苛立ち
脱走したF‐369が回収されて、数日が経過した。
即座に行われた検査の結果、身体・精神ともに重大な異常は見られない。空気の整えられた静調槽室から出て、外で生活していた事による数値の変化があったくらいだ。
その報告を受け、彼は再びあの部屋へ戻された。
ある程度の自由は与えられている。
だが、それは“逃げられない”という前提の上での話だ。
事実、我々は一度、想定を裏切られた。
辿った脱走ルートを分析すれば、確かに合理的だった。視線の死角、研究員の交代時間、設備の旧式部分__偶然では辿り着けない経路。
だが、一つだけ確かなことがある。彼一人では、知り得ない情報が含まれていた。
(…内通者、か)
警戒対象の絞り込みは済んでいる。だが、そこから先に進めずにいる。
一度起きたことは、二度起きる。不穏の芽は、早いうちに摘まねばならない。
扉を解錠して中へ入ると、F‐369は、脱走前の居場所であった椅子には居らず、部屋の隅の床に座っていた。こちらを振り返る様子はない。
「よく戻ったな、F‐369。」
声をかける。
「ここにも、お前にも、甚大な被害が出る前で良かった。」
「すみません。」
返ってきた声は静かだった。感情の起伏もない。焦点の合わない視線も、以前と変わらない。
__だが。
(違う…)
以前はこちらが心を閉ざさせていた。今は、彼自身が閉ざしている。そう感じた。
「一つ、聞きたいことがある。」
距離を詰める。
「見事な脱走だった。厳重だと評価されているこの施設から、研究員の動線と監視の穴を突いて出ていけるとはな。」
「すみません。」
「謝る必要はない。適合者が脱走できる隙を作ったのは、我々の落ち度だ。」
彼は、こちらを見ない。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、まるで私など存在しないかのように。
胸の奥に、わずかな苛立ちが走る。私は彼の髪を掴み、無理やり視線を合わせた。
「誰が、手引きした?」
「……。」
合っているはずの視線はどこも見ていない。人形のような目だった。
「安心しろ。我々は人手不足だ。命を奪うような真似はしない」
声を落とす。
「重い処分も、今は考えていない。むしろ、警鐘を鳴らしてくれたことを評価したいくらいだ。だから教えてくれ。誰が、お前の脱走を手伝った?」
「すみません。」
それ以上、何も言わなかった。拒絶。明確な意思表示。
ガンッ
掴んだまま、その頭を壁に叩きつけた。
「何があろうと、内通者は炙り出す。」
低く、言い放つ。
「口を割るなら早い方がいい。時間の経過で処罰が重くはなれど軽くなることはない。」
聞こえたかどうかは、わからない。
私は手を離し、彼を床に投げるようにして背を向けた。
一瞬でも感情を失った、自分の醜さを隠すように。
扉が閉まる。
F‐369は、最後まで何も言わなかった。




