第二話
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次の日もカナはやってきた。簡素なビニール傘を片手に、少し髪を濡らしながら。
「こんな日くらい、家でゆっくり過ごしたらどうだ」
タオルを差し出すと、カナはそれを顔に押し当てて、もごもごと言った。
「ここが私の家だもん」
「そうか、ならいっそ泊まっていけよ」
「それは恥ずかしい」
やはり面倒くさい奴だ。だが、恥ずかしいという感想には同意見だった。そして何より、カナが来たことにほっとしている自分もいる。
「しかし凄いね。まだお昼なのに真っ暗だ」
カナの言う通り、今日は厚い雲に太陽がすっぽり覆われてしまい、電気がなければ暗くて過ごせないほどだった。
「雷もなってるよ。たまに遠くの空が光る」
「なら今日は早めに買い物を済ませておくかちょっと留守番を――」
言いかけた時、既にカナは靴を履き始めていた。
「お前、うちに車がないことは知ってるよな」
こくりとカナが頷いた。
「またずぶ濡れになりたいか」
「うん」
それはもう無邪気な笑顔だった。
「好きにすればいい」
こうして僕たちは、傘を並べて、スーパーまで散歩することになった。もうおそらく、最後になるであろう散歩――。
「私、ビニール傘好きなんだ。空が見えるから」
カナが言った。僕の傘は濃紺だ。たとえ上を向いても、空が透けて見えることはない。それは僕には見えなくて、カナには見えている景色だった。
カナには今、頭上に広がる曇天が見えているのだろう。脳天にめがけて降り落ちてきた雨粒が、傘の上で弾ける様も。
「だけど曇り空だろ? 見て楽しいのか」
素朴な疑問だった。カナが首を振った。
「別に楽しい訳じゃないよ。ただ、空を見てると落ち着くの。平和だし、静かだし……鳥はいなくなっちゃったけどね」
行き過ぎた自然破壊が生んだ結果だった。いまやこの付近で鳥や虫の姿を見ることはない。
人口爆発が急激な発展を呼び、アスファルトが増え、森林が減り。至ってシンプルでごく自然な流れが世界を逼迫し、安寧を瓦解させた。
それは、僕等人類にとっては当然のことであっても、地球にとっては許容できない事柄だったのだろう。
故に、人類は殺し合った。自らの生き場所を確保するために。殺戮に殺戮を重ね、前回の戦争から三十年経とうという時、ラグナロクは宣告された。
この戦争で人類が三割削減されれば、あと百年は戦争せずとも人類は共存できる。新暦の幕開けだと政府は言う。
そして、旧暦の終焉だと。
まさに僕たちは旧時代と新時代の狭間で踊らされているのだろう。
「もし私が本気出したらさ」
カナはおもむろに言った。
「多分、ヒロのことなんて一撃で倒しちゃうと思うな」
「ほう、どうやって」
「まず私が我が家秘蔵の聖剣を持って押し入る」
カナが傘で刀を構える素振りをした。
「聖剣ってお前んちのあれ、木刀だろう」
「本気出すと本物の刃になるはず」
「はずってなんだよ……」
「ていっ」
「っておい! 冷てえなぁ……」
カナが傘を振り下ろすと、水滴が一斉に僕を襲った。
満足げなカナを見て、どうにも悔しさの募った僕は一つ反撃に出ることにした。
「ならこっちにも策がある」
「ほほう」
「カウンターだよ。まずその剣を素早くかわして柄を掴むだろ?」
「うん」
「そして取り上げる」
「へっ?」
いとたやすく奪ったカナのビニール傘を、僕は静かに折りたたんだ。キョトンとしているカナがまだ状況を掴めていないうちに――
「後は全力ダッシュで逃げる!」
「あっ、待って!」
そのまま僕達は、スーパーまでの道を駆け抜けた。
子供のようにはしゃいで、笑顔のまま。
今ある不安や悲しみを振り払うように、懸命に、足や手を伸ばして。
全力で疾走した。降り注ぐ雨も、振り払うように。
止まることなく僕等は走り切った。
「いい大人が何やってるんだろうな……」
「まったくだね……」
スーパーにつく頃には、足先までビショビショになっていた。
