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異相の理  作者: 赤鰯 はこぼれ
第四章 微睡の淵
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第二話 蛙

 利き腕が使えないというのは中々に不便なもので、何をするのにも時間が掛かる。

 例えば、着替え。ワイシャツのボタンを留める行為がここまで労力を要するものだとは、一週間前の俺は知る由もないだろう。


 あとは、コンタクトレンズ。

 これが信じられない程に難易度が高い。装着するのに三十分掛かった時などは、流石に鏡に頭を打ち付けたくなった。


「視力が悪いわけじゃないんだから、無理に入れなくてもいいんじゃない?」


 洗面所の鏡の前で格闘する俺に、御子神さんが半ば呆れたように言う。


「そうなんですけど、目立つのは嫌なので……」

「まあ、それはそうかもしれないけどさ」


 鏡に映る自分の姿を、改めて見る。

 そこに映った平々凡々の顔の中に、異様に目を引くものが一つ――。


 日本人であるならば、大半が茶色系統の色味を持つとされる虹彩。青や緑、灰色等の色は、混血を除き非常に稀と言われているが、俺の場合は薄茶色の虹彩に緑が混じる――ヘーゼルアイ。

 育ての親である祖父母曰く、隔世遺伝だろうとのことだが、何はともあれ、これは非常に目立つのだ。だからこうして、毎日カラーコンタクトで隠しているわけなのだが――。


「でもね、栗花落君。あと十分で家を出ないと流石に間に合わないよ」

「……分かってますって」


 そんなことは言われなくても分かっている。

 わざわざ、焦らせることは言わないで欲しい。これでも多少は慣れてきたところなのだから。

 そうして御子神さんの揶揄にもめげずに、何とか両目にコンタクトを入れることに成功した俺は、さっと身支度を済ませて玄関に急いだ。


 季節はすっかり秋から冬へと移り変わろうとしており、玄関の扉を開くと冷たい風が顔に吹きつける。

 そろそろ、コートを出した方がいいかもしれない。


 エントランスを抜けて通りに出ると、より一層冷たい風が身に染みる。


「今日の晩飯、鍋にするか。寒いし」


 御子神さんがぽつりと呟く。


「いいですね。でも、うちにカセットコンロとか土鍋とかないですよ……」

「買えばいいじゃん」

「……そんなサラッと言われても」

「もう今日は鍋の口なので、帰りに買って帰りますー」


 こういう時の御子神さんは、何を言っても無駄だ。

 身の回りの世話をしてもらっている手前、文句を言うのも――という気持ちもあり、断り難い。そのお陰で、今や俺の家のキッチンは見違える程に充実しているのだけど。


「食材も買わないと――」


 蓮原駅を横目に、大通りへと続く道を曲がろうとした時、御子神さんが急に足を止めた。


「……どうしました?」

「栗花落君、あれ視える?」

「あれって……」


 唐突に何を言い出すのかと思いながらも、御子神さんが視線で示した場所を見やる。

 通りの先――そこには、三毛猫が一匹。毛を逆立てながら、業務用の大きなポリバケツに向かって威嚇の声を上げていた。それだけなら、単なる日常のワンシーンのように思えるのだが、問題はそのポリバケツの上に居るもの。


「……蛙、ですか」

「蛙だね」


 ポリバケツの上には三十センチ程の大きさの蛙が、後ろ脚だけで立っていた。つまりは、直立である。


<ええい! この獣めが! 某が澱河のカワズと知っての狼藉か!>


 そして、何やら喚いていた。


「……蛙、ですよね?」

「うん。蛙だね」

「立ってますよね?」

「立ってるね」

「……助けてあげた方がいいんでしょうか……」

「うーん、視なかったことにしよう」

「ええ……」



 ***



<……いやはや、誠に助かりました。某、住処を出たのは初めてでありまして。ああいった獣に襲われるとは、露程思わず。お二人のように我らを視認できる人間に出会えるとは、実に幸運でしたな。アッハッハッハ!>


 まるで噺家のように滑舌のよい蛙は高らかに笑うと、ゆっくりと頭を下げた。

 二足で直立しながら頭を下げるその姿は、違和感でしかない。


「……視なかったことにしようって言ったのに」

「いや、流石に可哀想じゃないですか」

「君、お人好しも度を越えたらただの馬鹿だから」

「…………」


 御子神さんが小声で不満を垂れる。

 俺だって、怪異と不用意に関わるつもりはなかったのだ。けれど、目の前で猫の玩具にされている怪異を視て、そのまま放置することは、どうしてもできなかった。

 特案に所属するまで、怪異のことなど視て視ぬ振りをしてきていたのに、今ではその存在が日常の一部となりつつあるのかもしれない。


<申し遅れましたが、某、澱河のカワズと申す者。この御恩、しかと胸に刻みましたぞ>

「あー、まあ、何だ。とりあえず、無事で良かったな。――じゃあ、俺たち急いでるので」


 足早にその場を去ろうとする御子神さんの足に、カワズが飛び付く。


「なっ、」

<ま、待ってくだされ! 助けてもらった身でありながらこのような無粋な真似、許されるものではないと分かっておりますが、これも何かの縁。どうか! どうか、某の話を聞いて頂けぬだろうか!>

「……いや、聞かねえし」

<そこを、何とか!>


 お前が余計なことをしたからだぞ――俺へと向けられた御子神さんの顔にはそう書いてあるように思えた。


<某、人間を探しておるのだ>

「怪異が人探しだぁ?」


 カワズの言葉に少し興味を持ったのか、御子神さんの動きが止まる。


<某の主――濡這様(ぬればいさま)の命により、とある人間に助力を願いに来たのだ。その人間は、濡這様と縁があり、熊のような御仁だと聞き及んでいる>

「生憎、そんな人間は知らないね。残念だけど、俺らは力になれそうにもない」

<その御仁は、そなたらと同じように我らを視ることができるのだ!>

「いや、だから……」

<名は、“甘崎殿”と申される。そなたらに心当たりはないかっ>

「心当たりなんて――」


 ない、と言い掛けた御子神さんが俺を見る。

 カワズが発したその名には、あまりにも心当たりがあり過ぎた。


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