京都 1993年 ①
およそ3年ぶりに目にする日本は、すべてがずいぶん小さく見える。
車も道路も店も建物も人も。
空港で迎えてくれた和歌と福美も縮んだのか?
と驚くほど記憶よりもだいぶ小柄に見える。
眞子のサイズ感覚は、完全にアメリカナイズされてしまっている。
「眞子」
「大変やったな」
急な帰国にもかかわらず、わざわざ伊丹まで駆けつけてくれた友達との再会に、眞子は何かが足りないような違和感を覚える。
「時間少しはあるの?」
「お茶できる?」
「うん、お葬式は明日らしいから」
と答えながら眞子は、ハグがないからだと気づく。
久しぶりに会う人とは抱擁を交わすのが、アメリカ生活で習慣になってしまっている。
「どんどん亭でお茶していく?」
と言う和歌について行くと、店の名前はロンドン亭だった。
ああ、なるほど!と眞子は、ノエルが買ったアメリカ人向けの日本語教材に書かれていた内容を思い出して膝を打つ。
「ラ行は英語にはない音です。強いて言えば、DとRの間のような音です」
そう解説されているのを読んだ時には、え?らりるれろにDの音なんて入ってるかな?と、いまひとつ同意できなかったのだが、日本語の「ロンドン」が「どんどん」に聞こえたということは、なるほどその通りかもしれない。
ロンドン亭で、アメリカで飲むより格段に香り豊かな紅茶を飲みながら再会を喜び合うが、隙なく化粧をほどこし綺麗に着飾った和歌と福美に、眞子は自分がいかに満身創痍で疲れ果てているかを話せない。
久しぶりに使う日本円にもたつきながら料金を支払うと、ご丁寧にお辞儀をされてたじろぎ、立ち寄ったトイレが和式なことに衝撃をうけ、ハンカチで手を拭く友達を横目で見ながらペーパータオルが備え付けられていないことにとまどう。
これが例のリバースカルチャーショックか?
居心地が悪くてたまらない。
早くニューヨークに、ノエルのもとに帰りたい。
そしてニューヨークに戻ったら、らりるれろには確かにDの音が入っているみたいだとノエルに伝えようと思い、その場面を思いうかべるだけで、リバースカルチャーショックをちょっとだけ楽にやりすごせそうな気がした。
30歳を過ぎた姉は確実に老けていた。
やはり喫煙や飲酒は健康だけでなく美容にも良くないのだ、と朱美の喫煙と飲酒習慣を思い出してしみじみ納得する。
小学生になった甥たちは、ほとんど会ったこともない眞子に寄ってこない。
義兄とは、小学生のころ週末にどこかの親戚の家に送られていくときに車に乗せてもらったぐらいしか、関わりも思い出もない。
火葬場で済まされた、これ以上ないというほど簡易スタイルの葬儀には、参列者もたったの8名、眞子と姉一家、そして幸雄の姉である佳子とその娘の広子、それに涼子だけだった。
「いやぁ、よう焼けて…」
「体ぼろぼろやったんやなぁ…」
「お母ちゃんのときはもっときれいに骨残ってたもんなぁ」
「初枝さん、若かったから」
焼け残った骨を拾いながら気軽にくり広げられている大人たちの会話に、眞子は動揺している。
母親が死んだとき9歳になったばかりだった眞子は、火葬場に行ったことも棺桶を閉めた瞬間もはっきりと覚えているが、骨の状態がどうだったかまでは思い出せない。
「お父ちゃんが退職するって言わはったときは、年もまあ年やし、夜勤で昼間よく寝られへんから睡眠薬飲んでるって話も聞いてたし… 眞子ちゃんも奨学金もらって学校通ってるんやから無理してこれ以上働かんでもいいんかって、気にしいひんかったんやけど。運転してて自分でおかしいと思うようなことがあったんかなぁ。今思たら話の辻褄があわへんこともあったけど、まあ、もともと変人やったから…酔っぱらってることも多かったし…」
姉の朱実は、幸雄を一度病院に連れて行ったほうがいいかもしれないと思いつつ、子育てに追われてそのままになっていたらしい。
「気づいてたら死なんですんだのに」
そう言っては、すすり泣く朱実を、
「朱実ちゃんのせいとちゃう」
と、大人たちが慰める。
「最後に会ったときもお父ちゃん、『初枝は死んだし。朱実は嫁にいって子供まで産んだし。眞子はアメリカやし。ピーコもとっくに死んだし』て言うから、ピーコって誰?ああ、あの文鳥かいなって心の中でつっこんだけど…まさかボケてたとは」
と笑ってから、いっそうにぎやかにすすり泣く。
幸雄は海で溺死したのだった。
出不精で友人もおらず、趣味も囲碁ぐらいだった幸雄がなぜ海に?と眞子は驚く。
朱実の話によると、碁会所での顔見知りと最近何度か釣りに出かけていたらしいのだが、この日は釣り糸を垂らした状態で眠りこけ、起きるよう呼びかけた連れの男に、
「もう朝かっ。道混む前に仕事行かな」
と言って立ち上がり、あっと言う間に海に落ちたらしい。
その日は初枝の12回目の命日だった。
「お母さんと同じ日に死ぬって…」
そう言って朱実はわんわん泣くが、眞子は一滴も涙が出ない。
「眞子ちゃん、そんなすぐアメリカ戻らんでもええやんかぁ、せっかく3年ぶりに帰国したんやから」
一刻も早くノエルの元に戻りたかった眞子だが、
「痩せたんちゃう?顔色も悪いみたいやけど」
と心配する涼子に熱心にひきとめられているうちに、春休みもはさんでいるのだから少しくらい滞在を延ばしてもいいような気になった。
電話でそう伝えたら、ノエルは異議を唱えなかった。
反対されなくてよかったと思いながらも、早く戻ってきてほしいと言ってもらいたかった気もして、一緒にいられない不安がちらりと胸をよぎった。
葬儀の夜、朱美から涼子の家に電話がかかってきた。
そしていきなり、
「お父ちゃんが死んだら眞子ちゃんに言おうと思ってたんやけど」
と、もったいぶった口調で切り出し、
「ごめんな。まだ小学生やった眞子ちゃんとお父ちゃんを置いてって。結婚して自分だけ幸せになって」 と、用意していたらしい台詞を一気に浴びせかけた。しかも号泣しながら。
どう反応していいのかわからない眞子の脳裏に、みじめな子供時代の記憶がよみがえり、たまらなく嫌な気分になる。
「お姉ちゃんなんやて? お風呂沸いてるよ」
涼子に声をかけられて、眞子は受話器を置いた電話の前から立ち上がり、壺庭に面した風呂場へと向かう。
たっぷりと肩まで浸かれる日本の湯舟はなんて気持ちがいいのだろう。
ふーうっと吐いた息と一緒に涙がこぼれ、同時に父親からもらった手紙を思い出して噴き出した。
人生で初めて(そして最後になってしまった)書いてくれた、たった一枚の手紙。
アメリカにいる娘に日本(主に京都周辺)の気象情報をくわしく書いてよこしたお父さん…
鮎が何匹死んだとか鶏が何羽死んだとか台風が何個きたとか…
眞子の体の奥から笑いと涙が同時にあふれる。
父を悼んでなのかなんなのか、何が悲しくて泣いているのか自分でもわからないまま、父親が死んで初めて流す涙は後から後から眞子の頬を伝った。
子供のころ、ふとんの中でいつもそうしていたように、声を殺して一人で泣いた。




