プロローグ
「シャル!」
ワトソンの悲鳴に近い声が聞こえた。
シャーロットは軽く振り返り、一瞬ワトソンを見た。
しかし、すぐに視線を「それ」に戻した。
トラファルガー広場。
大英帝国の勝利を模した、魔法都市ロンドンの中心にある大広場。
シャーロットとワトソンは、今その場所の中心にいる。
いつもは市民の憩いの場となり、待ち合わせや催事、祝祭のたびに人で満ちる。シャーロットも犬の散歩でよく立ち寄る場所だ。初めてロンドンを訪れた者なら、まずこの広場の壮大さに目を奪われるだろう。その中央には、ネルソン記念柱が天を衝くようにそびえ立っている。
その足元を囲む四頭の獅子像は、記念柱を守護するように四方へ配置されている。獅子像には、ある意味が込められている。
勝利、栄光、威信、そして守護。
四頭の獅子は、帝国の繁栄を守るかのように、四方から周囲を観測している。
だが、この広場の本質は景観ではない。
ネルソン記念柱は、魔導都市ロンドンの中枢観測柱でもある。
柱の基部からは、無数の魔力導管が街へ向かって伸びている。水路へ、街路灯へ、官庁街へ、そして住宅街へ。網の目のように広がった導管網は、都市全体へ魔法を循環させる巨大な血管である。
そして今、その心臓部には異物が食い込んでいる。
ありえない事態である。
本来、この中枢には何重もの防護がかけられている。
四頭の獅子像は、ただの記念像ではない。柱を守る魔法障壁の制御核でもある。外部からの侵入も、破壊工作も、すべてそこで弾かれるはず。
それが今、沈黙している。
「シャル、もう無理よ。時間がないわ。避難しましょう」
「まだ時間はあるわ」
シャーロットは動かない。
彼女の足元では、地面に展開した円観測式が青白く光り、その足元を冷たく照らしている。
シャーロットの視線は落ちたまま、上がらない。
いや、上げようともしない。
円観測。
シャーロットの固有魔法の一つ。
魔法の根源である〈点〉、その中にある核の情報を読み取ることで、魔法式を解析する。
彼女は、今も解析を続けている。
ワトソンは唇を噛む。
もう遅い。
逃げる時間すら、ほとんど残っていない。
それでも必要なら、引きずってでも彼女を退避させるつもりである。
最悪、自分が盾になることさえ、ためらう気はない。
シャーロットの指示のもと、監視局は広場にいる人間をすべて避難させている。
残っているのは、シャーロットとワトソンのみ。
二人の前にあるのは、時限式魔法爆弾。
軍と魔法省が共同開発した次世代戦争のための兵器である。魔法発生の最小単位〈点〉から観測核を抜き出し、核同士を衝突させ、莫大なエネルギーを生む。
それを、そのまま爆発へ変える。
たった一つの爆弾で、この広場くらいなら簡単に消滅する。
シャーロットは、軍の情報筋から入手した爆弾の詳細を思い出す。
魔法の根源を、殺戮に転用した兵器になる。
実用化されれば、悪用される可能性も出る。
そんなことは、誰にでも分かる。
それでも作った。
そして今、その兵器でロンドンが脅かされている。
シャーロットは円観測式を通じて、爆弾の魔法式を読んでいる。
式はそこまで複雑ではない。
だからこそ、分かってしまう。
「連鎖式……」
一つが起動すれば、他も起動する。
街ごと吹き飛ばすための構造。
しかも、その連結に使われているのは――魔力導管。
ロンドン中に張り巡らされた都市の血管が、導火線に変えられている。
魔法都市ロンドンは、都市機構そのものによって魔法を支えられている。魔力導管は、その循環を担う血管だ。その血管に、今、爆弾の魔法式が食い込んでいる。
トラファルガー広場の両脇には、二つの噴水がある。浄化の泉と循環の泉と呼ばれる噴水は、魔力導管の浄化と循環を行っている。噴水の透明な水は空を映し、青くきらめいているはず。しかし今、その噴水の水は赤い色に変色している。
