第三章 花婿失踪事件 (四)
ロンドン魔法省監視局・地下拘束区画。
先の「赤髪協定事件」で拘束された男――ジョン・クレイは、鉄と石でできた冷たい房の中で、静かに座っていた。
レストレードが無言で前を歩き、最後の扉の前で立ち止まった。
「……ここだ」
扉の小窓を開け、中を覗く。
「念のため魔導封鎖を施してある“彼”は気づいているのか、いないのか……とにかく落ち着き払っている」
「わかったわ」
シャーロットは頷き、扉の前に立った。
レストレードが鍵を開け、重い金属音が鳴り響く。
「必要なら呼べ。……本当に一人で大丈夫なのか?」
「大丈夫。あの人は、直接危害を加える性格ではないわ」
シャーロットはそのまま部屋に入った。
部屋の奥。
椅子に腰掛け、手錠と封魔具で拘束された男。
ジョン・クレイは、シャーロットが入ってきた瞬間、ゆっくりと顔を上げた。
「……珍しい、お客様だね」
その声には、捕らえられた者とは思えない落ち着きと余裕があった。
「クレイ。マーサの記憶を改変したのは、あなたね」
「質問の仕方が実に良い」
クレイは静かに笑う。
「証拠は揃っているという前提を置いたうえで、核心だけを問う姿勢……”教授”が気にいるはずだ」
「あなたが答えようが黙ろうが、事実は変わらないわ」
「もちろん」
クレイは軽い口調で言った。
「私は、やった」
シャーロットの瞳が揺れることはなかった。
「……どうして?」
「理由か」
クレイは天井を見上げ、軽く笑った。
「ウィンディバンク卿から話が来たのは三ヶ月前だ、“娘に婚約者を作りたい”
――くだらない願いだが、利用価値はあった」
「利用価値?」
シャーロットの声音は静かだった。
「私は、実験台を探していたんだよ」
クレイは淡々と語る。
その素っ気ない口調とは裏腹に、瞳だけが異様に輝いていた。
「だが、本当に面白かったのはその先だ。私は、実験に必要不可欠な“素晴らしいもの”を手に入れた。」
シャーロットは指先で軽く空を払うように動かした。
「……《ミラージュ・ペン》ね」
「そうだ」
クレイは愉快そうに目を細めた。
「あれは傑作だ。観測の深度を底上げし、魔法式の浸透率を異常なほど高める。ウィルスン教授の研究も、あれのおかげで完成に近づけた。
――アドラーが持ち出さなければの話だが」
シャーロットは黙って聞いていた。
クレイは肩をすくめる。
「まあ、結果として私の研究は成功した。人の“自我”はどこに宿るのか――その核心に触れられた」
「……答えを聞かせて」
「いいとも」
クレイはゆっくりと身を乗り出した。
「人の自我は、記憶の断片でも、感情の蓄積でも、観測される事実の羅列でもない。
――“認識の連続性”だ」
「連続性……」
「人は、自分が昨日と同じ自分だと信じている。証明されていないのにね」
クレイは笑いかけた。
「だから、そこを書き換える。……すると、君が想像しているより簡単に――」
彼はそこで言葉を切り、目だけを細めた。
「いや。続きは、彼女の結果を見れば分かる」
「……君は、見ただろう?」
クレイは笑った。問いではなく、確認の口調だった。
「……その仮説を、マーサを使って確かめたのね」
「そのとおり」
クレイはあっけらかんとしていた。
「彼女は観測系の魔法式との相性が驚くほど良かった。あれほど深く魔法式が浸透した例は初めてだ。成功例と呼んで差し支えない」
「……成功?」
シャーロットの声が冷たい。
「彼女の精神は壊れかけているのよ」
「心など、いくらでも再構成できる」
クレイは平然としていた。
「壊れたのは――彼女に“素養がありすぎた”せいだよ。私は研究を進めただけだ」
しばらくの沈黙。
シャーロットは無言で背を向けた。
クレイとの対峙を終えたあと、シャーロット達はサザランド邸に向かった。
サザランド邸の応接室。窓の外には、細く晴れた空がのぞいている。
「もう一度伺います」
レストレードの声は冷静だった。
「あなたは、娘さんの婚約者をつくった」
