8.(再・病院ごっこ)
事の発端は昨日、大学の講義を終えて帰宅した亜子の一言から始まる。
「また落とした……」
亜子が失くしたのは、コッペパン型の飾りが付いたイヤリングだった。帰宅してすぐ、洗面所で鏡を見て紛失に気付いたらしい。
「右コッペに続いて、左コッペまで……!」
両コッペを失った亜子の悲しみは深い。先日も右のコッペパンを落として意気消沈し、左のコッペパンだけでも可愛いがろうと決めた矢先の紛失なのだ。
辞書の「しょんぼり」のページの挿絵になれそうなくらいのしょんぼり具合で俯く亜子の頭を撫でる。亜子が悲しいのは悲しい。顔を上げた亜子の目には涙がいっぱい溜まっている。可愛い。いけない。つい悲しいが可愛いに上書きされて、にやけてしまった。人を泣かせて愉悦を得る性癖でもあるのかと疑われてしまう。そのような邪悪な人間だと思われたら嫌われてしまう。反省しよう。
「せっかく千くんが『前期の単位落とさなかった祝い』にくれた、祝コッペなのに……。落としてごめんね……」
亜子の落ち込みの原因が、お気に入りを失った悲しみだけでなく、贈られたものを紛失した申し訳なさからも来ていると分かって、胸がじんとする。ダース単位でコッペパンイヤリングを買ってあげたい。
「落ちたのは仕方ないよ。同じもの買ってあげるから、落ち込まないで」
「……でも、また落としちゃうかも。落としちゃうかもと思うと、着けられない……」
「そっか……」
確かに同じものを買っても同じように落としてしまえば同じことの繰り返しだ。着けたことがないのでよく分からないけれど、イヤリングとは落としやすいものらしい。
とりあえず亜子の憂鬱を払うために、台所へ向かい、冷蔵庫から肉まんを取り出して蒸し、熱い焙じ茶と一緒にお盆に載せてソファに戻った。
「肉まんだ!」
途端、亜子の顔が輝く。亜子は肉まんを与えると元気になる習性がある。なお、塩むすび、バタートースト、ホットココア等でも同様の効果があることを立証済みである。
はうはう言いながら肉まんを頬張り、〆の焙じ茶を飲み終えた亜子は、涙も引いてすっかり元気を取り戻した。亜子は落ち込みやすいけれど、立ち直りも早い。
「決めたよ千くん」
「何を?」
「ピアスを開けます」
「えっ、どうしたの急に?」
突然の宣言に驚いた。
小学校の頃、予防注射への恐怖のあまり、病院の玄関で逃走を図り、待合室で逃走を図り、医者の前で逃走を図ったほど注射嫌いの亜子が、自ら進んで身体に針を刺そうだなんて。
「あ、いや、ぐれたわけじゃないからね。泣かないでね」
「ピアスくらいで亜子がぐれたとは思わないけども。校則違反ならともかく、もう大学生なんだし……」
「あのね、ピアスなら簡単に落ちないって、ぬーちゃんが言ってたの。それにピアスだとイヤリングよりデザインも多いし。メロンパンが選べるようになるし。良き点しかないよ」
亜子が言っている「メロンパン」とは、メロンパン型の飾りが付いたピアスのことだ。亜子と『前期の単位を落とさなかった祝い』のイヤリングを見に行ったときに、亜子はメロンパンの飾りに最も心を惹かれたのだけれど、ピアスしかなかったので諦め、二番目に心を惹かれたコッペパン型のイヤリングにしたという経緯がある。
「千くん、ピアスってどうやって開けるのか知ってる? え、画鋲とかじゃないよね……?」
意気込みは充分ながら知識は皆無なあたりが亜子らしい。
「ちょっと待って」
ネットでピアスの開け方を検索する。亜子は興味津々な様子で画面を覗き込んだ。
「初心者が自分で開けるなら、ピアッサーっていう道具を使うのが簡単だって。穴開けと同時に付属のピアスが装着されて、一か月くらい付けたままにして穴を固定するらしい」
「へー。そんなに長い間着けてておくなら、可愛いのがいいなあ……」
「可愛いのか……飾りのないものが多いね……。ああ、これは?」
「あ、可愛い!」
付属のピアスにライトストーンがあしらわれたものを亜子は気に入ったようで、「ピンク色がいいなあ」と、もはやピアッサーを使う気満々だった。
