京都⇔大阪から東京へ 1998年
「家族になりませんか」
健一にプロポーズされたのは年が開けて間もなく、健一に東京転勤の辞令が正式に出てからだった。
結婚願望を抱いたことなどないつもりだったが、「家族」が、眞子はずっと、ずっとずっとずっと、のどから手が出るほどほしかった。
「家族」とは長年、眞子にとってコンプレックスの元、悩みの種、不幸の源だったが、健やかさしか感じ取れない健一のような人間となら、自分も普通の家族の一部になれるのではないかと希望を抱いてしまう。
一番近くにある幸せに、眞子は手を伸ばす。
話はとんとん拍子に進み、ゴールデンウィークには神奈川に暮らす健一の両親に挨拶にいった。
儀父母になる人たちは屈託なく無頓着なたたずまいで、なるほど正真正銘健一の両親だと、眞子は妙に納得してしまう。
「でもいいんですかー、うちの健一なんかでー」
と明るく問いかける健一の母に、何か肯定的なことを答えようとするけれど、つけっぱなしのテレビからはワールドカップのニュースでインタビューに答えている公平の声が聞こえてきて、ここにいるのが自分なのか、何を言うべきなのかわからなくなる。
結婚式など挙げなくてもよいのではないかと眞子は提案してみたのだが、家族や友達に祝ってもらいたいという健一の強い希望により、人前式を挙げることで合意した。
当日、嵐山にある式場へ向かう途中見上げた10月の空は、どんよりと曇って真っ白だった。
人前式に欠かせない「証人」は、お互いの友達を候補に上げて熟考したが、ALLで出会うまでは接点のなかった2人に共通の友人は少なく、親しくなるきっかけを作ったのは、あの舞鶴への車出しを提案した田口さんではないかという結論に達し、このALLマネージャーに白羽の矢を立てた。
婚約したこと、そして人前式の証人を頼みたいと電話で伝えると、田口さんは何度も
「ええ~~~っ」
と悲鳴に近い驚きの声を上げ、
「びっくりぃ~!だけどそうなればいいなと思ってたんですよ!」
更には、
「眞子先生には健一さんがいいと思います。雄太やエディーには悪いけどっヒヒヒッ」
と不遜に笑った。
本来は父親と歩くらしいヴァージンロード(教会でもないのにこんなものがあるのかと眞子はうんざりした)を、眞子は健一の腕をとって歩いた。
眞子が招待した唯一の親族は、疎遠にしている姉一家だけだ。
それでも、クラシカルな総レースのウェディングドレスに身を包んだ眞子は稀に見るほどの美しい花嫁として、鮮烈に参列者たちの記憶に刻まれた。
タヒチへの新婚旅行の後、中野にある社宅での新婚生活が始まった。
社宅に入居した週の土曜日にいきなり、朝9時から敷地内の草むしりと清掃があることを知った眞子は、ここ何年か基本的に夜型の生活だったこともあり、
「週末なのに?」
「朝…9、9時?9時から!?」
と、掲示板の前で声には出さずに驚愕してかたまった。
社宅の敷地内には4階建ての各階に4部屋という建物が3棟あり、この草むしりと清掃は建物ごとに住人(と言っても参加者は妻ばかりだ)が月1回集まって行う決まりがあるのだった。
草むしり兼清掃はせいぜい30分ほどで終わるのだが、作業が終了しても井戸端会議がだらだらと続くのが、眞子には手持ちぶさたで仕方ない。
しかしこの井戸端会議だけでは喋り足りない妻たちの間では、自宅へも頻繁にお茶に招きあう風習があるということが間もなく判明した。
妻たちの大半が専業主婦だという事実も判明した。
眞子とて、大阪にいた頃よりも格段に仕事が忙しい健一の帰りを一人きりで待つだけの日々はさびしく、お茶に招かれたり招いたりにしばらく身をゆだねていたが、そろそろ新居での暮らしも落ち着いてきたのだから仕事でも見つけようか、そう思って新聞の求人広告を見始めた矢先に、妊娠していることに気づいた。
吐きもしないがほとんど何も食べられない状態が2ケ月間続いた。
一方、同時期に妊娠した和歌は、三食きっちり食べるがすべてもどすと電話で報告した。
つわりが治まるまで実家に帰っているとのことで、空腹になると
「気持ち悪っ。そろそろなんか作ってもらわな」
と言って電話を切った。
いつも話に聞いていた、働き者で料理上手な和歌のお母さんのエプロン姿を眞子は思いうかべた。
食事の支度ができなくても、健一は文句一つ言わなかった。
「どうぞどうぞ、気にしないで横になってて」
と言って、朝早く仕事に行き、夜中に帰宅した。
ある木枯らしが吹き荒れる日曜日、
「スイカなら食べられそうな気がする」
と季節錯誤な渇望を眞子が口にしたところ、健一は
「よーし」
と勢いよく商店街に走り、
「八百屋のおやじが奥のほうの冷蔵庫から引っ張り出してきたっ」
という小玉のスイカを買ってきてくれた。
健一が慣れない台所に立ち、眞子と自分用に切り分けたスイカは、和歌と福美から結婚祝いにもらったウェッジウッドの皿にのせられ運ばれてきた。
結婚して初めての健一の誕生日に一度使っただけで大切にしまってあったのだが、たまたま目についたのがこの皿だったのだろうか。
スイカは長期保存してあったものなのか、シャキシャキ感は完全に失われ、もさっとした口当たりだったが甘かった。
礼を言って皿をさげてもらい、再び横になった眞子の耳に、ガシャンッと皿の割れる音が響いた。




