存在確率の偏移
静かすぎた。
何も起きていないことが、すでに異常だった。
収束の気配が消えたあと、
世界はあまりにも何事もなかったかのように整っている。
それが、いちばん不自然だった。
舗装路のひび割れも、遠くで揺れる電線も、さきほどと同じ形を保っている。
だが柳端には、その「同じ」という感覚が信用できなかった。
隣に立つ彼女は、普段と変わらぬ距離でこちらを見ている。
頬にかかる髪を指で払う仕草も自然だ。
風が弱く吹き、彼女のスカートがわずかに揺れる。
にもかかわらず、柳端の内側には小さな引っかかりが残った。
彼女が瞬きをする。
閉じて、開く。
その動作は確かに視認できた。
だが柳端の記憶に残ったのは「開いたあとの視線」だけだった。
瞼が閉じていたはずのわずかな時間が、感覚として保持されていない。
欠けているのは長さではなく、重さだ。
気のせいだと片づけようとした瞬間、 第三位相が微かに震えた。
それだけで十分だった。
世界は、まだ計算を続けている。
柳端は無意識に彼女の手を取った。
指先に触れる温度は確かで、彼女も握り返してくる。
その力はいつもと変わらないはずなのに、触れているあいだの連続性が妙に薄い。
握り続けている時間の厚みが感じられない。
「どうしたの?」
彼女が問いかける。
声ははっきり届く。
遅れはない。
だが言葉が発せられる直前の息遣いが、空間に刻まれていない。
出来事の中心だけが保存され、周囲が削られているようだった。
柳端は視線を強める。
彼女の輪郭がわずかに安定する。
だが同時に、周囲の景色が鮮明さを増す。
遠くの看板の文字がくっきりと読み取れ、街灯の金属部分の傷まで見える。
世界が彼の現在を基準に再整列している。
崩壊は起きていない。
どちらかにわずかに寄っている。
彼女は笑ってみせる。
変わらない。
声も。
表情も。
触れた温度も。
何ひとつ変わっていない。
それなのに。
柳端だけが理解していた。
世界は、彼女を基準にしていない。
しかし視線を外した瞬間、空間が彼の側を優先して組み替えられる感覚がある。
これは単なる時間差ではない、と柳端は悟る。
速さではない。
存在に割り振られる“情報量”の問題だ。
もし遅れであれば、時間差として測定できる。
だがこれは差ではない。
密度の問題だ。
存在が消えているわけではない。
ただ、世界が保持する情報量に偏りが生じている。
第三位相は沈黙したままだ。
補正は行われない。
つまりこれは異常ではなく、許容範囲内の再計算だということになる。
彼女はそこにいる。
だが世界が同じ重さで彼女を保持しているとは限らない。
柳端の胸に、言葉にならない不安が沈殿する。
もしこの傾きが進行すれば、やがてどちらかが標準として固定される。
そのとき、もう一方はどうなるのか。
世界はすでに、わずかに傾いている。
その均衡は、どこか遠くではなく、
最も近い一点から調整を始めていた。
――彼女と、柳端のあいだで。
世界はまだ結論を出していない。
だが均衡は、必ず基準を必要とする。
そしてその基準は、 もう選ばれ始めていた。
――二人のうち、どちらかが。




