第一話
今日とて風は穏やかだ。風鈴は控えめに音をたてている。その下でパタパタと足をばたつかせているカナもまたいつもと何も変わらない。強いて言うなら髪が少しだけ長くなったくらいだろうか。
肩ほどの位置で切り揃えられていた髪はいつの間に腰の辺りまでたちしている。髪を切らないのか聞いたことがある。カナは言った。
「今更身だしなみなんて整えたって、何になるの?」
もっともだと思った。だが気にくわないのはその癖、僕が髭を剃らないでいると文句をいうことだ。寝癖だって怒られる。美人と言うのは恵まれているもので、気を遣わずともこうも様になってしまう。出来の違う僕は少しでも無精すればたちまち小汚くなってしまう。
ラグナロクの日が宣告されてから今日で三ヶ月。宣告から一週間経った頃、カナが家に入り浸るようになるまでは、飯すらまともに食っていなかった。気力を根こそぎもっていかれ、家事までもどうでもよくなってしまったのだ。
故に僕は足繁く通っていたカナの店にも行かなくなった。こうしてカナが我が家を訪ねてくるようになるまで、再び会う事になろうとは考えもしなかった。なにより、カナは西側の人間だった。
「開戦すれば、私たちは殺し合う」
カナは僕に言った。
カナの言うことは決して大袈裟ではない。何せそれが政府の目的なのだから。
人口調整法。この狂気の沙汰としか思えない法案によって幾度と繰り返された戦争は、数十年というスパンではなりを潜めていたが、未来の見通しと予測の統計が出た結果、昨年に突如最終戦争、ラグナロクが宣告された。
そんな中、僕たちは平穏そのものな生活を送っている。
時にいじらしく思うことはある。僕たちと違って世間は嬉々として殺し合いを待望している。西側の人間が東側をうろつけば危険もあろうものを、カナは毎日のこのこやってきては、この残り少ない平穏の時間を僕の放棄した家事にあてているのだから。
人の時間の使い方にケチをつけるようなお節介ではないが、流石に不憫だった。
だから僕は洗い物くらいはするようになった。全ての家事をやってしまうと、カナが拗ねるから分担して、日ごとに登板を入れ替えて、半分は僕が受け持つことになった。
すると大抵、何もすることがなくなる時間がくる。そうすると僕たちは示し合わせることもなく縁側に腰を下ろす。蝉も愛想を尽かしていなくなったこの町で、様変わりした夏の情景を、僕たちは言葉を交わすこともなく、ぼんやりと見つめて過ごす。それが幸福だった。僕たちにとっての唯一の幸福だった。
洗い物を終えた僕が麦茶を差し出すと、カナは静かにそれを受け取った。目線は雲を追いかけたまま、一口含む。白く細い喉が小さく波打った。
「あの雲、どこまで飛ぶんだろう」
おもむろにグラスから唇を離して、カナが呟いた。
「さあな」
「追いかけたら、どこに着くと思う?」
「さあな」
「ラグナロクのない、パラレルの世界に辿り着いたりすると思う?」
「それは無いだろう」
もしそんなものが存在するならば、それこそアヴァロンだろう。
「そこも、さあなって答えておけばいいのにさ。無粋だよね」
カナが頬を膨らました。適当な相槌にも拗ねる癖に。面倒くさいやつだ。
「流石に夢見過ぎたと思うぞそれは」
「どうせそのうち嫌でもわかるんだから、夢見たっていいじゃない」
カナはふくれっ面のまま、再び麦茶を一口含む。一時の間をおいて
「私は今でも、ラグナロクを回避する方法が見つかることに期待してるよ。突然、大丈夫でしたみんな助かりますってアナウンスが流れるんじゃないかって期待し続けてる」
カナは続けて言う。
「でも、実はラグナロクに感謝してもいる。だって、ラグナロクが無ければ、私はこうやってここにはいられなかった」
カナがラグナロクをきっかけに僕の家に出入りするようになったのは紛れもない事実だ。だが、僕は例えラグナロクが宣告されずとも、やはりカナは家に出入りするようになっていたのではないかと思う。だが、カナは言う。
「人は崖っぷちまで追い込まれて、もうどうしようもなくなって、初めて百パーセントの力で人と向き合えるんだよ」
カナと僕の認識は相違している。僕はラグナロクがなければ、カナの店に通い続けていたと思うし、ましてやラグナロクが起こったがために僕は外に出なくなったわけで、逆にあれきり交流が途絶える可能性すら孕んでいたと思う。だが、カナはラグナロクがなければ僕たちは自然と距離が離れ、やがてお互いを忘れていたと言う。
「私はそれが、嫌だったんだよ」
強い意志を持った瞳が僕を見つめていた。
「ラグナロクが私の背中を押してくれた。勇気をくれた。おかげで私はここにいる」
カナの頭で、右肩が重くなった。僕は視線を空に移した。今日は晴天だ。
「もし、ラグナロクがなくなったりしたらさ」
耳元でカナが、か細く言った。
「それでも一緒にいてくれる?」
構わないよ。と返事をした。カナは何も言わず僕の手を握った。




