京都⇔大阪 1997年 ③
「ほっほーう。それで眞子先生はお二人もの男性と踊るわけなんですな」
8月のうだるような暑い午後。
舞鶴にいる涼子を訪ねた帰り道、そばを食べ終えたところだった。
自称「痩せの大食い」の健一は満足げにそば湯をすすりながら、バレエの発表会について「へーえ」「ふうん」とわざとおざなりな声をもらしている。
「そりゃあ、お忙しくて私めなどと遊んではいられませんよね」
と機嫌をそこねたふりをするが、ひとえの細い目は笑っている。
6月にリアムが来日し、7月からは発表会の準備が忙しくなり、健一と英会話教室以外で会うのは久しぶりだった。
1年前に涼子が脳梗塞で入院して以来、眞子は健一の運転で何度も舞鶴にいる涼子を訪ねている。
最初のころ健一は、眞子を病院の前で降ろして近辺をドライブしたり散策したりしていたが、もともと誰にでも話しかける涼子と気楽な質の健一はすぐに打ち解け、今や退院した涼子のアパートで一緒にお茶を飲んだり、後遺症で足を引きずる涼子を車で買いものに連れて行ってくれたりもする。
高速代もガソリン代も受け取らない健一に、ごちそうぐらいはさせてほしいと眞子は主張して、良さげな店を見つけて立ち寄ることもあれば、眞子が早起きして作った弁当を海辺で食べることもある。
眞子は料理でわからないことがあるたびに、涼子に電話をかける。
「もしもし、そちら料理相談室ですか?」
眞子がいつもの決まり文句で切り出すと、しわがれた声で電話に出た涼子は、
「はいはい、そうでございますが」
と、とたんに1オクターブ音域を上げて調子を合わせる。
そして、眞子が何を訊いても、姉の朱実のように「さあ」とか「てきとー」などというそれこそ「てきとー」な返事ではなく、
「せやなー。大さじ1杯くらいかなぁ」
などと、ちゃんとわかるように答えてくれる。
脳梗塞の影響で足は少し引きずっているが、思考や言葉には後遺症が見られないことに眞子は毎回ほっとする。
健一は会社で広報の仕事をしており、その関係でコンサートや映画や展示会などのチケットが無料で手に入ることがあると言っては眞子を遠慮がちに、それでいて元気いっぱいに誘うようになったのは昨年の秋ごろからだった。
健一の誘いに応じるようになってから、眞子は他の男性からの誘いを断るようになった。
なんのときめきも感じない、ノエルのかけらの1ミクロンも感知できない健一と一緒にいるのが一番楽だった。
最近では「無料で手に入ったチケット」がなくても、健一は眞子を食事やドライブに誘うようになり、眞子も女友達に対してと同等の気楽さで健一に電話をかけるようになっていった。
「来月の2週目でしたっけ、TOEICの模試。田口さんにほとんど強引に勧誘されて受けることにしたんですけど、先生も現場監督に来られます? それとも来月も日曜日はバレエで忙しいですかね…」
発表会のスケジュールが入る前から、その日はTOEIC模試の試験官を頼まれていた眞子だったが、びっくりさせるのも愉快だろうとひらめき、
「そうなんですよー。わたしは行けませんけどTOEICがんばってくださいね!」
と言いながら、試験当日に教室で眞子を見たときの、豆鉄砲を食らったような健一の顔が目に浮かび、ふき出しそうになる。
「びっくりしましたよー。本当に先生いたずら好きなんですからー」
今日の午後、テストを受けに現れた健一は、仕事モードで「ハロー」と挨拶する眞子を見て、豆鉄砲どころかバズーカを食らったように驚いてくれたのだが、いま受話器から聞こえる声は心なしか元気がなかった。
どうかしたのかと尋ねると、近い将来、東京勤務になるかもしれない、と言い、
「あ~、行きたくないなぁ」
と情けない声を出した。
澄み切った秋晴れの空がどこまでも広がる10月の午後に、眞子は和歌の結婚式に参列した。
おしゃれに手間暇かけていたというわけではなく、ただ単純になぜか身支度がはかどらず、もたもたしているうちに予定より家を出る時間が遅くなってしまった眞子は、電車を降りる直前になって、最寄駅からの地図を家に忘れてきたことに気づいた。
わかるのはホテルの名前のみ。
どうしよう、立ちどまって誰かに聞かなくては、と思うのだが、焦りから、速足になるままにどんどん歩き続けてしまう。
しかし運良く正しい方向に進んでいたようで、会場のホテルが見えてきた…
奇跡だ。
自分が正しいと思う方向は必ずまちがっているのが常だというのに。
英語にクリスマスミラクルという表現があるが、これはウェディングミラクルか?
時間前にたどり着くことができた眞子は、すでに到着していた福美と連れ立って花嫁の控室を覗き、和歌のウェディングドレス姿に目をみはる。
高校の制服を着て教室で机を並べていた仲良しの女友達が、あまりに幸せそうであまりに美しいことに圧倒されたのと、道がわからず先ほどまで内心泣きそうだったのとが脳内でぐちゃぐちゃに混ざり合い、動揺したままの笑顔で眞子は福美と3人で写真に納まった。
披露宴では、これでもかと言わんばかりに幾皿も出てくるコース料理を軽々と平らげていく福美の食べっぷりに感心しながら、久しぶりに口にしたアルコールが気持ちよく体中を巡っていくのを感じるが、両親への花束贈呈で和歌が読む手紙の内容に、眞子の酔いは一気に冷めていく。
「今まで育ててくれてありがとうございました」
「この家に生まれて幸せでした」
「お父さんとお母さんの娘に生まれて本当によかったです」
などなど…
ドラマのセリフではなく現実にそんなふうに思って生きている人間がいるのか?
と気持ちが揺れまくり、ワイングラスの中身を一気にのどに流し込む。




