第26話「亡骸」
滴る。血が、汗が、皮膚を湿らせながら滴っていく。
けれど熱を帯びた体は、その雫の冷たさに気付かずに、全神経を目の前の怪物に集中させている。
「私の、仮面が」
ドレークスは小刻みに肩を震わせている。それは怒りの感情からではない。偽っていた自分が、無慈悲に傷付けられて剥がれ落ちてしまった。そして、隠していた自分を他人に見られてしまった。
「偽りが暴かれた」という恐怖が、怪物を身震いさせたのだ。
藍徒は、そんなドレークスの姿を見て、
「なんだ。強がっていたのは、俺だけじゃなかったんだな」
皮肉でも、軽蔑でもない声でそう呟いた。
「あ、あぁ……! あぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!!」
その時、怪物に僅かに残された理性が引き千切れた。喉が破裂するほどの咆哮を上げて、自分に集ってくる虫を払うかのように腕を振り回す。
赤黒い切断面をひけらかしている左腕から、同様に赤黒い飛沫が飛び散り、乾いた地面に吸い込まれる。
「私は、私は、私はぁ……!」
剥がれ落ちていく自分を押しとどめたくて、仕方がない。今も他人にさらされている自分を搔き消したくて、どうしようもない。
そんな矛盾が互いを食い破ろうとして、なけなしの冷静さをズタズタに引き裂いていく。
両手で頭を抱えようとするも、左の手の平はもう存在しない。だから、形だけでも取り繕おうとして、手首から少しだけ飛び出ている骨で仮面を撫でた。その実、コツコツと弱々しく殴りつけているだけなのだが。
「ロイゼス、私は、一体、どうやって」
愛して止まない怪物に、震えた声で呼び掛けようとする。原型などほとんど残っていない、亡骸。重く閉ざされてある瞼は、二度と開かない。抉じ開けたところで、鮮やかな赤色の瞳は輝きを失くしている。
そう。もう、手遅れなのだ。
無残に、ロイゼスは殺された。終わらない灼熱に蝕まれて、苦しかった筈だ。全身の骨を砕かれて、痛かった筈だ。
そうだ。全て、あの女が悪い。あの裏切り者が、私の全てを燃やし尽くした。いや、それよりも目の前の子兎が悪い。あの時、大人しくロイゼスに喰われていればこんなことにはならなかった。いや、それよりもアイツらが――、
「―――――」
終わることのない怨みは、記憶に浮かぶ様々な顔を泥に塗れさせる。
仲間であった筈の『偽造』の人間を喰わせたことを棚に上げて、ドレークスは身勝手に汚していく。
悪いのは誰だ、と。
けれど、いくら塗り潰そうとしても、油が水を弾くように泥は下に滑り落ちる。
それが信じられなくて。
否、信じたくなくて、泥を自分の膝下に溜まるまで擦り続けた。
何度も、何度も、何度も。
しかし、汚れていくのは自分だけだ。泥塗れの手で頬を掻きむしれば、爪痕からじくじくと犯されていった。ただでさえ醜いから隠していた心が、穢れていく。
そうして、汚い自分を自覚してようやく気付いた。罪の所在は、自分にあったのだと。
「ならば、私は、文字通り怪物となるしかない」
理性なき獣であるならば、こんな気持ちにはならずに済む。穢れた自分を恥じることも、なくなる。
殺すだけ。ただ殺すことが出来れば、そんな不要な感情は霧散する。たとえ、喰い殺す対象が自分の心だとしても、構わない。
そんな在り方は人ではない。そんなことは承知の上だ。
それでも、彼はその在り方を肯定した。
そうして、彼は怪物となることを望んだ。
「――ッ!?」
すると、ドレークスの体から何かが崩れていくような音が鳴り始めた。腕や足がありえない方向に曲がって、糸の切れた人形みたいにその場に倒れ込む。
