異世界の旅立ち
バザールからアゴラ伯爵領までは、およそ十日の道のり。
今はバザールを出発して二日目の昼だった。
この二日間は不気味なほど静かで、かえって不安になり始めたころ――
「ギリギリギリ!」
「襲撃だ! キリゲータが来るぞ!!」
ついに魔物の襲撃を受けた。
馬を休ませようと一時停止していたところ、いつの間にか奴が近づいていたのだ。
キリゲータ――鱗が刃のように鋭く硬く、牙も爪もすべて刃となったC級の巨大ワニ。
幸い、この化け物もオーガと同じく、格のわりに動きが鈍い。
C級と判定された理由は、硬い刃と膨大な質量のせいであって、身体能力が高くて速いわけではない。
つまり、馬車でも十分に撒ける。
……馬が疲れていなければ。
「馬が疲れて速度が出ません!! どうしますか!!!」
御者が必死の声を上げた。
「オーガから生き延びたと思ったら、今度はキリゲータかよ!?」
「俺たちだけじゃ追い払えねえぞ!」
「どうするんだ、丸呑みにされちまう!」
「大げさに騒ぐな! 黙ってろ! 今作戦を考えてるんだ!」
死の恐怖に悲鳴を上げる冒険者たちを、マルコスが一喝した。
彼は加入順でいえば新参にすぎないが、冒険者の世界では実力が物を言う。そして今やD級の実力者は、彼とネームドのNPCを除けば、アケボノに皆殺しにされてしまった。
そのため、事実上マルコスが隊長を務めているのだ。
「作戦だと!? 俺たちでC級魔物を前にして、どんな作戦があるってんだ!」
「俺たちが誰と一緒に乗っているか忘れたか。B級のオーガから領地を救った救世主がここにいるんだぞ。邪魔せず黙ってろ」
「……あっ! そうだった!」
マルコスの一喝にも落ち着かなかった空気が、私の名が出た瞬間、ぴたりと静まった。
『なるほど。前にゴブリンが矢を射ったときとは違って妙に冷静だと思ったが、俺をかなり信頼してくれていたわけか』
マルコスはぶっきらぼうな態度のくせに、こうしてさりげなく人を感心させる面がある。
実は私は、さっきから必死にあるものを探していた。
『必ずあるはずだ。俺の考えだが、どんな魔物にも対応する餌が用意されているに違いない』
それが「交渉準備ショップ」で売っているキリゲータの餌だった。
『言葉の通じなかったゴゴゴンちゃんの餌も売ってたんだ。あいつの餌も必ずあるはずだ』
ちなみに、翻訳システムでも言葉が通じない魔物は、「モンスター交渉権」でも交渉不可能だ。
これは以前、森でウスキと二人きりの時に実験して分かった事実である。
もちろんウスキは、私の言うままに魔物を制圧して、私が声をかけるという妙な光景を不思議がることもなく見ていただけだったが。
彼女はアケボノを奴隷化する場面に立ち会っていないため、まだ私が魔物と会話できることを知らない。
そのせいで「ナファズ帝国出身の貴族なのでは」と妙な誤解を受け、説明の機会を逃してしまったのだ。
『あった!』
「【キリゲータの餌】――キリゲータの大好物をまとめて団子にしました。人肉は含まれておりませんのでご安心ください。(800pt)」
ついに見つけた。
商品が並ぶ順番が五十音順なのか、カタログの一番下の方にあった。
『後ででも検索機能を追加してくれれば……ん? 追加してくれれば? 誰が?』
久々に違和感を覚えた。
だが、逼迫した状況にすぐ忘れてしまった。
「さあ、これでも食ってろ!」
「キリゲータの餌を購入しました」
購入した餌を馬車の外へ放り出した。
――ドスン!
キリゲータの巨体に合わせて、馬車ほどもある団子が地面に落ちた。
「ギリギリ!」
キリゲータはすぐに身を翻し、団子へ突進していった。
「この隙に少しでも距離を稼ぎましょう! 馬たちには悪いが、もうひと踏ん張り頼む!」
私は御者に叫んだ。
そのままキリゲータが見えなくなるまで走り、ようやく安心して馬車を止めることができた。
周囲の風景は、いつの間にか雑草すら生えていなかった広い平原から、木がまばらに立つ草原へと変わっていた。
御者があたりを見回して言った。
「ここは我々が向かうアゴラ伯爵領の道と、王都へ向かう道の分かれ道ですな」
地面をよく観察すると、確かに人が頻繁に通った場所は草が生えず、自然に踏み固められた土の道が二手に分かれていた。
「ちょうどいい。この近くに小さな湖があります。馬の体温を冷やすための水を節約できますな」
必死に走ってくれた馬たちの体からは湯気が立ち上っていた。
だが、馬たちもこの場所を覚えているのか、疲れ切った体にもかかわらず嬉しそうな様子で御者に導かれるまま足早に歩いていった。
『やっぱりこの世界でも馬は賢い生き物なんだな』
もしこの世界の馬が人間の女性の姿をとり、歌や踊りや走りに長けた種族だったら、競馬は大人気だったに違いない。
少し進むと、他の場所より木が多く茂ったところに、御者の言ったとおり木陰に隠されていた小さな湖――まるでオアシスのような光景が現れた。
常識的に考えれば、オアシスは規模が小さければ小さいほど水質は濁るものだ。あまり期待はしていなかったのだが、この湖は意外にも非常に澄んでいた。
理由が気になり御者に尋ねると、すぐに答えが返ってきた。