「……それは、さっきも言っただろう。実際にいない人間だと安全だと思ったんだ」
「だから、“記憶の中の婚約者を”と、ジョン・クレイに依頼した」
ウィンディバンクの肩がぴくりと震え、青ざめた顔でシャーロットを見た。
しばらく唇を震わせていたが、やがて力なく笑った。
「ボヘミア卿からの資金提供、これは、赤髪協定での紅魔装置の開発ですね」
赤髪協定の捜査資料から、ウィンディバンク・サザランドの名前があった。
「ああ、そうだ」
「……あの方には、借りがある。この開発により莫大な資金も得た、いくつかの取引先も……すべて、あの方が用意された」
「しかし、マーサは、他の貴族の男と仲が良かった。ただ、その貴族は、あの方とは別の派閥だ」
彼は握りしめた拳を膝の上で震わせた。
「サザランド家の娘が、どこか別の貴族に取られれば、私の立場も揺らぐ。
あの方は、言った。ならば、“婚約者がいることにしておけ”と……名前も、姿も、記録に残らない“婚約者”を、だ」
「それで、クレイに?」
レストレードの声は低い。
「私は……ただ、“少し記憶をいじる”程度だと思っていた。婚約話が“いる”と信じ込ませる程度の……まさか、あんなふうに……」
声が途中で途切れた。
「娘は……本当に、誰もいない廊下に向かって話しかけるようになった。
笑って、泣いて……“ホズマー様が”と……怖かった」
ウィンディバンクは顔を覆った。
「私は、父親失格だ。娘を守るふりをして、あの方と、自分の立場を守っただけだ」
沈黙が落ちた。
レストレードは静かに手帳を閉じる。
「ウィンディバンク氏。あなたの行為は、監視局においても重大な罪に当たる。
ただし――最初に依頼を持ち込んだのが誰か、詳細に証言してもらう必要がある」
シャーロットは窓の外の空を見上げた。
遠く、学園の塔が淡く霞んでいる。
学園の医務室。
シャーロットは静かに息を整えた。
アドラーが残した――《ミラージュ・ペン》と、その魔法式。
魔法式の一つには、《ミラージュ・ペン》の構造、使用法、そしてそれが作られた理由が記されていた。
《ミラージュ・ペン》は、本来、記憶を伝承するための魔導具だ。
物質を受け渡すのではない。
人を媒介として、記憶そのものを継がせる。
人の心と記憶を使い、時間を越えて、長期的に残すための仕組み。
――それが、本来の目的だった。
だが、いつしかそれは、
その目的から静かに、しかし確実に逸れていった。
記憶は、消すこともできる。
上書きすることも、書き換えることもできる。
けれど――
それは、その人が抱いていた想いまで、消してしまうことにはならないのだろうか。
答えは、もう決まっていた。
医務室の薄い光の中で、マーサはぼんやりと膝を抱えていた。
「……ホズマー……」
「……待っています……」
それは幻術による言葉ではなく、彼女の心が“自然に”こぼしたつぶやきだった。
シャーロットはそっと近づき、彼女の手を優しく握る。
深く息を吸い、静かに《円》を描いた。
柔らかな光がマーサの身体を包み、偽りの記憶の殻だけがひとつ、またひとつと
静かに剥がれ落ちていった。
――しばらく経ったある午後。
シャーロットは改めて、マーサを訪ねることにした。
「ああ、シャーロット様。お久しぶりです」
扉を開けて迎えた彼女は、以前とはまるで違っていた。
表情は明るく、瞳にははっきりとした意思の光が宿っている。
「お元気そうでよかった」
「はい。悪い夢でも見ていたかのように……すっきりとしています」
温かな紅茶をいただきながら、穏やかな時間が流れた。
やがてシャーロットが立ち上がる。
「では、マーサ様。またお会いしましょう」
「はい、また。いつでもどうぞ、シャーロット様」
マーサは微笑んだ。
「今度は……ホズマー様が帰ってきたら、一緒にお茶をいたしましょう」
「はい、そうですね」
シャーロットは、静かに答えた。
その声は優しく、同時にどこか儚かった。




