翻訳の能力
「翻訳……ですか?」
思わず聞き返してしまった。
「ええ。モンスターの言葉まで理解できる人は、私も初めて見ましたが。」
ぽかんとした私の表情を見て、アルバスが続ける。
「ご存じなかったのですか? まあ、女神様が恩恵を与えるときに、前もって知らせたり、能力について説明してくれることはありませんからね。」
自分の能力を知らなくても不自然ではないらしい。助かった。
「もう少し詳しく教えていただけますか?」
そう慎重に尋ねると、アルバスはやや困ったような顔をした。
「私が話を切り出しておいて何ですが、この続きは現場を片付けて、馬車を出発させた後にしましょうか。」
そういえば、ここは人が死んだばかりの凄惨な現場だった。
しかもその遺体は、馬車の中、目に見える場所にまだ放置されている。
『無意識にこの状況から目を背けようとしていたのかもな。』
アルバスの言葉が終わるや否や、馬車の中の空気が再び重苦しく沈んだ。
私も何も言わず、沈んだ気分のまま冒険者たちの作業をぼんやりと見つめた。
アルバスはまず遺体を馬車の外へ運び出した。そして再び馬車の奥、物資が積まれていた場所から、丸められた大きな布と、高さ1メートルほどの大樽を取り出して運んでいった。
他の冒険者たちも、それぞれが樽を一つずつ外へ持ち出した。
『私も外に出たほうがいいな。』
さらに重くなる雰囲気に耐えられず、私は馬車を降りた。
『ああ、体を洗ってたのか。』
冒険者たちが一つずつ持っていったのは、水の入った樽だった。
彼らは馬車から少し離れた場所で水を使って簡単に身体を洗い、服や鎧についた血の跡も大雑把に拭き取っていた。
『あの傭兵の遺体は……。』
別の場所では、アルバスとマルコスが協力して遺体から矢を抜いていた。
『うっ……見るに堪えないな。』
必要な作業とはいえ、あまりに残酷な光景に私は思わず目を逸らした。
しばらくすると、布がこすれる音が聞こえてきた。
『終わったのか?』
二人は遺体を布で丁寧に包んでいた。
『遺体はギルドに運ばれるんだろうな。』
ギルドの依頼を遂行中に死亡した場合、状況が許せば遺体はギルドに運ばれ、葬儀やその後の処理はギルドが責任を持って行う。
二人は布がほどけないよう慎重に注意しながら、遺体を再び馬車に乗せた。
遺体の処理が終わると、二人も樽のところへ行き、身体を洗い始めた。
『少し気分転換しよう。』
これ以上沈まないように、意識を別のところへ向ける。
『翻訳か……。』
まだアルバスの推測に過ぎないが、それが正しいという確信があった。
『そういえば、私はずっと日本語を話してるのに、普通に通じてるのがそもそもおかしいんだよな。』
創作物ではアメリカ人のスタークと宇宙人のサノスが英語で会話していても何も問題ない。
でも、ここは現実だ。地球でも極東の島国でしか使われていない言語が、異世界でそのまま使えるなんて、どう考えてもおかしい。
私は馬車の影に隠れるような場所に移動し、しゃがみ込んだ。
『そういえば、さっき見た預金証書にも、確かに「一万」って日本語で書いてあったよな。』
ゲームなら“ゲーム的都合”で日本語が使われていても不思議ではない。でも、ひらがなや漢字をケイナン帝国で使っているなんて、会話が日本語なこと以上に意味が分からない。
『でもこれ、どうやって実験すればいいんだ?』
考えながら地面に文字をなぞってみた。
「ど・う・す・れ・ば・い・い・ん・だ……あれ?」
何かが変だった。
私は確かに日本語を書こうとしたし、目に見える文字も日本語だった。だが、実際に手が動いて書いていたのは、まったく違う文字だった。
『なんだこれ……まさか、本当に……!?』
「マサカオウガさん! どこにいらっしゃいますか? 出発します!」
馬車の後ろからアルバスの声がした。
「はっ、はい! 今行きます!」
私は慌てて馬車へと戻った。
「本当にありがとうございました!」
「皆さんのおかげで助かりました!」
馬車に乗ると、先ほどとは違って賑やかな雰囲気だった。
主にゴブリンから馬車を守ってくれた護衛たちへの賛辞や感謝の言葉が飛び交っていた。
『……ちょっと作られた空気っぽいな。』
まるで何かを忘れるために、わざと明るく振る舞っているようだった。
ふと、傭兵が倒れていた場所に視線が行った。血痕は完璧ではないが、ある程度拭き取られていた。
馬車の奥に目をやると、物資が積まれている場所から少し離れた隅に、布の塊が丁寧に横たえられていた。
「私も本当にありがとうございました。特にマルコスさん、誰よりも先陣を切ってゴブリンに立ち向かう姿、格好よかったです!」
私もその場の雰囲気に合わせて言葉をかけた。
「それにアルバスさんも! 最後にかけてくださった言葉、いや〜カリスマがもう……!」