魔力導管は、ネルソン記念柱を中心に伸びている。爆弾に接続された導管が、鈍い赤に脈打つ。本来、都市を巡る導管は淡い青を保つ。それが赤く侵食されている光景は、魔導学園で見た「あの装置」の実験そのもの。
赤色因子で導管の性質を書き換え、制御系ごと奪う。都市の血流を、そのまま兵器の回路へ変えている。
これだけの魔法式には、必ず観測者がいる。
もしくは、大掛かりな装置が必要なはず。
しかし、観測者も装置もない。
――無観測魔法。
理論の上にしかなかったはずのものが、今、目の前で現実になっていた。
これが起動すれば、魔力導管を通じて他の爆弾も連鎖的に発動する。一か所の爆破では済まない。都市全体が、導管そのものを導火線に変えて燃え上がる。ロンドンに住む五百万の人間、その全員が人質になっている。
もともと逃げ場などない。
逃げた場所でさえ、爆弾が作動するように設計されている。
この爆弾を作った人間は、嘲笑っている。
人々を逃げ道のない袋小路に、ゆっくりと追い詰めるのを。
胸の奥に、冷たい怒りが走る。
だが同時に、シャーロットの思考は、この魔法式の組み方に息をのむ。
「なるほど。――いい発想だわ」
都市を支えるための導管を、都市を壊すための経路に反転させている。発想自体は単純。けれど、それをこの規模で成立させるには、魔力導管の流れも、都市構造も、起爆の時間差も、すべて理解していなければならない。
美しい、とすら思う。
こんなにも鮮やかに、ロンドンという街ひとつを壊せる形に仕上げている。
だからこそ、許せない。
聞く者がいれば、犯人の共犯と疑われてもおかしくない台詞である。
だが、シャーロットにとって、思考と感情は別。
どれほど悪辣でも、優れた構造は優れている。
認めるべきものは認める。
そのうえで対処する。
「シャル、あと十分もないのよ」
爆弾には、時計が設置されている。
その長針と短針が、十二時の場所に重なるとき、それは起動する。
シャーロットの円観測は、起爆時間を確認している。
ワトソンは焦りを隠せなかった。
シャーロットの肩に手を添えようとするのを躊躇する。
このまま、シャーロットを担いででも逃がしたい。しかし、シャーロットの意志を曲げたくもない。思考と感情の狭間で、ワトソンはただ見守ることしかできない。
「ええ。十分もあるわ」
平然と答える。
その顔には、焦りもいら立ちもない。
彼女の薄青い瞳は、静かに爆弾の内部構造を見つめている。
シャーロットにとって、十分は絶望ではない。
五分で解析する。
五分で処理する。
それで足りると、本気で考えている。
そのためには、さらに深く潜る必要がある。
表層ではなく、魔法式の立体構造そのものを見なければならない。
シャーロットは、観測上限をさらに一段上げる。
視界の奥で、魔法式が増える。
重なる。
沈む。
仕方がない。
ワトソンには、あとで怒られるかもしれない。
――大丈夫。
十パーセント。
いや、十五パーセントまでなら、「それ」にはたぶん飲み込まれない。
深層に沈んだ魔法式の輪郭は、知っている形をしている。
核を直接さらさず、別の記録層をかぶせて観測を逸らす。
表の意味と裏の意味をずらし、読んだ者に誤認を起こさせる二重構造。
技巧としては美しい。
だからこそ、忘れるはずがない。
アドラーの部屋で触れた、外部干渉系の魔法式と、あまりにもよく似ている。
シャーロットは、静かに目を細める。
――ああ、そういうこと。
この爆弾は、今日ここで突然生まれたものではない。
起点はもっと前にある。
アドラーが残した魔法式。
すべては、あれを読んだ日から始まっている。
あれが、最初の引き金。
本作は、アーサー・コナン・ドイルによる『シャーロック・ホームズ』シリーズを原案としたパブリックドメイン二次創作です。
魔法体系や設定は独自の解釈に基づいて構築されています。




