東京 2010年 ②
5時間の運転実習を無事終了した眞子は、自宅から最寄りの駅までや、その駅から一駅離れた葵の塾までや、大型スーパーやモールなど、何しろ方向音痴なので目的地を限定してだが運転するようになった。
サイドミラーを出し忘れたり、夜間にライトを点灯し忘れたり、あるいはハザードランプを点滅させたまま走行し続けたり、右折ウィンカーを出しながら左折してみたりといった数々の暴挙にもかかわらず無事でいられるのは、よほど強い守護霊でも憑いているとしか思えない。
両親をはじめ、涼子やピーコ、会ったこともない祖父母も皆他界しているからだろうか?
そうだとしても、死人をあてにせず注意深く運転すべきだ。
葵を塾に送り届けた後の帰り道はいつも、なぜか妙な心細さを味わいながらハンドルを握る。
眞子は葵が幼稚園にも上がらないような小さな頃から
「さっぱりしていて一人娘の母親とは思えない」
と周囲の母親たちに言われることがあり、自分でも精神的には子離れしているタイプだと思うのだが、ではこの心細さはいったいどこからくるのだろう。
眞子は葵がこの世に誕生した瞬間から、母子であっても娘と自分は別々の人間なのだということを忘れないように意識して葵に接してきた。
我が子といえども、好むものも求めるものもちがうのだろうし、自分が生きている間は全力で守る存在だけれど、その一方、自分がいつまで生きているかもわからないのだ。
万が一自分が死んだら夫には、一日も早く娘をかわいがってくれる女性と再婚してほしいと願ってきた。
それが葵の物心がつく前であったら、その女性を本当の母親だと思ってくれてかまわなかった。
自分の写真も所持品もすべて処分して、自分の存在をなかったことにしてほしいくらいだった。
残された人が死んだ者を想うあまり、生きている自分や周りの人を不幸にするなんて、人生の、命の無駄遣いだ。
今自分が死んだら、葵は死んだ母親をきれいに忘れられる年齢ではないが、それでも新しい母親になる人が現れたらその人を慕い、死んでしまった母親を想い続けるよりも新しい母親と仲良くやってほしい。
葵が大人になったときに眞子が生きていたとしても、世間で母親がよく言うように、娘と友達同士のようにショッピングや旅行をしたいとか、二世帯住宅に住みたいなどと、眞子は考えないようにしている。
葵には好きな場所で好きなことをして好きに生きてほしい。
ただ幸せになってほしい。
本気でそう思っている。
それなのに、この心細さは夕暮れのせいなのだろうか?
企業や大学に英語講師を派遣する会社に眞子が履歴書を送ったのは、葵の夏休み前、塾弁作りや車出しにも慣れた頃だった。
夏休みが始まってすぐに、書類審査に通ったので試験と面接を受けに来てほしいと電話で連絡を受けた。
採用試験の朝、眞子は夏期講習に通う葵を塾へ送った後、車をマンションの機械式駐車場に停め、久しぶりにヒールを履いて電車で新宿へと向かった。
採用試験では、結婚する前に勤めていた英会話学校のときと同様、筆記試験以外に模擬レッスンの審査もあった。
さぞかし緊張するのだろうと覚悟して挑んだ模擬レッスンで眞子は予想外に、人前で話したり指示を与えたりすることになつかしい心地よさを覚え、溌剌と、且つ落ち着いて、講師役を務めることができた。
「模擬レッスン、完璧でしたよ。説明に走りすぎることもないし、英語もお上手だし」
試験後にダンディーな雰囲気の面接官に褒められた眞子は、勤務可能な時間帯を問われ、子供がまだ小学生なので夜遅い時間の講座を受け持つのは難しいと正直に伝えたところ、
「昼間のニーズもあるにはあるんですけど、夜に比べれば少ないんですよね。でもまあ、お子さんが大きくなれば、深瀬さんのアヴェラビリティーも増えるということですよね? 正式には後日お知らせすることになってるんですが、お願いすることになると思います」
とフレンドリーな笑顔で告げられる。
「アヴェラビリティー」というカタカナが一瞬意味を成さないが、
availabilityのことだと理解し、あわてて
「はい、よろしくお願いいたします」
と頭を下げた。
バレエ以外で自己肯定感を味わうのは久しぶりだった。
暑い中、何度かオフィスに足を運び、同時期に採用された他の講師たちと共にオリエンテーションで会社の規定や給与の請求方法などの説明を受け、英語で書かれた何枚もの書類にサインをし、主に使用するというTOEIC教材の研修も丸一日かかって受けたが、夜間の講座は引き受けにくいと話したからか、まったく依頼がこないままだ。
そんなある日、オフィスからメールが届いた。
教材開発に関わったカリスマ講師が開催するワークショップへの参加を募るといった用件だったので、すぐさま出席の意向を返信した。
オフィスに足を運ぶついでに、夜の講座も曜日によっては引き受けられると伝えてみようと決心する。
残りの人生に備えて何かしなくては、という危機感を眞子は抱いている。