走って火照った体も、今や雨と汗にすっかり冷えきってしまっている。
立ち止まって初めて蘇る冷静な至高。小恥ずかしさが腹の底で淀み、むず痒くなった。
「やっぱり上着返そうか?」
「いい。お前こそ風邪引きやすいんだからしっかり着てろよな」
同じく雨に濡れていたカナに、強引に羽織らせた上着は少し大き過ぎて、袖がダラリと垂れていた。
「キョンシー」
「袖はまくっとけ……」
ずぶ濡れの男女に向けられる視線に痛さを感じながら、僕達はかわりばんこにカートを押して買い物をする。
クーラーの風で少しずつ服が乾いていく。ゴワゴワになった服の感触が何故か心地よくて、腹の奥に沈んだもやもやも、次第に清々しく晴れてなくなっていった。
「今日は何作ろうか」
「大抵の食いたいもんは食っちまったしなあ」
ここ一ヶ月は食費を気にせず食べたいものを食べている。カナが来るようになってからは一人で行きづらかったレストランなんかも粗方制覇してしまった。
結果、食べたいものの種が枯渇した僕は、一周回って庶民的な食事に偏るようになった。
「カレー……そうだな。カレー食いたいな」
「カレーか。うん。いいかもね」
結局今日の夕飯は庶民のごちそうであるカレーに決まった。
僕は豚肉派、カナは鶏肉派だったので、ジャンケンで決着をつけた結果、僕が勝利して肉は豚バラに決まった。
「私宗教上の理由で四足の動物は食べられない」
「この前しゃぶしゃぶ美味そうに食ってただろ」
カナは少し不満そうだったが、デザートは二つ買っていいと言うと、すぐ納得した。
「何にしよかっなー。あ……プリン、また売り切れだ」
「最近いつも無いな、プリン」
「やっぱり子供に人気だからかな」
「こんなご時世だから、子供にはせめて美味いもの食わせたいんだろうな」
聞く話にはケーキ屋も大変盛況しているらしかった。
記念日でもないのに、ケーキを与えられた子供はどんな気持ちになるのだろうか。
それでこれから訪れる未来の凄惨さを、変わりゆく環境を、案じてしまったりしないのだろうか――。
帰り道はすっかり日の光に照らされていた。
あれほど黒かった空に青が差し始めているのを僕たちはポカンと見つめていた。
「焦って出掛けることなかったね」
「本当だな」
雨の残した湿気がアスファルトの上で茹だっているような、そんなジトジトした暑さが狭い路地に溢れかえっていた。
乾いた服が今度は汗で湿る。
道の隅に植えられたアジサイはすでに枯れ朽ちていた。花のない幹に、水滴がしたたり落ちる。閑静な住宅街で飛沫が弾ける音があちらこちらから聞こえてくる。
無言の帰り道。一人考えることはラグナロクのことばかり。今まで気を紛らせていたものの、期限が残り三日ともなると、さすがに気が重たくなる。カナもまた、いつもの元気はないようだった。
「おう、日向さんじゃないか。おでかけでしたか」
家のある路地まで出ると、お隣の高坂さんが元気よく素振りをしていた。先端に付いた刃が鋭く反射させる日光に、僕は思わず顔を歪ませる。
「高坂さん……またそんなものを」
「ラグナロクが近いですからね。おや、そちらは」
「あ、ああ。親戚なんです。もちろん東側の人間ですよ」
「おお、わざわざ前線に。綺麗なお嬢さんですが勇ましいですな!」
「い、いえ戦争が始まったらしばらく会うこともないでしょうから挨拶にきただけですよ」
カナは僕の後ろで小さくなっていた。僕はそんなカナにあの鋭い刃が向くことのないよう、必死に取り繕った。
その後、高坂さんが話すことといえばどう敵を倒すかとか、どうやって西側に攻め入るかとか、要は人殺しのことだけだった。
そのおぞましい内容を僕は苦笑いしながら聞き流す。もうやめてくれ、と悲痛な声が漏れそうになるのを抑えながら。
「それでは日向さん、頑張りましょう。そちらのお嬢さんも!」
僕たちは上辺だけの笑顔を浮かべて会釈した。
上機嫌な高坂さんの背中を表情もなく見つめるカナに、溜息の混じった言葉をかける。
「どうして、ああも楽しそうにできるんだろうな」
