わずかなずれ
朝の通勤路は、毎日ほとんど同じだった。
少なくとも、柳端はそう思っていた。
春でも冬でも、この時間の空気はほとんど変わらない。
駅へ向かう人の流れが、静かに道を満たしている。
同じ交差点。
同じ信号。
同じ歩道橋。
柳端は、いつもの場所で立ち止まり、青信号を待っていた。
ただ、ここで待つのが習慣だった。
通りを渡る人々の流れは一定で、急ぐ者もいれば、ゆっくり歩く者もいる。
誰もが、自分の時間の速さで進んでいる。
信号が青に変わる。
人の流れが動く。
柳端もそれに合わせて歩き出した。
横断歩道の白線を、ひとつ、ふたつ、三つ。
そのとき、妙な感覚があった。
何かを、今、経験したばかりのような気がした。
正確には違う。
「さっき起きた」というより、
「一度終わった出来事が、もう一度始まった」ような感覚だった。
柳端は歩みを止める。
周囲の人々は、特に気にする様子もなく通り過ぎていく。
車のエンジン音。
遠くのクラクション。
歩行者信号の電子音。
だが、それはただの錯覚だろう。
柳端はそう思い直し、再び歩き出す。
渡りきった先の歩道に立ち、何気なく振り返る。
信号は、まだ青だった。
それだけのことだ。
それなのに、胸の奥に小さな違和感が残った。
まるで、自分がこの横断歩道を――
柳端は首を振る。
そんなはずはない。
時計を見る。
遅刻の心配をする時間ではない。
いつもと同じ、少し余裕のある朝だった。
柳端は足を止めた。
不思議なことに、 驚きはなかった。
むしろ、 思い出したような感覚だった。
それが余計に気味が悪かった。
彼は歩き出す。
通りの角に、小さなパン屋がある。
朝になると焼きたての匂いが漂う。
今日も同じ香りがしていた。
ガラス越しに、店員がトレーを並べている。
その動きが、ふと目に入った。
その瞬間。
柳端の足が止まる。
その瞬間、胸の奥が先に反応した。
店員がパンを落とした。
その瞬間。
柳端の脳裏に、
「ああ、落とすな」
という考えが浮かんだ。
そして次の瞬間、 本当にパンが落ちた。
今、初めて聞いたはずなのに。
その響き方を、もう知っている。
店員が慌てて拾い上げる。
周囲の客が少しだけ振り向く。
それだけの出来事だ。
だが柳端の胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
「……変だな」
小さく呟く。
だが、その言葉は誰にも届かない。
パン屋を離れ、歩道を進む。
会社までは、あと十分ほど。
街の景色は、見慣れたものばかりだった。
同じ看板。
同じ建物。
同じ空。
それでも、どこかで微妙に噛み合っていない。
柳端は、ふと空を見上げる。
雲は薄く、朝の光が街を均一に照らしていた。
その光景に、奇妙な既視感がある。
初めて見る空のはずだった。
だが、何度も見た記憶がある。
理由は分からない。
ただ世界が、 ほんの数センチだけずれているように感じた。
まるで、見えないもう一つの街が、この街の上に重なっているようだった。
だが、重なりきらない。
ほんの数センチだけ、世界がずれていた。
看板の位置が、わずかに違う。
影の向きが、ほんの一瞬遅れる。
説明できるほどではない。
だが、確かにそこにある。
柳端は歩きながら、ポケットの中の携帯を取り出す。
画面には、現在時刻。
8:12
もう一度見る。
8:12
秒針だけではない。
通りを歩く人影も、 一瞬だけ動きを止めていた。
秒表示が、動いていないことに気づく。
街の音だけが、先に進んでいる。
一秒。
二秒。
数字は変わらない。
柳端は眉をひそめる。
画面をタップする。
すると、数字が動き出した。
8:13
何事もなかったかのように。
携帯をポケットに戻す。
通りの向こうで、誰かが笑っている。
自転車が横を通り過ぎる。
すべてが普通だ。
何もおかしくない。
それでも。
柳端は、歩きながら思う。
もし。
もし世界が、ほんの少しだけ。
ずれているのだとしたら。
それは、いつからだろう。
そして――
誰が、それを決めているのだろう。
柳端は、その答えをまだ知らない。
8:13
数字は何事もなかったように動き出した。
柳端は携帯をしまう。
通りの向こうで、 誰かが笑っている。
自転車が横を通り過ぎる。
街はいつも通りだった。
だが柳端だけが、 そこから少しだけ外れていた。
その違和感に、 まだ名前はない。
そして最後に、
世界がそれを何と呼ぶのかを。