痙攣を起こしながら、しゃっくりのような荒い呼吸を繰り返す。
声を荒げて、大きく体が仰け反ると共に、何かが背中を突き破った。血に濡れた白濁色のそれは、さながら棘のようだ。
それが起点になって、肉を穿ちながら体のあちこちから棘が生えていく。
流石のドレークスも、体内から串刺しにされる激痛にのたうち回って、断末魔を撒き散らしている。
零れだした中身は湯気を立てて、冷めていく。
爛れて、千切れて、それでも痛覚は酷く鮮明で。
人ではない、おぞましい何かへ姿を変えていく。
そうして、棘の数が二十本を超えた時、変貌は止まった。
ひしゃげた右手を地面に押し付けて、蹌踉めきながら立ち上がる。
ソレは、鉄臭い匂いが充満した喉で低く唸っている。背中や、腹から無造作に乱立している棘には、黒色の紳士服の布切れが張り付いている。
絶叫の結果、口の端は大きく裂けて、歯茎から迫り出している巨大な牙はてらてらと赤く光っていた。
ずるりと、内臓が落ちる。足元に目を向ければ、冷たくなった臓物がいくつも転がっている。
「――な、んだよ、ソレ」
一部始終を見ていた藍徒は、込み上げて来る吐き気を必死に堪えていた。目の前の事象に対する無理解と驚愕は、とうの昔に更に色濃い恐怖に塗り潰されている。『暴動』も正気を保つために強く体を駆け巡って、心拍数が上がると共に体温も熱を増していく。
瞳に映っているソレは、人間ではない。ましてやロイゼスのような怪物らしい姿でもない。
歪で、禍々しくて、醜いただのバケモノだ。
しかし、おびただしい数の棘に体の中身の全てを貫かれて尚、ソレは生きることを諦めてない。少なくとも、目の前の獲物を刈り取るまでは、牙を剥くつもりだろう。
肺は両方とも裂けて、血は全身から際限なく溢れ出している。側から見ても、ソレは生きているとは言い難いものだ。
それでも、そんな無残な死体同然のソレを突き動かすのは、願った通りの殺意だけ。不要な感情を取り払った純粋な殺意だけだ。
「アァァアァァァ、アァァァアア――!!!」
ふらつきながら、真っ黒な夜空に吠える。木々が騒めき、空気が震える。その咆哮に耐え切れず、唯一原型を留めていた仮面は亀裂が走り始めていた。
ひび割れた表情は、もはや嘲笑ではなくなっている。言うなれば、歪みに歪みきった凶相のようだった。
体の芯から、震えている。ただ単にソレの叫び声が大きく響いてるからでは決してない。
もう、恐怖で震えることはないと思ったのに。
怖い。たまらなく、怖い。頭の中で、けたたましく悲鳴と警鐘が鳴り響いている。
今の自分では、どう足掻いてもアレには勝てない。分かっていたことではあったが、ここまで来ると一縷の希望さえも見えない。
死にたくない。こんなところで死ぬ訳にはいかない。
中身のない「空っぽ」な自分のままで、死ぬ事は許されない。
心の中でもう一人の自分が血走った目で、震えている自分を脅迫し始める。
何があろうと生き続けろ。立ち止まることは許さないと、唾を飛ばしながらがなってくる。
そして、虚無という名のナイフを喉元に突き立てて、声も出せないようにして、弱い自分を殺した。
「気持ち、悪りぃ」
血溜まりを踏み付けて、文字通り魂の咆哮を上げているソレを睨んで、嫌悪を塗布した言葉をかける。
その言葉が強がりかどうかも分からないが、足は既にソレに向かって走り始めていた。
ソレに近付くということは、自ら死に近付いていくことと同義だ。事実として気持ち悪いほどに体は拒否反応を起こして、堪えていた吐き気は刻々とせり上がってくる。
