京都 1985年4月~ ⑤
白川通りでバスを降り、鹿ケ谷通りに向かっての坂を上る。
底冷えが厳しいとはいえ、日の高い時間に道が凍っていることなどないはずだけれど、万が一この急な坂で足をすべらせたら
そんな考えが頭の片隅によぎり、眞子は注意深く歩を進める。
低い瓦屋根の家が立ち並ぶ細い路地に入り、涼子の家の引き戸をガラガラと開けたとたんに、
「いらっしゃあーい」
と言う涼子の迫力ある声と、笑っているように口をぱかんと開けたポメラニアンのアランが眞子を出迎える。
アランはボサボサのしっぽをちぎれんばかりに振りながら短い足で駆け寄ってくる。
寒々とした自分の家とちがい、涼子の家はいつ来てもぽかぽかと暖かい。
家では使うことのない灯油ストーブのにおいを吸い込むたびに、眞子の身も心もほぐれていく。
涼子の仕事についてくわいく聞いたことはなかったが、料亭などでの宴会で酒をついだり三味線を弾いたりする女の人を手配する商売なのだと、頻繁に泊まりにくるようになってから、眞子は理解するようになった。
若いときほどではないが、涼子自信も着物を着て出かけて行くこともあり、そんなときは自然に眞子が電話番をするようになった。
「いつもありがとうございます」
という挨拶から始まり、頼まれたわけでも教えられたわけでもないが、涼子の見よう見まねで電話の受け答えをして、場所と日時と人数、糸(三味線をこう呼ぶらしかった)の要不要をノートに書き込む。
帰宅した涼子に伝え、
「ありがとう、眞子ちゃん」
と言われると、眞子は任務を遂行できたようでほっとするのだった。
涼子が宴会にいってしまうと、帰りは9時10時になることもあり、結局眞子はここでも一人留守番をすることになるのだが、ガラガラガラッと勢いよく玄関の戸を開けて帰宅した涼子が、
「眞子ちゃんっ、おなかすいたやろっ」
と着物姿のまま台所に直行し、遅い夕食を都合してくれたりすると、眞子のさびしさは醤油や油の匂いにかき消された。
出かける前に衣をつけておいた豚カツなどを冷蔵庫から取り出し、ついでに冷凍庫からぎょうざなども引きずり出し、揚げ油にあれもこれもと豪快に放り込む涼子の着物が汚れるのではないかと眞子はハラハラしながらも、二人で食べる遅い夕餉のために、箸や皿をちゃぶ台にならべた。
小さいころから初枝と二人、または小遣い目当てでついてくる朱実―――全盛期のころの涼子はすこぶる羽振りがよかった―――と三人で遊びに来ていた涼子の家だが、母親の生前に泊まっていったことはなかった。
しかし今では、2階に2部屋ある和室の一つが眞子の部屋のようになり、眞子のために空けてある抽斗まであった。
その抽斗に洋服をしまうとき、眞子はここが自分の家だと空想した。
涼子は知らない人に眞子を紹介するとき、説明するのが面倒なのか、姪だとか娘だとか孫だとか冗談まじりに適当なことを言うことがあったが、家族や親戚のふりができるその瞬間が、眞子は好きだった。
しかし、この正月は本物の甥とその嫁がやってくる。
棒鱈をゆでる湯気がたちこめる台所で、お節作りに忙しい涼子は、先ほどからごぼうをすりこ木で叩きのめしている。
「聡ちゃん、おばちゃんのたたきごんぼ、すきやさかいっ」
そう言いながら、ぐったりした牛蒡を胡麻たっぷりの合わせ調味料と和え、「たたきごぼう」が完成する。
初めて涼子と過ごした正月、眞子は江戸っ子だった母が作っていたのとは異なる、京風のお節やお雑煮に驚いたが、今ではもう母親のつくるお節を思い出せないことに驚く。
大掃除でも手伝おうと涼子に申し出た眞子は、
「ほな窓ふきしてくれるか?」
と、ボロ布と洗剤のスプレーを手渡される。
噴射される霧状の洗剤に咳き込み、うっすら涙さえうかべながら、もう何年も誰もまともにそうじなどしていない、うす汚れた我が家を想った。
正月を迎える準備が整い、眞子と涼子は年越しそばを食べながら紅白を見た。
演歌が続いて眞子が退屈しているのを見てとった涼子は、
「こんなおばはんやらおっさんばっかりつまらんわ~。なあ眞子ちゃん」
と言いながら豪快にそばをすすってむせた。
紅白を見終わってから、近所の寺で除夜の鐘をつき、甘酒をのんだ。
寺の飼い犬が急にわんわんと吠えるのを見て、涼子がこの犬にも勝手にソーセージなどを与えているのだろうと眞子は勘ぐる。
涼子の周りにはいつも犬がいる。
眞子が生まれる前から涼子が飼っていたアドという狆と、アドが産んだマミも死んで、その後に来たのがポメラニアンのアランだった。
アランは元の飼い主だった老婆に虐待されていたらしく、涼子の家にきたばかりの頃は誰にも指一本触れさせず、悲壮感漂う目をつり上げて低いうなり声を上げていた。
「触ったら噛まれるで」
と言う涼子の言葉におののき、動物好きの眞子も近づくことさえできなかった。
アランは物音にも敏感で、階段の上り下りやドアの開け閉めの音にも危険を察知したかのように吠えまくるので、眞子はコソ泥のようにびくびくと足音を忍ばせなくてはならなかった。
しかし、アランは涼子に引き取られてわずか半年ほどですっかり顔つきが優しくなり、ゆっくり近づけば撫でさせてくれるようになった。
まだ音には敏感だったが、びくっと体を反応させるだけで、今ではやたらと吠えることもなくなった。




