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拾・秋良と…… 後



 扉が閉まり、室内は再び沈黙に包まれた。丸底実験瓶の中で気泡が起こる音だけが静寂の中に漂う。

 火加減を調節するための歯車を少し回して、雀蓮(じゃくれん)は思考の海に自らを沈めていった。


 扉を叩く音が、意識の奥深くから雀蓮を浮上させた。

 雀蓮がそうしていたことがわかっていたのだろう。返事を待たずに里夢(りむ)が中へ入ってくる。


「先生。予定されてた時間ですけど、彼女を水籠から出しても?」

「ああ、頼むよ……もうそんな時間になるのか」


 予定されてた時間、というのは夕刻だったのだ。

 雀蓮は実験器具を見やった。考え事をしながらも、無意識に火加減を調節していたらしい。丸底実験瓶の中の液体も、予定通りに空になっている。

 火を消す雀蓮に、里夢は仕切りの布を脇によけながら抗議した。


「お昼に声をかけたのに全然気づかないんですから」

「そういえば、腹が減ってるかもしれないな」

「医者の不養生ってこういうことを言うんじゃないんですか? もう晩ごはんの時間だし、とっておいたお昼は、はるかちゃんにあげちゃいましたよ」


 里夢は話しながらも、手際よく水籠を操作し水籠の中に満たされた彩玻水(さいはすい)を抜いていく。水がなくなるのを待つ間、実験器具を片付ける雀蓮の背中に問いかけた。


「はるかちゃんに、あのこと言ったんですか?」

「少しだけ」


 振り向くことなく、雀蓮が答える。


「彼女の話を聞いて、予想以上に複雑なことになっていることが分かった。全て知らせるには、まだ早すぎる」

「そうですか」


 それ以上は里夢も訊かなかった。雀蓮がそう判断したなら、それは未だ彼の内のみに秘めておくべきことだからである。


 雀蓮は蓋付き実験瓶から管を抜き、穴を栓でふさいだ。中には彩玻水を蒸留した透明の液体が入っている。これを特定の条件化に置くことで結晶化が始まるのだ。

 雀蓮の真朱の瞳は透明の揺らめきの先に、自らの中に巡る様々な思惑を見つめていた。


「できましたよ」


 里夢の声に、実験瓶を机の上において振り向く。

 診療台の上に横たえられた秋良は里夢の手によって身支度を終えていた。濡れた身体は綺麗に拭かれ、はるかたちが森で彼女と再会したときと同じ衣服に身を包んでいる。

 雀蓮は秋良を二階に移すために両腕に抱えた。


 里夢が彼の先に立ち、診療室の扉を開ける。

 雀蓮が出てから再び扉を閉め、彼の後に続く。秋良を寝かせた後、体温を測ったり水を飲ませたりと、することがたくさんある。

 助手の仕事は楽しいけれど、何よりも雀蓮の近くでそれができるということが一番の喜びなのだと、最近になって里夢は気づいた。


 もしかしたら、人間になりたかったのも雀蓮の傍にいたかったからなのではないか、と。


 だが、今となってはそれもどうでもいいことだった。こうして雀蓮の近くにいることが、今の里夢の全てなのだから。


 秋良のために支度をした二階の空き部屋の扉を開けると、雀蓮が秋良を運び込む。

 彼女は深い眠りの中にあり、寝台に横たえられてもまるで目覚める気配はない。

 雀蓮はまだ湿っている髪をそっと撫で、秋良に語りかける。


「秋良、君を想う人たちは君の目覚めを待ちわびているよ」


 里夢は気づいていた。

 雀蓮の秋良を見つめる瞳に、患者に対する慈しみ以上のものがあることに。その理由も、本人からそうと言われたわけではないが、思い当たるところがあった。

 それを少しだけ寂しく感じながら、里夢は尋ねる。


「先生は、どう思っているの?」

「僕? 僕は――秋良が望むままに」

「彼女が望むままに」


 雀蓮の言葉に里夢が重ねた。弱ったような笑みを浮かべる雀蓮に、里夢はいたずらっぽく微笑んで見せる。


「言うと思った。本当は、目覚めて欲しいと思っているんでしょう?」

「どうだろうね。本当は、目覚めることを恐れているのかもしれない」


 自嘲の笑みを浮かべる雀蓮の瞳に、偽りは無い。里夢に対して嘘をついたことは、これまで一度だって無かった。彼の言葉は、本心から発せられたものなのだろう。

 彼にも恐ろしいものがある、というのは意外だった。

 里夢ははしゃいだ笑い声を上げる。秋良の身体が冷えぬよう布団をかけてやりながら、嬉しそうに呟いた。


「先生といると、本当に楽しい」

「そう、それは良かった」


 皮肉ではなく心から告げると、雀蓮はそっと秋良から手を離した。

 真朱の瞳は、静かに眠る彼女の閉じられた瞳に向けられる。


「秋良、君はどう思っているんだろうね。目覚めたいと思っているのか、それとも……」


 その先を言葉にするのを避けたのは意図的なものだったのか。雀蓮は名残惜しそうに視線を外すと、後は迷うことなく部屋を後にした。

 里夢は秋良の脈拍を測りながら、穏やかな寝顔を覗き込む。


「いい夢を見れているのかしら」


 安らぎを求めてたどり着いた眠りの中ならば、そうであるに越したことはない。

 里夢は子守唄にも似た響きでささやきかけた。


「この子が見ているのが、どうかいい夢でありますように」



ここまで読んでくださりありがとうございます!

次回から新章です。

年内の更新は今回で終わり。次回の更新は1月9からです。

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