ノミの心臓
処置室から消えたF‐369に驚き、慌て、動揺する同僚達を横目に、高科は内心ホッと胸を撫で下ろしていた。
ーーー
「高科ァ!」
「はいぃ…!!」
「仕事が遅ぇ。」
そう嶺亜から釘を刺されたのがつい二日前。
高科に課せられた“宿題”。
まずはF‐369の調整処置の日程を、こちら側の人員が自然と揃う日に動かすこと。
次に処置の詳細を調べ上げて安定剤を処方する人間を割り出し、報告した。
「そんなぁ…!そもそも調整処置の日程決めたの嶺亜さんじゃないですかぁ…。もっと後にする事だって出来たのに…」
「バーカ。時間は万人に平等なんだよ。こっちに余裕あるってことは、向こうにも余裕が出来んだろ。」
実際、管制室で実施日を聞き取った流輝は慌てていたらしい。嶺亜にとっては高科の仕事が疑われていないかの確認程度でしかなく、着々と当日に向けて工作を進めていた。
「で?どうすんだよ。お前がのんびり探り出した薬理技官、一日二日じゃ転がせねぇぞ。」
「そんなこと…言われましてもぉ…」
探り出した、安定剤を担当するのは古参の技官だった。脅しや買収には靡かない。
「わかった。お前も一応薬の種類くらいわかんだろ?」
「はぁ…まぁ…」
「すり替えろ。」
「!!」
断るすべも代わりの案も提案できずに、忍び込む羽目になった薬剤保管庫。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
人生上初めての経験に震える手で薬剤棚を開けて、安定剤のカートリッジを取り出し、中身を入れ替えた。
鎮静効果の弱いもの。人体に問題はない。
F‐369は眠らされない…筈だ。
(間違えてない、間違えてない…筈…)
調整処置当日、手順を思い返せばするほど無くなる自信に吐き気を覚えながら観測室から処置室を見守る。
(メンテハッチに隠れている燈夜くんが、ダミーの白煙を噴出させて…)
警報音と共に白煙が噴き上がる。
「計測不能!」
「排気だ!排気を!」
(検査員が排気システムを稼働させると通常時と逆循環して仕込んだ鎮静剤が充満する…予定…)
燈夜の腕は信じている。気がかりは、自分が手配した薬剤が正解の機能を果たすか否か、だけだ。
(もし、F‐369が眠ってしまっていたら……
もし、検査員達が動き回れていたら…)
処置室に満ちる白煙と同じように立ち込める不安にオロオロと様子を伺うことしか出来なかった。足音がいくつか観測室を離れ、処置室に満ちた煙が消えていく。
本当に音を立てているのではないかと思える心拍を抑え目を凝らす。
見えてきたのは…
倒れている検査員達と、それを呆然と見渡す楊震と織玖。そして顔には出さないが、きっとほくそ笑んでいる嶺亜の姿だった。
「ひえぇ…」
溜息のような、感嘆のような、情けない声が出た。
「あぁ…いけません。まだぁ…やる事が…」
緊張でふらふらする足取りで一足遅れて処置室に向かう。
処置室は騒がしかった。
焦り、喚く管理部。
倒れた検査員を運ぶ医療班。
逃走ルートを探り出そうと部屋中を探る統治官。
その中でいつの間にか招集された燈夜も黙々と“機器不良”に対応している。
(私も彼らのような胆力が欲しい…)
手持ち無沙汰に周りの様子を窺うだけの自分に少し嫌気すら覚える。
「嶺亜。どこに行く。」
楊震が処置室を出ようとした嶺亜を呼び止めた。
「時計見てみろよパイセン。定時。俺、残業はしない主義なんで。…じゃあな高科。せいぜいサービス残業頑張れよ。」
にやりと悪そうな笑みが高科に向けられる。
“お前にうってつけの仕事、させてやる。”
嶺亜の言葉が今言われたように蘇る。
(私にうってつけ…)
少なからずそこに居るだけで心強かった嶺亜が去り、更に縮こまる高科。
「高科。」
「ヒッ…!は…はい?」
振り返った楊震は、今まで見たこともないくらい険しい視線を高科に突き刺した。