「仕方ないよ。あの人くらいの世代って、まさに戦争が賛美されていた時代だもん」
僕達が生まれるより前の話になるが、戦争が尊いものだと学校で教育していた時代がある。
その時の首相は人口削減索としての計画的内戦に積極的で、大規模なプロパガンダを行っていたらしい。それは政権が交代するまでおよそ十年にも及ぶ期間続いた。
高坂さんくらいの世代はまさに多感な思春期をプロパガンダと共に歩んだ世代。
長年の教育と洗脳が彼等に植え付けた、奇異な死の概念。
皮肉にも今の主要政治家はほとんどがこの世代だ。
彼等が待ち望んだラグナロクが終わりを迎えた時、またこの時代の主役でもある彼等は新時代にどう立ち向かうのだろう。
カナが夕食の支度をしている間、僕は縁台に一人寝転んでいた。
今日は風がない。風鈴も今日ばかりは沈黙している。
僕がまだ幼かった頃、夏の夕暮れは音が溢れかえっていた気がする。次第に虫の声が消え、生き物の声が消え、人の声でさえ滅多に聞かなくなってしまった。
僕は騒がしいのは好きではない。だが、この夏よりは昔の夏の方が好きだった。
もう二度とくることのないだろう夏――。
僕が見ることのないだろう夏。
「いつまでもそこにいるの?」
カナの顔がずいと僕を覗き込んだ。
「何か考え事? 帰ってきてからずっとそうしてるよね」
「ちょっと疲れてただけだよ」
僕はしゃがんでいるカナの額をそっと小突いた。むくれた表情のカナは僕の額に指を押し当てる。
起き上がれずもがく僕を、カナはどこか優しい表情で見つめていた。
夕食に出されたカレーは非常に庶民的な、僕好みの味だった。
「そんなにがっつくとお腹に悪いよ」
カナは微笑んだ。別にがっついている訳ではない。ただ、何もしない間がこわいだけだった。
カナはというと、いつも通り小さく口を開けて猫のようにのんびり食事をしている。
普段、何となく微笑ましく眺めていたカナの食事も、今日ばかりはまともに目を向けられない。
「いやあ、今日カレーなんて食べてるの私達だけじゃないかな」
「そうかもな」
「美味しい?」
「ああ」
「そっか……」
どこか重い雰囲気が漂っていた。続かない会話。幾度となく訪れる沈黙。その度に僕は詰まった言葉を押し出そうとする。
そう、前から決めていた。あの言葉を。
「とうとうあと二日だね」
カナはポツリと言った。
「ああ、そうだ二日だ。だからなカナ――」
僕は心に決めていた。
これがカナとの最後の晩餐になると。
一月も前から決めていたことだ。だから僕は、この言葉を吐き出す。
「もう、うちには来るな」
何としても言わねばならなかった言葉を。
「……嫌だよ」
「今日だって見たろ。うちの周りは危険な人間でいっぱいだ。お前がもし西側の人間だってばれたら――」
「その時はその時だよ」
カナは遮るように言った。
「その時はヒロが私を殺せばいい」
僕はしばらく言葉が出なかった。カナのその強い眼差しと語気は、決して冗談ではないことを示していた。紛れも無い本心。
「僕に……できると思うか?」
やっとのことで出てきた言葉が今度はカナを沈黙させる。
僕は全身を打つ激しい鼓動と震えを必死に押さえ込みながら、カナに言った。
「正直、もう一人になりたいんだよ」
僕にはもう、カナの顔は見れなかった。俯いたまま独白のように言葉を紡ぐ。
「ラグナロクが始まれば……まともに眠ることも出来なくなる。その前に、静かな時間が欲しいんだよ」
「お前が、いちゃあ、邪魔なんだよ」
声の震えを抑えようとすると途切れ途切れになる。
それでも、振り絞るように僕は最後の言葉を突きつけた。
「お前がいると僕の身まで危なくなる」
「出ていってくれ……」
テーブルを隔ててすぐ向こうにいるはずのカナは、しばらく何も言わなかった。
それから幾分の時間が経っただろう。一秒。また一秒と沈黙が重く重くのしかかり、僕をキリキリと締め付けた。
「そっか」
長い時間をおいて、カナは凄くか細い声で言った。
「今までありがとう」
と。




