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碌・光芒差す 後



 先程の部屋とは対照的に、中は薄暗い。

 差し向かいの壁にいくつか取り付けられた明かりは、蛍石(ほたるいし)だろう。淡い月光に似た光が等間隔に並んでいる。

 中央――扉の正面には人ひとりが横たわれる石台が置かれていた。


 はるかは戸の隙間から顔をのぞかせたまま、部屋の右手へ視線をめぐらせる。

 硝子戸のついた棚の中には、液体や粉の入った瓶や見たことのない器具が整然と並ぶ。

 もうひとつの棚は本で埋め尽くされ、棚の間に机が挟まれている。


 机上は所狭しと物が置かれていた。

 平積みされた本の山と山の隙間に、大小様々な形の硝子の器が埋まっている。中には液体が入り封がされているものもあった。


 左奥から机に向かって歩いてきた医者がこちらを向いた。


「来たね。こちらへどうぞ」


 近くに置かれた丸椅子を指して、はるかに笑いかける。


 うながされるまま、はるかは扉の間から身体を滑り込ませた。

 部屋の左側から青白い光を感じ、そちらへ眼を向ける。


 心臓が跳ね上がり、追いかけるように呼吸が止まった。

 瞬時に振り向き、


(みどり)くんは来ちゃだめ!」


 声と共に力いっぱい扉を押し閉める。

 その速さ、まさに神速。

 扉越しに翠をを捉えた確かな手ごたえが伝わっていた。しかし、それを気遣う余裕もない。

 それほど、はるかは激しく動揺していた。


 軽く深呼吸をし、恐る恐る振り返る。


 部屋の左側の空間を占めるそれは、金属製の大きな鳥籠だった。

 数本の格子が、天井付近で球状の屋根を描いている。鳥籠にしては極端に少ない格子の隙間を、内側に張られた透明な皮膜が補っていた。

 籠の底から湧き出る青白い光は、内に満たされた液体の揺らぎに合わせて微かな明滅を繰り返す。


 なによりはるかの眼を奪ったのは、水中に浮かぶその姿だった。


 肩の辺りまで短くなった黒褐色の髪は、光に呼応して緩やかに舞っている。

 真紅の右眼も、閉じてしまえばはるかの見知った顔となにひとつ変わらない。

 細くしなやかな身体は、胸と腰の部分だけが肌をぴったりと包む伸縮性の布に隠されている。

 水と光に映し出されるそれは、男として振舞う彼女がずっと見せまいとしてきた、内に押し込めていた側面をあらわにしている。

 紛れもない、美しいとさえ思える少女の身体がそこにあった。


 はるかは罪悪感を覚えながらも、眼をそらすことなく秋良を見つめた。


 紅い流線紋様の宿る右腕以外は、体中のそこかしこに傷跡が見られる。

 刀傷、だ。新しいものもあれば、古傷になってしまっているものもあった。

 左腕にある傷には、はるかも見覚えがある。紛れもなく秋良のものだ。しかし、傷がこれほどの数、全身にまで及んでいるとは知らなかった。

 大小無数の傷跡が、彼女がこれまで歩んできた人生の苛烈さを物語っている。


 はっと我に返り、はるかは振り向いた。

 すぐ後ろまで来ていた医者の羽織を両手で掴み、彼の真紅の瞳に詰め寄る。


「これはっ、秋良ちゃんに何を……!」


 荒げることなく押し殺した声に、はるかのものとは思えない迫力がこもる。

 しかし彼は全く動じる様子もない。込められた力に白んだはるかの両手を、上からそっと包み込んだ。


「彼女は今特殊な状態にある。身体を無事に保つために、これが必要なんだよ」

「あ……」


 柔らかに笑んだ医者の表情のどこにも、嘘は見つからなかった。

 紫水晶の瞳に弾けていた光が勢いを失うままに、はるかは瞳を伏せて手を離す。


「ごめんなさい、私……」

「先に、彼女について話そうか」


 はるかの謝罪を遮って、彼は言った。振り仰ぐと、優しい紅がそこにあった。


「自分のことよりも、彼女のことが気になって仕方ないみたいだからね」

「あの……」


 はるかは頬が熱くなるのを感じて、再び視線を落とす。

 先走って彼を責めた自分が恥ずかしい。それを理解した上で優しく手を差し伸べる彼を前に、余計にそう思えた。


 彼に呼びかけようとして、初めて気がついた。


「名前、聞いてなかったです」

「ん。ああ、言ってなかったかな? 僕の名は雀蓮(じゃくれん)。そう呼ぶ人も、今はいなくてね。みんな先生と呼ぶものだから、名前も忘れてしまいそうだよ」


 冗談とも本気ともつかぬ口調に戸惑いながら、はるかは呼称を選んだ。


「えと、雀蓮さんが、秋良ちゃんを助けてくれたんですか?」


 その問いかけに、彼は表情を曇らせた。


「助けた、と言うことはできないだろうね」

「え?」

「僕が見つけたときには深手を負い、右の眼と腕を失った状態だった」


 雀蓮は籠に歩み寄り、そっと皮膜の表面に触れる。

 その横顔に深く刻み込まれた後悔の念に、はるかは驚いた。医者というものは、ひとりの患者にこれほどまでに心を注ぐものなのだろうか。それとも、他に理由が――?


 その疑問を心の奥に押しやり、はるかは言おうと決めていた言葉を紡ぐ。


「だけど、それを治してくれたのは雀蓮さんなんでしょう? ありがとうございました」


 はるかは深々と頭を下げた。


「秋良ちゃんが生きてて、よかっ――」


 それ以上続かなかった。

 喉がふさがれ、声の代わりに眼からとめどなく雫がこぼれだす。


『会えないかもしれない』という思いを押し込めるために、黒い不安と戦うことも。

『絶対に生きている』という根拠のない願いだけを頼りに、闇雲に走り回ることも。

 もう、しなくていいのだ。


 紛れもなく秋良はここにいる。

 右眼と、右腕を、失ってしまっても。

 秋良という形をとった命は、確かに手の届くところに存在している。


 生きてて、よかった。

 その言葉が、心の呪縛を解くただひとつの鍵だったのだろう。

 はるかは顔を上げることもできず、両手で口元を塞ぎ、閉じた瞳から流れる涙に肩を震わせた。


「ずっと、気を張り詰めていたんだね」


 低めの柔らかな声が届くと同時に、大きな手が頭に触れた。


「もう大丈夫だよ」


 彼の手は、声は不思議だ。

 触れるだけで、全てが癒されるような、そんな気さえ起こさせる。


 これまで溜め込んでいた不安と痛みが、全て涙に溶けて流れていく。

 その涙が、心の奥に張り付いていたあの黒い根さえも、全てきれいに押し流してしまっていた。



【蛍石】その名の通り、暗闇で蛍のように光を放つ鉱石。昔は多く見られたが、今は双月界の地下深くからしか産出しない。


【扉のふいうち】はるかが秋良の姿を見せまいと放ってしまった一撃。竜人族である翠をもってしても予測・反応することができないほどの速さで繰り出された。




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