京都 1987年 ①
これまでは日曜や学校の長期休暇を利用して続けていた《コッペリア》の読者モデルも、受験が終わるまでは撮影の依頼を受けないということで町田に了承をもらい、踊っていない時間は可能な限り勉強にあてた。
塾に通う時間などはなかったが、家では登校前にラジオ英語を聴き、志望校の問題集を解き、学校ではとにかく全教科集中して授業をうけていた眞子は、晴れて志望校に合格した。
高校に入学した眞子には思いがけず、和歌と福美という、親友とも呼べる友達ができた。
うれしい驚きだった。
背の順で並んだときに前後になるのが縁でよく話すようになった和歌は、機嫌にムラが少なく笑いのセンスがあり、うぬぼれたところはないが、かと言ってへりくだったりへつらったところもなく、一緒にいて居心地が良かった。
席が近くて仲良くなった福美は人柄も話し方も容姿もおおらかで、とにかく笑い上戸だった。
授業中に国語の教科書を読まされただけで笑いが止まらなくなることがあり、
「何がおかしいねん。もうええわ」
と教師に座らされた福美のかわりに指されると、眞子も伝染したように笑って読めなくなるので、結局まじめな水嶋くんが読まされるのだった。
親友と出会えたこと以外にもう一つ驚いたことは、眞子がバレエ雑誌に出ているのを知っている同級生が何人かいたことだった。
やはりバレエを習っているとか習っていたとかいうそれらの女子たちとはクラスがちがったが、間に共通の友達をはさんで顔見知りになり、校内で立ち話をする仲になり、眞子の発表会に足を運んでくれる子さえいた。
和歌と福美は、時に他の友達も交えて学校帰りに寄り道をして帰ったり、休みの日に遊んだりするが、バレエで忙しい眞子は誘いをいつも断らなくてはならず、そのうち自然に誘われなくなっていった。
そうなると少しさびしくも感じるのだが、どちらにしろ、踊りを休んでまでショッピングしたり映画を観たり甘いものを食べにいったりしたいという欲望が、眞子にはこれっぽっちもないのだった。
友人間でも「眞子=バレエで忙しい人」の認識が浸透し、つきあいの悪さが交友関係に目立った支障を来すことはなかった。
眞子が成長したのか、周りの女子が成長したのか、小中学校でよりも人づきあいが楽に感じられた。
高校を選ぶうえで考慮に入れたのは、家からもスタジオへも交通の便が良く、学費も安い公立だという点だけだったのだが、入学してみれば文武両道をモットーとしている学校で、勉強もおろそかにできなかった。
活動盛んな運動部のなかでも特にサッカーの強豪校として知られているようだったが、サッカー部員は赤点をとると休部させられるという決まりがあり、練習が忙しくてもまじめに授業や課題に取り組んでいた。
そんな彼らに対して密かに親近感と競争心を抱くようになった眞子は、疲れていても気力で授業に集中し、宿題はなるべく休み時間に片づけ、登校前にはラジオ英語を聴く毎日を送っていた。
しかし何より眞子は、翌年の夏休みこそはクラッセンのサマープログラムに参加しなくては、と意欲を燃やし、12月に提出する書類やビデオについて頭を悩ませていた。
書類には師事するバレエ教師からの推薦状を添える必要があったため、猪熊に相談したところ、
「英語得意じゃないんだけどに~ぃ」
などと言いながらも、海外のバレエ学校やコンクールなどに挑戦する生徒に慣れているようで、推薦状はもちろんビデオ撮影への協力も引き受けてくれた。
眞子はこれまでにも増して身を削り、踊りにも勉学にも励んだ。