けれど、藍徒はそれらを全て無視して、ただ、熱病に冒されたように死に向かって――、
「――全くもって、私も同じ意見だよ。雨沢藍徒」
刺し違える覚悟で、刃折れの剣をがらんどうの腹に突き刺そうとした。だが、返り血は浴びたものの、感触がなかった。命を奪ったという確かな感触が感じられなかった。
恐る恐るソレを見上げる。ソレはこちらに反撃をするでもなく、口から赤黒い塊を吐いて、血溜まりを広げていくだけだった。
「――ぁ、ヴィルムート、様」
僅かに動く捩れた指先で、胸の中にあるべき心臓に触れようとする。そして、ようやく鼓動が止まっていたことを悟る。
握り潰された果物のような心臓を、虚ろな目で見送って、ソレは血溜まりに倒れ込んだ。赤色の波紋が広がって、血溜まりの水面が赤黒くうねる。
呆気なく命を落としたソレに、藍徒は何も言わない。無残な死体に目も向けない。
――何故なら、
「良い手駒だと思ったのだがな、君は。しかし、姿のみならず最低限の理性まで歪んでしまっては私も無事では済まなかった。恨むのなら、彼女と違って異常者だった自分を恨むのだな。――だが、安心したまえ。君の望みは、砕け散って私の望みの礎となったのだから」
口元を歪めて、蔑みと暗い喜びを織り交ぜた笑顔でソレの亡骸を見下ろす仮面の男が、そんなことを口走っていたからだ。
仮面の男はこちらに目もくれずに、潰れた心臓に手をかけて、血管を引き千切りながら抜き取った。手の平から垂れている血管がただでさえ血塗れの亡骸に、血の雨を降らす。
とうに鼓動は止まって、もはやただの肉と成り果てている心臓。それが、真っ赤な手の平の上で蠢きながら形を変えていく。肉が擦り切れるような音が響いて、堪えていた吐き気は喉を熱く伝う。
そして、数秒と経たない内に、禍々しい色味の十字架へと変貌を遂げた。
無人の都市での逃走劇で見た、あの十字架だ。
あの時の心臓は、誰のものだったのだろうか。
「―――――ふ」
先ほどまでの恐怖が尾を引いているからなのか、それとも沸々と怒りが沸いているからなのか。
やけに、瞳が震える。
紳士服の胸ポケットに十字架を入れて、ようやくこちらを見てきたかと思えば、男は仰々しく、胸に手を当ててお辞儀をしてきた。側から見れば、その姿はまさに紳士のそれだ。
血で汚れた地面を見つめて、ゆっくりと顔を上げる。
「初めまして、『空洞』。私は、『偽造』の総統、ヴィルムート・スペルビアだ。ところで、顔色が優れないが、悪夢でも見ていたのかね?」
けれどその顔は、仮面では隠し切れないほど、醜く笑っていた。
※※※※※ ※※※※※※ ※※※※※※
少しの静寂が訪れるも、気持ちは一向に落ち着かない。ただ、静かに自分の中で何か良くないものが肥大していくのを感じる。
声を出そうとしても、何かが塞がる。
それが鬱陶しくて無理矢理飲み込んだが、喉越しは最悪で胃の中は爛れそうだ。
熱い。気持ち悪い。本当に熱に冒されているようだ。
高揚感など微塵もない。この感情は――、
「おや、怒らせてしまったかな」
その感情を自分で自覚する一歩手前で、嫌味を含んだ軽口が投げかけられた。ヴィルムートはいやに釣り上がっていた口元を戻して、温度を感じさせない微笑に作り替えている。
「当然といえば当然か。この『選定』において仲良しごっこなんてもの自体が間違っている。実に不愉快ではあるが、『憂鬱』の言っていたことは間違っていなかった。君が私に憤りを感じるのは、決して間違ってはいない」
目を背けたくなるような、悪夢を思い出す。
この男は、花の悪夢の中で卑しく笑っていたあの異常者だ。彼女が壊れたことを、まるで誕生の瞬間を祝うかのように喜んでいた。彼女がどれだけ苦しんだのかも知らずに。だから勿論、ヴィルムートを許すことなど出来ない。
