砂嵐の向こう
通されたのは小さな個室だった。
診察用ではなく、機器の点検や簡単な説明に使われる控え室のような部屋だろうか。
あるのは壁際の作業台と、簡素な椅子と机だけ。静かだ。
「どうぞ、座って。」
後から入る海陸に椅子を引いて着席を促す。
「狭くてごめんね、僕の仕事部屋なんだ。人は来ないから安心して良いよ。」
海陸は一瞬だけ迷ってから、腰を下ろす。彼は向かいに座り、しばらく何も言わなかった。視線だけが、そっと海陸の輪郭をなぞる。
「そうだ、まだ自己紹介をしてなかったね。僕は織玖。この病院で医療機器の技師をしてるよ。」
“織玖”という名前にもやはり微かに覚えがある。思い出そうとすると、視界に細かなノイズが走る。砂嵐みたいな、ざらざらした感覚。何かあるのは確かで、でも掴めない。
「名前も、やはり耳馴染みはなさそうだね?」
「…すみません。」
反射的に、そう言っていた。
「謝らなくていいよ。」
織玖はすぐに否定した。
「君が覚えていないのは、君のせいじゃない。」
その言い切りが、逆に胸に残る。
「今は一人で生活しているの?この前は女性が連れてきていたようだけど、あの人は…知り合い?」
「……。」
突然の尋問のような問いに身体が強張る。
「あぁ、ごめんね。少し気になってしまって。」
少しだけ、目を伏せる。
「…僕は嬉しいんだ。」
顔を上げ、穏やかに笑う。
「話し掛けても目が合うだけで答えてくれなかった君が、こうして会話をしてくれたり、誰かと歩いて、笑って…」
どこかに思いを馳せるように頷きながら織玖は海陸を見つめる。その眼に敵意はない。
「僕の事を覚えていないのは…正直、寂しい。でもそれは僕への罰でもある。僕はそれだけのことをしてしまった。」
自分に言い聞かせるような織玖の言葉の意味を海陸はわからないでいる。ほんの少し眉を寄せた。
「あれだけ胸が引き裂かれそうな思いをして、罪滅ぼしではないけれど、こうして病院で働くようになって…ようやく僕の中の君も輪郭がぼやけてきたかと思った矢先に、まさかまた出会うとは思わなかったよ。」
徐ろに立ち上がった織玖がカーテンを閉めた。灯りだけのほんのりとした明るさ。
明かりの具合に白い壁。どこか調整槽室を思わせる
白い部屋。
金属音。
熱。
何かを抑え込む感覚。
「…すみません。用事を思い出したので帰りま…」
「だめだよ。」
立ち上がろうとした海陸の肩に触れ、制止する。
「君の帰る場所は__一つしかない。」
海陸の指先が、わずかに強張った。
(……?)
違和感は、はっきりした異変としては現れなかった。ただ、呼吸が思ったより深く入らない。ほんのり甘くて重い匂いがする。
「…これ、は…」
自分の声が、少し遠い。立ち上がろうとして、足に力が入らないことに気付いた。
理由がわからない。
痛くもないし、苦しくもないのに、身体だけが言うことをきかない。
「安心して。」
織玖の声は、近かった。
「急に倒れたりしないように、調整してあるから。焦って動く方が危ないよ。」
説明は、短い。でもそれで十分だった。
視界の縁が、ざらりと崩れる。思い出そうとした時と同じ、砂が舞うような感覚。
「……どうして」
掠れた声は、自分のものだった。
「大丈夫だよ。」
その言葉だけが、静かに落ちてきた。
床に崩れる前に、織玖の腕が支える。大切なものを扱う手付きが逆に苦しい。
「……ごめんね。」
それが謝罪なのか、決別なのか。海陸には、もう判別できなかった。