「夕飯までまだ時間あるし、今から買いに行く?」
「うん! 今日から私もピアスっ子だよ」
これで今後、亜子がイヤリングを落として泣いてしまう悲劇は起こらないだろうと安堵したのも束の間、何気なくピアッサーの使い方の動画を再生した途端、亜子は息を呑んで沈黙した。
「亜子? どうしたの?」
「は、針」
「うん。針だね」
「太い」
「うん」
「痛そう……」
肉まんで得た元気もピアス宣言の威勢も儚く消え、顔面蒼白になり、ぷるぷると震え出す亜子。針で穴を開けなければならないという動かざる現実を直視して、打ちのめされたらしい。
「えっと、耳たぶならそこまで痛くないらしいよ」
ネット上の情報を伝えるも、亜子の怯えは拭えない。こちらも想像でしか言えないので、それ以上のことは何とも言えない。
「……今から、買いに行く?」
先程と同じ質問をもう一度してみると。
「……や、やっぱり、今日のところは、やめようかな……」
案の定、先程と違う回答が返ってきた。
「なあ七瀬、学園祭までにお前も水崎を説得してくれよ。ベースが頭に紙袋を被ってるっておかしいだろ。どんなバンドだよ」
「『紙袋を被って出場していいなら引き受けてもいい』っていう千輩の条件を呑んだのは折場先輩じゃないですか」
「だって本当に紙袋被ったまま一曲弾き切ると思わないじゃん! 演奏してたら邪魔になって取るだろうなって思うじゃん! あと何でお前まで紙袋を被り出すんだ」
「だってベースが紙袋なのにキーボードが紙袋じゃなかったらバランスが悪いじゃないですか」
「うん、誰も紙袋を被らない路線で行こう?」
「というかうちのサークル、微塵も音楽に関係ないですけど、学園祭でも演奏すること決定なんですね」
「前回が好評だったからいいかなって。しかし、水崎も七瀬も器用だよなあ。頼んですぐに弾けるようになるんだから」
「僕はもとからピアノの練習をしていましたから。八鹿ちゃんと連弾がしたくて」
「七瀬の原動力は全て八鹿ちゃんだなあ」
「人の彼女の名前を気安く呼ぶのやめてくれます……?」
「え、ちょ、待っ、六法全書を降ろせ、お前の地雷もそこかっ!?」
入る前からサークル室の中が騒がしいので引き返そうかと思ったけれど、まあどうせ折場が後輩の七瀬を怒らせただけだろうと思い直し、しばらく待ってから戸を開けた。
「あ、水崎」
「あ、千輩」
ちょうど、折場が七瀬に笹かまぼこを与えて宥め終わったところだった。七瀬は笹かまぼこを与えると大人しくなる習性がある。
「折場と七瀬はピアス開けたことある?」
訊ねてみると、ふたりとも笹かまぼこを咥えたまま首を横に振った。身近にピアスを開けた人間がいれば、実際の痛みの参考にできると思ったのだけれど。
「なんだ水崎、ピアス開けるのか?」
「千輩、とうとうぐれるんですか?」
ピアス=ぐれるという偏った認識は大学一回生に共通なのだろうかと思いつつ、昨日のできごとをかいつまんで話す。
「というわけで、実際はどれくらい痛いのか知りたくて」
ふたりは話を聞き終わると、声を揃えて言った。
「まず水崎がピアス開ければいいんじゃないか?」
「先に千輩がピアス開けるのはどうでしょうか?」
「……。……。それもそうか」
なぜその考えに至らなかったのだろう。自分で試すのが一番早い。
「そうする」と言うと、折場は勧めておきながら「ええっ!?」と仰け反り、七瀬は「先輩方も黒豆茶飲みます?」とお茶を淹れ始めた。
「いいのか水崎。そんな簡単に決めていいのか水崎。三回生にして大学デビューして驚かれないか。実家に帰った時におうちの人が心配しないか。そんな急にファッショナブルになって、オシャレ水崎になるのか。いいのかオシャ崎」
「錦で買ったお茶なんですよー」
「へー。美味しい」
「ふたりとも、人の話聞こう?」
ピアス問題が片付いたので黒豆茶に集中していたら、「亜子崎ちゃんに嫌われても知らないからな」と、折場が聞き捨てならないことを言ったので、むせた。
「がふ……っ、亜子に嫌われる……?」
「いいか水崎。これは『ゆるふわ女子研究会』の男が言っていたことだが」