「では、出発します。」
私の言葉を遮るように、御者が馬車を動かし始めた。
「ありがとうございます。なんだか照れますね。」
アルバスは笑って謙遜して見せた。
「それはそうと政嘉男さん、先ほどの話の続きをしてもよろしいですか?」
「はい、もちろんです。」
「政嘉男さんは、他の帝国の言葉を学んだことがありますか?」
この世界には、地球のヨーロッパ大陸ほどの大陸が三つあり、それぞれに一つずつ帝国が存在している。
『ゲームでは他の帝国は設定上の存在で、登場しなかったからな。』
「いえ、学んだことはありません。」
「そうですか。少々お待ちを。」
アルバスは頷くと、自分の荷物から紙と万年筆、インク壺を取り出し、紙に何かを書き始めた。
「はい、これを読めますか?」
差し出された紙を受け取る。
「馬車護衛中、怪物集団と遭遇、討伐完了。」
『……って、日本語で書いてあるんだが。』
私は見たままを口にした。
すると、アルバスの笑みが深まった。
「やはり! 当たりですね。今私が書いた文字は、ナファズ帝国の文字です。話している言葉も同じですよ!」
現地人でも混乱するほど複雑な表意文字だと嬉しそうに語るアルバスを、私はぽかんと見ていた。
「えっ……もしかして、理解できませんでしたか?」
正確には、私は今、目の前に浮かんだ案内ウィンドウを見ていた。
アルバスを無視して、ウィンドウの内容を読み取る。
「相手がナファズ帝国語を使用しています。使用言語をナファズ帝国語に切り替えますか?
はい/いいえ」
『これで確定だな。』
私の第三の能力は、自動翻訳システムで間違いない。
『はい。』
心の中で答えてみた。
「ナファズ帝国語を使用中です。」
『やっぱりそうか。』
確認しながら、さっき文字を書いたときのように、何か違和感があるかに注意して口を開いた。
「いえ、大丈夫です。不思議ですね。」
耳にする声は、相変わらず日本語だった。
『話すときも特に違和感はないけど……本当に別の言語で喋ってるのか?』
私の内心とは裏腹に、アルバスを含め周囲の人々は、驚きの表情に染まっていた。
「な、なんて言ったんだ!?」
「すげぇ……マジで通じてる!」
「これが女神様の恩恵か……羨ましいのう。」
ちょっと外国語を話しただけで騒ぎすぎとは思うが、彼らにとっては当然の反応だった。
『教育は貴族の特権だからな。』
平民にとって、外国語を聞いたり話したりする機会などない。
内陸の地方に生まれた者は、他国の言葉を耳にすることすらなく一生を終える。
『そりゃ驚くよな。』
「本当に女神様の恩恵を授かったのですね! すごいです!」
実際に恩恵を受けた人を見るのは初めてのようで、アルバスの目がキラキラと輝いていた。
『すごい? あんたが言う?』
表情だけ見れば本気に思えるが、アルバスという人物はそれだけでは終わらない。
『お前は、どうやって外国語を話してるんだよ?』
教育は貴族だけの特権。
平民が外国語を学ぶには、船で大陸を渡りながら直接習うしかない。
でも、アルバスはどう見ても水夫には見えなかった。
『アルバスはたぶん貴族だな。』
貴族ならアカデミーでも家庭教師でも、日差しを避けつつ優雅に外国語を学べる。
そして、ここから面白い事実がある。
貴族の中で外国語を必修とするのは、伯爵家だけなのだ。
侯爵や公爵は偉すぎて外交に出ないし、子爵や男爵は地位が低くて外交の責任が持てない。
だから、帝国間の外交を担当する爵位は、ちょうど中間に位置する伯爵家に集中する。
『つまり、アルバスは伯爵家の出だな。』
15万円を軽く使う経済感覚も、個人的な感想にしては腑に落ちた。
『父親の遺品って話も、あんまり信用できないけど。』
……でも、それだと一つの疑問が残る。
なぜ、そんな偉い人が、こんな田舎で冒険者をやっているのか。
『まあ、恐らく後継者争いに敗れたんだろうな。マルコスとの取引の様子を見るに、交渉事には向いてなさそうだったし。』
貴族の行政がどうなっているかは知らないが、政務も領地経営も外交も、すべて交渉の連続だろう。
その点で、アルバスは政治家や経営者の器とは言いがたい。
『つまり、まとめると……』
アルバスは後継争いから外れ、自由を求めて家を飛び出した伯爵家のご子息というわけだ。
『でも、家を出ても貴族は貴族! ビジネスマンとして、この人脈は見逃せないな。』
私はにこやかに笑い、アルバスに手を差し出した。
「アルバスさん、これからよろしくお願いします。」
『チート能力セットに、伯爵家コネまで! ああ、俺はもうなんでもできるぞ!』
「はい! 同じ女神の恩恵を受けた者同士、頑張りましょう!」
アルバスが手を握り返してきたが、すでに花畑になった私の脳には、その言葉は届かなかった。




