来た体で行動する必要がある。ならば、リシに道を聞くのが自然だ。
「失礼します。本日から勤務予定の新人です。どちらへ行けばよろしいでしょうか」
「あら~ あなたが新人さんだったんですね~! ちょっと待ってくださいね~、あ、ありました!」
リシはカウンターの下から紙をガサゴソと探す音を立て、すぐに一枚の書類を取り出した。
『多分、履歴書のコピーだろうな』
この世界には「プリント」と呼ばれる魔法がある。
『たしか火属性の魔法の一種で、紙を焦がして印刷する魔法だったな』
当然ながら、このプリント魔法は魔法使いが直接かけるので、出来栄えの美しさは魔法使いの腕に比例する。
リシが見ている書類は、焦げ跡が裏面まで染みていた。
『まあ、こんな田舎じゃきれいにプリントできる魔法使いなんて残ってないだろうしな』
「お名前は……レオさん、ですね?」
『ああ、そうだ。その名前だった』
孤児院出身の職員の履歴書には、孤児院時代の名前が記載されている。
自分の名前を決めるのは卒業時だが、履歴書はそれより前に回されるからだ。
「はい、そうです」
「よろしくお願いします~。私はリシっていいます~。えっと~ あら、エンジェル孤児院の出身なんですね! 私もパトゥム村の出なんですよ~! 地元一緒ですね! アンジェラ様はお元気ですか~? あ、もしかして、お名前変えました? 私の知ってる人もエンジェル孤児院の出身だったんですけど、すごく珍しい名前に変えたんですよね~。なんだったかな~?」
『うん、ゲームと同じ性格だな』
俺が何も反応しなくても、リシはひとりで元気よくぺらぺらと喋り続けていた。
受付のときとはまるで別人だ。
「名前! 変えました! 政嘉男 宇賀です! ギルドマスターにまず行けばいいんですよね?」
少し声を張って、リシの話を強引に遮って本題に戻した。
「オーガさん?」
「いえ、マサカオ・ウガです」
「ん~……わかりました。そこの階段を上がってください。四階です!」
リシは俺の名前を聞いてどこか引っかかる様子を見せたが、すぐに階段へ案内してくれた。
「では、失礼します」
リシに挨拶をして階段を上がろうとしたそのとき、ふと横を見た。
ちょうどマルコスの報告が終わったのだろう。中央の受付にいた女性が階段の方へ歩いてくる。
『こっちに来る? でも、こっちは……壁しかないけど?』
どう見ても普通の壁だ。何かあるようには見えない。ただの通路の端だった。
そう思いつつも、しばらく様子を見ることにした。
――ギギッ。
「!」
すると突然、壁から扉が現れて音を立てて開いた。
まるで秘密の扉……というよりは、普通の引き戸が唐突に出現したようだった。
『魔法か?』
「何かご用でしょうか?」
不思議そうに見つめていた俺に、受付嬢が勘違いしたのか話しかけてきた。
「あっ、いえっ! すみません!」
慌てて謝り、俺はすぐにその場を離れた。
「……?」
受付嬢は首をかしげながら、そのままマルコスの方へと向かっていった。
たぶんこれから、亡くなった傭兵の葬儀の手続きに入るのだろう。
『そういえば、人が死んだってのに、みんな落ち着いてるな……』
それだけ、冒険者が死ぬのが日常茶飯事ということなのかもしれない。
『やっぱり、ああいう危ない仕事は無理だな』
俺の中で、ギルドに就職するのが最善という結論はますます強固になった。
気を取り直し、2階を通り過ぎ、俺が働く予定の3階の事務所も横目に見て、ついに4階へ到着した。
[길드마스터の室]
『……もしかしてカタカナ表記する時に、韓国語を表示してるのか?』
確証はないが、今のところ最も有力な仮説だった。
『この件は後でじっくり調べるとして――まずは、扉をノックしよう。』
――コンコン。
「誰だ?」
中から重厚な声が響く。
「はいっ! 本日から勤務する新人です!」
元気よく、はきはきと返事をした。
「入れ」
『扉一つ開けるのにも、堂々と自信を持って! でも、やりすぎないように!』
何を隠そう、俺は長年、大手企業への就職を目指して面接練習に明け暮れてきた人間だ。
その経験が、今ようやく役に立つときが来たのだ!
気合いを入れてドアノブを握り、勢いよく押し開けた――
――バキィッ!
「……。」
「……。」
『……どうしたらドアが丸ごと真っ二つになるんだ?』
自分でも信じられなかった。
「……君。今の行為、どう説明するつもりだ?」
四角くて堅そうな顔立ちをした中年の男が、あきれたように言った。
『……土下座、するべきか?』
背中に冷や汗がつーっと流れた。