「折場先輩ってたまに訳の分からん研究会に顔出してますよね」
「曰く、女の子のピアスと男のピアスは話が違う。女子がピアスを着けたら『オシャレ可愛い』、男の場合はオシャレの前にまず『チャラい』である。そしてチャラい男はゆるふわ女子に受けが悪い」
「ちゃらい……」
「ピアスを着けたファッショナブル男子学生など、清純派ゆるふわ女子に好かれるわけもなし! というのが、研究会の見解だ」
「大丈夫ですかその研究会。私情が入ってませんかその研究会。ファッショナブル男子学生に恨みでもあるんですかその研究会」
「さっきは水崎にピアス開けたらなんて安易に言っちゃったけど、今まで品行方正で髪も染めたことのないお前が突然ピアスを開けてみろ、亜子崎ちゃんはどう思う。『千くんがチャラ崎になった』と嫌われるかも知れないんだぞ。いいのかチャラ崎」
「ぐっ……」
折場の情報源である謎の研究会を信用しているわけではないが、確かに亜子は俺のことをものすごく優等生だと思っている節があるから、ピアスを開けたら驚くかもしれない。ひいては「ちゃらい」と認定されて、嫌われてしまったら大変だ。
「俺は断固ピアスを開けない」
固い決意を口にすると、折場は「その意気だ水崎」と満足げに頷き、七瀬は「まあいいんじゃないですか」とお茶を注ぎ足した。
「考えてみれば、ピアスが実際にどれほど痛いのか問題も、雛井さんが自分で解決してくるでしょう。だって千輩のお話じゃ、友達にピアスの話を聞いたんですよね。今日あたりその友達に聞くんじゃないですか」
「……。それもそうか」
ピアスがどれくらい痛いのか問題があっさり解決してしまった。相談してみるものだ。折場は頼りにならないけど七瀬は頼りになる。
「折場は頼りにならないけど七瀬は頼りになる……」
「心の声が漏れてるぞ水崎」
「残る問題は、いざ開ける段になってやっぱり腰が引けた場合の対処法ですね」
「そうだな……。針を刺すのが怖いという一点を除けば、ピアスを着けることに後悔はなさそうだから、できれば後押ししてあげたいんだけど」
「まあ身体に針を貫通させるのが怖いのは当たり前の感情ですからね」
どうしようかと七瀬と黒豆茶を啜っていたら、折場が今日一番のどや顔で言った。
「それなら俺がいい方法を教えてやろう!」
「千くん、ただいまー!」
「おかえり」
亜子は帰宅して早々、「やっぱりピアス、開けることにしたの」と言った。七瀬の読み通り、大学の友達にピアスを開ける際の痛みについて聞いてきたらしい。
「ぬーちゃん曰く、耳たぶなら、『個人差ありだがドアノブに触れて不意打ちで食らった静電気くらいの痛さ』なんだって」
「それは……うん、びっくりするけどそこまでではないって感じの痛みだね」
「うん。静電気レベルだと思えば大丈夫な気がしてきた。だから、あの、昨日はやめちゃったけど、やっぱりピアッサーを買いに……」
「はい。大学の帰りに買って来たよ」
亜子が欲しがっていた種類のピアッサーの箱を渡した。両耳だから二箱だ。
「ピンク色のだ……! ありがとう千くん!」
「どういたしまして。さっそく使う?」
「うん!」
ふたりでソファに腰掛け、ピアッサーの箱を開封する。亜子は一通り説明書を読んで、眉根を寄せ、「自分でするの怖いから、千くんにしてもらってもいい……?」と訊いた。そのつもりだったので快諾する。
「よし、消毒液とガーゼも用意したし、準備万端。あ、そうだ。実家に帰った時に驚かせちゃうかもしれないから、先に電話で報告しておく」
いそいそと北海道にいる家族に電話を掛け始める亜子。父が出たらしく、すぐに楽しそうに話し始めて、家族仲が良いなと思う。親と談笑なんて、うちでは有り得ない光景だ。一家団欒を体現したかのような雛井家を訪れるたびに、何となく居心地が悪いのは、亜子の両親の力強い歓迎の圧もあるけれど、別世界にでも放り込まれた気持ちになるのが一番の理由だと思っている。
と、戸棚にお祝い用クラッカーが常備されている雛井家の謎さに思いを馳せているうちに、亜子が通話を終了した。不思議そうに首を傾げながら、こちらに戻って来る。