「この道は時折、司祭さま方が通られます。司祭さま方は魔法が使えず、水は貴重なのですが、このオアシスが大切な水の供給源なのです。魔法は使えなくても、浄化だけは行えるので」
つまり、司祭たちが行き来するたびに水を浄化してくれるから、澄んだ水が保たれているというわけだ。
司祭は魔法を使えない。魔法が特に女神の意志に逆らう力というわけでもないのに、理由は不明だ。
『今度、理由を聞いてみよう。……でも、誰に?』
再び違和感を覚えかけた、その時だった。
「チュイッ! 人間、馬、水を飲む! 奇襲だ!」
不吉な声が響いた。
「マルコスさん、聞こえましたか?」
もしかしてモンスターの言葉を理解できるのは私だけかと不安になり、マルコスに尋ねる。
「確かに聞こえた。これは間違いなく……」
「チュイッ! 攻撃だ!」
「チュイッ!」
「チュイッ!」
木の陰から飛び出してきたモンスター三体。
「オークの声だ! 全員、戦闘準備!」
木製の粗末な棍棒を構えたオークだった。
「マルコスさん! 今回も私が……」
オークの言葉が理解できる。
つまり、モンスター交渉権が有効ということだ。
「この程度なら我らで十分だ。救世主殿は少し休んでおられよ」
マルコスは頼もしく言い放った。
オークはD級モンスター。
三体程度なら、この場の人員で十分に相手ができる。
「無理に攻めるな! オークの攻撃をい流して耐えろ! 仕留めるのは俺だ!」
そう叫び、マルコスは斧を振りかざし、少し離れた一体へと先に突っ込んだ。
『そういえば、マルコスさんの戦いぶりを直接見るのは初めてか』
最初のゴブリン襲撃のときは、私は怖くて戦闘を直視できなかった。
「チュイッ!?」
――バキン!
マルコスの大斧が軽々と振り抜かれ、オークの棍棒は真っ二つに裂けた。
だが衝撃が緩和されたのか、斧刃はオークの身体までは貫かなかった。
「チュイイッ! こいつ強い! まずはこいつを……!」
他のオークがマルコスの強さを察し、協攻しようとした。
「マルコスに近づけさせるな!」
「チュイッ! 邪魔な奴らめ!」
E級の冒険者たちが勇敢に飛びかかり、間合いを測りながら巧みに攻防を繰り返し、オークの足を絡め取るように動きを封じた。
――ブン! ドスッ!
――ブン! ドスッ!
――ブン! ドスッ!
その間にもマルコスは、相対するオークを一方的に叩き潰していた。
最初の一撃が防がれたのは偶然ではないと主張するかのように、オークの肉体は大斧の猛撃を耐えていた。だが、それでも竹刀のように軽々と斧を振り回すマルコスに対し、オークは距離を詰められず、やがて絶命した。
「次だ!」
マルコスは間髪入れず次のオークへと突撃。
すると、そのオークを取り囲んでいた冒険者たちは素早く退いた。
そして、同じように処理された。
『マルコスさん、D級の中でも最上位か……。あとは壁を越えるだけだな』
もちろん、その壁を越えられるかは天賦の才にかかっている。
だが、私はマルコスが必ずその壁を越えてC級になるだろうと確信していた。
「チュエエッ!?」
ついに最後のオークまで倒れた。
「勝ったぞ!」
冒険者と御者が歓声をあげる。
「お疲れさまでした」
私は血に濡れたマルコスへと歩み寄り、挨拶した。
「すぐ隣に水があるのは幸いだ。お前たち、そして御者。飲みたければまず飲んで、空いた水筒にも汲んでおけ。急がねばこの湖はオークの血で染まるぞ」
激しい戦闘の最中でも湖に血が入らぬよう配慮して戦っていたのだ。
我々が勝利の余韻に浸っていた、その時だった。
「水を汲みに行かせた部下が戻らぬと思えば……人間どもが殺していたとはな」
一層不吉な声が響いた。
「まさか……」
「我が部下が世話になったようだな、人間ども。代償を払ってもらおう」
オークたちの王、C級のオークキングだった。
ここにいる全員が命を投げ打って挑んでも、かすり傷ひとつ与えられるかどうか怪しい怪物。
「オークキング! 交渉だ!」
私はためらわずモンスター交渉権を発動した。
『交渉を開始します。
交渉当事者:政嘉男・宇賀、オークキング(無名)
交渉種類:交渉権を使用した強制交渉
交渉目標:オークキングの撤退
交渉のヒント:
① モンスターとの交渉です。失敗すればモンスターはあなたを最優先目標として命を狙います。
② モンスターの知能はかなり高いです。真剣に臨んでください。
③ 強制交渉権は対象モンスターの魔法耐性によって制限時間があります。制限時間を過ぎると精神干渉が解け、モンスターは再び暴走します。急ぎなさい。
残り時間――150:57』
「ほう? オーク語を操れる人間がいたか。いいだろう、話してみよ」
『……言葉を話すだけで知性を感じるな』
果たして、こんな聡明な相手に餌で釣る戦術が通じるのか。私は思案した。
その思考が終わるよりも早く、ウスキからラインが届いた。
過去二日間、彼女と交わした対話の下に、最新のメッセージが記されていた。
【ご主人様。緊急事態です! “ネゴ商会”と名乗る連中がギルドを占拠して、滅茶苦茶な条件で取引を強要しています! どうしましょう!?】
『ネゴ商会だと? よりによって今か!?』
軽い眩暈を覚えた。




