東京 2012~2015年 ②
眞子は、葵が珍しく一日中予定のない日には買いものや食事などに誘い、その際には用心しながらもこれまで注文できなかったメニューに挑戦させた。
「どう? のどかゆくない? アレルギー出てない?」
と確認し、
「すごいね、こんなものも食べられるようになって」
と眞子がはしゃいだ声を出しても、思春期に突入した葵は、
え、まあ、うん、これぐらい別に、
といったドライさで、しかし着々と目の前の食べ物を胃袋に収めた。
そして、眞子がトイレに立ったり支払いを済ませている間など、ちょっとしたすきにスマホをいじっている姿を見ると、母親と出かけるよりもスマホをいじっているほうが楽しい娘を喜ばせようなどとしている自分がむなしくなるのだが、仕方ないではないか、と自分に言い聞かせる。
葵は、母親とショッピングを楽しむ同級生を羨んでいた中高生の頃の自分とは、別の人間なのだから。
いつ自分が死んでもたくましく幸せに暮らせるようにと、そして周りの人たちに好かれるようにと、そう心がけて娘を育ててきたのは眞子だったが、その願い通り健全な自立心と自己肯定感を育み、充実した学校生活と交友関係で満たされている葵は、少女のころの自分ほどには母親を必要としていないように見える。
それならいっそ、葵の母親ではなく、あのころの自分のお母さんになってあげられたらと、眞子はふと思うことがある。
そんな不可能で不毛なことを考えても仕方がないことは十分承知しているが、ただ、学校から帰っても話す相手もいないまま、毎晩家に一人でいるのがさびしくてこわくて、テレビをつけっぱなしにして気をまぎらわせていたあの頃の眞子のお母さんになってあげられたら、ようやく今の自分の心にも平和が訪れるのではないか…
自らの子供時代を不憫なものとして振り返るようになったのは、自分が母となってからだ。
子供だったときには気づかなかった。
あるいは気づかないふりをしていた。
妻、そして母親となって久しい今、自分は家事雑用のためだけに必要とされている気がしてならない。
新婚当初、夫は家事を手伝ってくれることもあったが、食器を洗えば大切な皿を割り、まだ新しいフライパンをたわしでこすってテフロンをはがし、畳の目に逆らって力いっぱい掃除機をかけては畳をささくれ立たせるといった具合で、二度手間ならまだいいぐらいで、割れた皿もはがれたテフロンもささくれ立った畳も元に戻せず、しだいに眞子は健一が家事に手出しするのを迷惑に感じるようになっていった。
特に葵が生まれてからは、多忙なビジネスマンの夫は週末ぐらいしかゆっくり子供と接する時間もないのだから、家事は専業主婦の自分がすべてひきうけて、夫は娘と遊んでくれさえすればそれでいいと考えるようにもなっていった。
葵には、自分のおもちゃや絵本を片づけさせていた習慣の延長で、なるべく自分の洗濯物をたたませたり部屋を掃除させたりしているが、それ以上の家事能力は著しく乏しい。
夕飯の支度をする時間に葵が家にいれば野菜の皮むきなどを手伝わせてみるのだが、小学生になって一人で外に遊びにいけるようになってからは、そして塾通いが始まってからは更にいっそう、一緒に台所に立つ機会もめったになく、たまにやらせても満足にできるはずもなく、結局は短気で完璧主義な眞子がてきぱきとすませてしまうのだった。
家事を一人で担えば担うほど、眞子はすべてを自分のやり方で徹底管理しなくては気がすまなくなっていく。
厄介なコントロールフリークである。
よく言えばおおらかで悪く言えば大ざっぱな夫と娘から見れば、神経質で潔癖な眞子は自分で自分の仕事を増やし、家族にも窮屈な生活を強いている。
眞子はもはや自分の意志とは関係なく、永遠に満たされることのない不憫な子供時代への敵をとるかのごとく、意地になって家事をやっつけている。
生まれた子供がアレルギー体質だったことも、食事の準備や掃除洗濯をきちんとやらねばならないという強迫観念を加速させている。
自分が元気なうちだけでも。
いつ急に死ぬかわからないのだから、と。
そのような心のうち、もはや精神状態、を理解してくれる者などおらず眞子は孤独だし、年中無休で無給の家事にうんざりもしている。
いっそ自分が死ねば、夫と娘はのびのびと暮らせて幸せなのではないかと思うことさえある。
しかし、そのような孤独と葛藤を抱える眞子も傍から見れば、何不自由なく暮らす恵まれた主婦にしか見えない。
アラフォーになっても
「深瀬さん綺麗ですよねー」
「中学生の子供がいるようには見えない」
と褒めそやされ、身綺麗にして英語なぞを教えている。
安定した大企業に勤める夫は順調に出世を重ね高収入で、人柄も極めて温厚、極めて健康。
葵も美しく健やかに成長し、学問優秀、運動も得意で社交性があり、教師や友人の信頼を集める人気者だ。
「悩みなんてないでしょう」
「羨ましいわぁ」
そう周囲から言われれば言われるほど、眞子は愛想笑いをするのが精いっぱいで、自分の闇や痛みを誰にも話せない。
結婚してから何度も夫に心を開いては無関心な態度をとられたり、傷に塩をぬりこまれるような無神経な言動を返されたりしているうちに、もともと閉ざしがちだった口も心も完全に閉じてしまった。
大切なことはもう、誰にも話せない。