「白い糸が出てきても引っ張っちゃ駄目だぞって言われた。なんのことだろ?」
「ああ。ピアスの穴から出てきた白い糸を引っ張ると失明するっていう話だよ。その謎の糸の正体が視神経だったっていうオチで……って、亜子、大丈夫だから、これ都市伝説だから、作り話だから、実際に耳たぶから視神経が出てくることはないから」
恐怖のあまり白目を剥いて気絶した亜子を揺さぶって現実に引き戻す。ハッと目覚めた亜子はすっかり蒼褪めている。亜子父め。よくも余計なことを。このままでは今日もピアッサーの使用がお流れとなりかねない。
仕方がない。効くかどうかわからないけれど、折場が言っていた方法を使おう。
「亜子。ちょっと待っててね」
意気消沈の亜子を残し、自室へ戻る。手に取ったのは白衣だ。
これは先月、大学の生協で実施された「白衣二着で半額セール」の言い知れぬお得感に突き動かされた折場が、「なあ水崎! 半額だぞ! 割り勘で買って分けようぜ! 俺たちの学部じゃ使わんけど! でもお得じゃん!」と非常にしつこかったので諦めて買わされた一着である。
買った状態のまま棚の奥に収納してそれ以来だった白衣を取り出し、タグを切って羽織り、居間に戻る。
「お待たせ」
亜子はこちらを見るなり、意気消沈どこへやら、「わあ!」と、はしゃいだ声を上げた。
「千くん似合うよ! ほとばしる外科医感がすごいよ! 医学部の教室に何食わぬ顔で座っていても誰も疑問を抱かないよ! なんかお医者さんっぽいこと言ってみて!」
「……。腹腔鏡手術」
「か、かっこいい!」
亜子がきらきらした瞳で尊敬の眼差しを向けてくれる。大学生協での謎の買い物が報われた瞬間である。
「でもどうして突然の白衣?」
「病院ごっこだと思えば、怖さが紛れるかなって」
「病院ごっこ……え、あの懐かしの……!」
サークル室でピアス問題の話をした際、折場はこう言った。「苦手や恐怖とは雰囲気で打ち消せるものである。遊びにしてしまえばいいのだ」と。
「うちの姪っ子、幼稚園児なんだけど、プチトマトが嫌いでさ。でも、『悪役令嬢に意地悪をされてプチトマトを皿に入れられたヒロインごっこ』を始めると、大人しく食べるんだよ。本人曰く、意地悪されている可哀想なヒロインという状況に酔えるらしい。なので水崎、お前も亜子崎ちゃんがピアス開けの不安を紛れさせられるような、遊びの雰囲気を作るといい」と。
そして思いついたのが、これだ。
「というわけで今から俺のことを、神の腕を持つ敏腕・凄腕・スーパー腕利き外科医の院長先生だと思ってほしい」
まさかこの歳になって、再び「病院ごっこ」をする機会がやってこようとは。しかも看護師長から院長への華麗なる出世である。
しかし、思いついた時はいけそうな気がしていたけれど、冷静に考えれば亜子も大学生である。ごっこ遊びに興じていた小学生とはわけが違う。白衣には食いついてくれたが、さすがに病院ごっこには乗ってこないかもしれな……。
「はい、スーパードクター水崎先生……!」
めちゃくちゃ乗り気だった。
「ちょっと待って、伊達眼鏡持って来る! はい!」
小道具まで用意された。
「決め台詞は『確実に失敗しないので』にしよう!」
キャラ設定も完璧らしい。
「う、うん。分かった。」
「今からピアッサーを使うんじゃなくて、スーパードクターに大手術をしてもらうんだと思ったら、怖くないよ……!」
いやピアスを開けることよりも大手術の方が怖いんじゃなかろうかと思ったけれど、そこは深堀りしないことにした。そして亜子、不意打ちの白衣と懐かしの病院ごっこに意識を持っていかれて、たぶん、白い糸の話を忘れている。うん。今のうちに進めよう。
「じゃあ、始めるけどいい?」
確認を取ると、亜子は真摯な顔で頷いた。
「千く……『スーパードクター水崎先生』、お願いします」
「うん……」
「決め台詞! 決め台詞!」
「……。『確実に失敗しないので』……」
亜子の予想外の乗りの良さに気圧されつつも、気を取り直し、大人しく伊達眼鏡を掛け、説明書に沿って作業を始める。亜子の身体に万が一のことがあってはならないので、それこそ大手術に臨む気持ちで、慎重に。