「だが、その感情に身を委ねてしまうのは余りにも愚かだ。それこそ、足元で朽ち果てているこの怪物と何ら変わらない。そうだろう? 雨沢藍徒。君も、これを見て気持ち悪いと言っていたではないか」
「――それ、は」
「ならば、踏み止まるべきだ。君がこの怪物のような醜悪な獣と成り下りたくないのならばね。――それとも、あの台詞は自虐的な意味合いだったのかな?」
「――ッ」
その言葉を聞いて、思わず歯軋りをした。激情を煽ってきたヴィルムートを睨み付ける眼光は鋭さを増す。
今度は寒気がする。情緒不安定と言われても仕方ないほどに、心の中が掻き乱されている。理性が崩れていくようだ。
落ち着け。ただの挑発だ。あの男は、何も気付いてないはずだ。
だって、自分だって何一つとして気付いていないはずなのだから。
必死に、そう言い聞かせているのに、
「それで隠せているつもりかい? そんな表面だけを取り繕った虚偽では、すぐに剥がれ落ちてしまう。偽るには、まず自分からだ。その存在を嘘に塗り替えるには、自分だけが有するその事実さえも欺かなければいけない。もっとも、この怪物もそれは不得手だったようだがね」
この仮面の男は、自分の上っ面の偽りを事も無げに剥ぎ取った。
そうか。この感覚は、あの怪物がもっとも恐れたものだったのか。だから、あんなに醜い姿に成り果てても隠し通したかったのか。
そして、今その恐怖は自分に寄り添っている。鼓動を繰り返す心臓を、ゆっくりと握り潰そうとしてくるような、そんな恐怖が睨み付けてくる。
だけどそれを殺すことは出来ない。誤魔化し続けて、どうにかやり過ごすしかその恐怖から逃れる術はないのだ。それを、自分から手放さない限りは。
「――少し、お喋りが過ぎたな。本題に入らせてもらおう」
青ざめた藍徒を見て、ヴィルムートは嘲りから声色を変えて会話を改める。
「もう君たちを『偽造』に引き入れようとは思っていない。今となっては『偽造』も私一人だけ。力づくで君たちを私の手駒にするというのも、無理な話だ。――だが、君たちをここから帰す気もない」
静かに告げられたその言葉は、押し潰されそうな圧迫感が込められていた。それが鼓膜に確かに届いて、凍結していた危機感は再び動き出した。鋭かった眼光は弱々しくなりつつあったが、それでも瞳は気圧されるものかと真っ直ぐ見据えている。
その瞳を、憐れむように小さく笑って、仮面が微かに揺れていたのは気付けなかったが。
「屋敷に来なさい。そこで、決着をつけよう。どちらにしろ、君たちは私を殺せなければここから出ることは出来ない。こんな血で汚れた野原では、些か無粋というものだ」
そう言い放って、ヴィルムートはその身を影に落とし込め始めた。
月明かりは揺れて、常闇の森の輪郭をぼやかせたまま照らしている。汚れた靴から伸びている影は、黒を濃くしていき、ヴィルムートをゆっくりと呑み込んでいく。
藍徒は、それをただ見届けている。逃すべきではないと分かっているのに。『暴動』を以ってすればを影に呑み込まれるよりも早くヴィルムートに掴みかかれるはずなのに。
何故か、ただ見ているだけだった。その場から動けない自分に、苛立ちを積もらせるだけだった。
そして、完全に影に消える寸前、皮肉めいた笑顔を浮かべて、偽りの体現者はこう言い放った。
「それに、君の心に巣食っているその感情を、私は知っている。私という存在に向けている、その醜い感情をね」
そして、一人になった。
静寂は、いやに冷たかった。