「まずは消毒」
「ひゃん」
「……。亜子って耳触ると変な声出すよね」
「幻聴じゃないかな。全然くすぐったくないよ。全然。ほんと」
「煽られるからやめてほしい」
「えっ、け、決して千くんにケンカを売っているわけでは」
「うん、そうだね、ケンカを売っているわけではないことは分かるよ」
続いて無菌処理が施されたペンで耳たぶに印をつけ(これもくすぐったかったらしい)、いよいよピアッサーをセットする。
「絶対に動かないで」
「う、うん」
俄かに亜子の身体に緊張が走り、空気が張り詰める。ぎゅっと目を瞑り、膝の上においた拳も固く握り締められている。
「息は止めなくてもいいよ」
「はっ、つい……。ラマーズ法で呼吸した方がいい……?」
「出産よりは確実に痛くないと思うから普通でいいよ」
「うん……。千くん」
「ん?」
「あと二時間くらい、心の準備を」
「うん、開けるね」
カチン、と思ったより軽い音がして、ピアッサーが貫通した。亜子が「うっ」と声を漏らしたので、かなり痛かったのかと思って心配したが、反射で呻いただけらしく、ピアッサーを外すと呆然としていた。
「亜子。終わったよ。手術成功」
亜子に手鏡を渡す。右耳に輝くピンク色のファーストピアスを見て、茫然自失状態の亜子に表情が戻る。
「わあ……! 千くん、私……! やったよ……! ありがとう……!」
亜子は本当に大手術を無事に終えたかのような、晴れやかな笑顔を見せた。亜子は泣き顔も可愛いけれど、やっぱり笑顔が一番可愛い。
「今月で最大の気力を使い果たしたよ!」
「うん。よく頑張ったね。それじゃ、次いこう」
「えっ?」
両手を上げて勝利のポーズを取っていた亜子が固まった。
「どうしたの? 左耳も開けるよね?」
「あっ」
亜子は左耳のことを忘れていたらしく、ちょっと考えてから、言った。
「千くん」
「ん?」
「あと二時間くらい、心の準備を」
「うん、始めよっか」
「……。……。はい、先生……」
そして、左耳のピアスも無事に着け終わり。
「スーパードクター水崎の挑戦は、まだ、始まったばかりである……!」
二度にわたる緊張状態が解けて息も絶え絶えな亜子が、それでも決め顔で第二クールを匂わせる最終回ナレーションをして、病院ごっこは幕を閉じた。
一か月後。
「千くん、見て、外したの!」
朝、顔を洗った亜子がさっそく、手の平に載せたファーストピアスを誇らしげに見せにきた。一か月振りに見る、何も着いていない亜子の耳たぶには、ちょんと穴が開いている。感動的だ。
「おかえり亜子の耳たぶ……」
「うん、もとから耳たぶはステイホームしてるからね」
「外す時、痛くなかった?」
「うん!」
「なんか白い糸が出てるけど、大丈夫?」
「えっ」
亜子の顔がさっと蒼白になる。打てば響く亜子の反応の良さは非常にからかい甲斐がある。「冗談だよ」と笑って返すと、今度は怒りで赤くなり、脛を蹴られた。痛い。
「千くんのご飯の上にパクチー味のポテチまぶしてやるんだ……!」
上記はパクチーとじゃがいもが苦手な俺に対し亜子が取り得る最上級の報復である。相当怒らせないと持ち出されない報復だから、白い糸の都市伝説に対する亜子の動揺、推して知るべしだ。
「ごめん。ごめんって。これで機嫌、直してくれる?」
用意していた小箱を渡す。亜子はきょとんとして、促されるままに開封して、感嘆の声を上げた。
「メロンパンだ……!」
メロンパン型の飾りが付いたピアスを、亜子は感動の面持ちで眺める。亜子の機嫌が直ったのは言うまでもない。直った通り越して抱きつかれた。うん。グロス単位でメロンパンピアスを買ってあげたい。
亜子はさっそく、念願であるメロンパンのピアスを付けた。
鏡に映るメロンパンを見て、亜子はご満悦である。
「メロンパン、可愛い?」
「もはや可愛いしかない」
真摯な表情で心から頷いたら、亜子は「へへ」とはにかんで、公園で病院ごっこをしていた頃と変わらず、可愛いの地位を不動のものとしたのだった。