1話:旅立ち①
エストリアと呼ばれる国の辺境にある、森に囲まれた小さな村。
窓から漏れる灯りが、暗くなり始めた村に小さく揺れている。
その村の外れにある小さな家に、ひとつの家族が暮らしていた。
古びた木の机と椅子が置かれた部屋には、夕食の匂いがまだ残っている。
その部屋では、母親が食器を洗い、その隣で小さな少女が洗い終わった物を、拭き取っている。
その様子を見守るように、部屋の片隅では、父親が剣を手入れしている。
何度も刃の角度を変え、反射する光を覗き込んでは、目を細めている。
父親は、その剣を鞘に収めてから立ち上がる。
「巡回してくる」
短く、そう言って、ランタンを手に、玄関へと足を進める。
「気をつけてね」
母親が短く返すと、父親は扉へと手を伸ばす。
その後ろ姿を見ている少女は、持っている食器を置くと、小さく手を振る。
扉が静かに閉められると、母親は少女へと視線を移してから頭を撫でる。
「リズウェル。片付けが終わったら、絵本を読もうね」
「きのうのつづき?」
リズウェルと呼ばれた少女は、目を輝かせながら聞き返した。
「どうしようかしら?」
「きのうのつづきがいい!」
そう言って、母親のエプロンを掴むと、今にも泣きそうな目で訴える。
「読んであげるから、泣かないの」
「ほんと!?」
笑顔を浮かべ、エプロンから手を離すと、すぐに食器を手に取る。
母親は目を細めて微笑むと、洗い物を続ける。
片付けが終わると、リズウェルは奥にある部屋に向かって走り出していく。
「はやく!」
母親――メルザ・ハークロンドは、濡れた手をエプロンで拭うと、娘の背中を見つめながら、小さく息をついた。
「おかあさん!はやくよんで!」
あの子が好きな物語がある。
世界を救った、勇者や聖女がいる、英雄たちの物語。
「わたしもだれかをまもれるひとになる!」
そんな娘の姿を見るたびに、胸の奥が少しだけ痛む。
リズウェルは、まだ知らない。
村の外に何があるのか。
英雄の物語が、どれほど遠いものなのか。
誰かを守るという言葉が、どれだけ重いものなのか。
それでもメルザは、無邪気なリズウェルを見ると、今だけは、それでいいと思ってしまう。
「このまま、リズウェルと暮らしていられますように」
その願いが、叶うものだと信じていたのに、悲劇は数年後に起こる。
いつもの通りの昼頃だった。
それを引き裂くように、激しく鳴り響く鐘の音が、村中に響く。
その鐘の音が何を示しているのか、メルザにはわからなかった。
「メルザ!リズウェルと一緒に、家の中にいろ!」
夫である、アルディスが剣を片手に、家を飛び出した時、それが警鐘だと理解してしまう。
「お母さん!お父さんはどうしたの!?」
震える手で袖を掴むリズウェルに、メルザは何を言えばいいのかわからない。
だから、奥の部屋に隠れようとした時だった。
村中に怒号と悲鳴が飛び交い始める。
家の外では、誰かの叫び声と、走り回る足音が重なっている。
「お母さん!ねぇ!」
メルザがリズウェルの口を手で塞ぐと、娘は泣きそうな目で母を見上げる。
「……お願い、黙ってついてきて」
その日、ひとつの家族は壊れた。
村を盗賊が襲撃したのだ。
血の海に沈むアルディスを、メルザが抱き抱え、何度も名前を叫び続けている。
リズウェルは、扉の隙間から母親の声を聞きながら、父親がもう立ち上がらないのだと、幼い心でわかってしまう。
そこには、ひとりの騎士が、呆然と立ち尽くしていた。
その光景は、幼い私の心に焼き付いた。
あれから、数年が過ぎた。
それでも私は、あの日のことを今でも覚えている。
母さんの表情を忘れられるわけがない。
「布団から出たくない……」
寒いから、というのもあるけれど、それ以上に胸が苦しくなる理由があるからだ。
でも、そんなんじゃ駄目だと、自分に言い聞かせて、布団から出る。
重く感じる足を動かして、鏡の前に立つ。
そこに映る自分の姿を見て、思わず溜め息が出る。
長く伸びた黒い髪に、母さんと同じ黒い瞳。
背は幼馴染より少し高いけど、母さんよりは低い。
鏡の中の私は、いつもより少しだけ顔色が悪く見えた。
「ひどい顔……」
自分で選んだ道なのだから、逃げてはいけない。
そう心に決めたはずなのに、迎えてしまった今日が、ひどく重く感じる。
髪を結び、大きく深呼吸をする。
部屋から出ようと、扉を開けた時だった。
そこには、母さんが立っていた。
少しやつれた顔立ち、暗く沈んだ瞳で私を見てから言う。
「リズウェル、誕生日おめでとう」
今日は私の一六歳の誕生日だ。
でも、嬉しくないことを、私は知っている。
「母さん、ありがとう」
私の言葉を待たず、すぐに目線を逸らされてしまう。
それもそうだ。私は明日、この家を出る。
母さんの反対を聞かず、剣を学ぶことを選んだ日から、少しずつ距離ができていった。
そして明日は、道場への入門に向けて、家を出るんだ。
お互いに何も言えない空気に、息苦しさを感じる。
そんな中、先に食卓の方へと向かったのは、母さんだった。
母さんに、ついていくように食卓に向かうと、机の上には、いつもの朝食が並んでいる。
朝食を食べる前に、棚の上に飾られた写真を見る。
「父さん、母さんを悲しませてごめんなさい」
父さんは、あの日から帰ってこない。
絵本の中の英雄たちみたいに、誰かを守れる人になりたかった。
憧れだけでは、何も守れないことを、私はあの日に知った。
父さんは、自分の死を理由に、私が剣を握ったと知ったら嫌がるだろうか。
それでも、私は母さんの反対を押し切って、剣を握ることを選んだんだ。
「天国から見守ってください」
そう願ってから、朝食へと手を伸ばす。
いつもと変わらない母さんの味に安心するのに、同時に胸が苦しくなる。
そっと、母さんの方を覗くと、背を向けたまま、肩を震わせているのがわかる。
何かを言いたいのに、それでも言葉が出ない。
気づくと、フォークを持つ手が止まっていた。
「親不孝でごめんなさい」
朝食を済ませ、片付けをしようと食器を持ち上げた時だった。
母さんは私を避けるように、自室へと入っていってしまう。
明日の朝、顔を合わせてくれたら、ちゃんと気持ちを伝えよう。
家を出てしまったら、もう二度と会ってくれないかもしれないから。
村で過ごす、最後の一日。
出かける準備をするために、部屋に戻ると、寂しさに襲われてしまう。
少し前までは、まだ物があったけど、荷物をまとめた跡を見ると、私の胸を何度でも締め付ける。
「自分で決めたことなのに……」
父さんの形見の剣を手に取る。
あの日から、私の前だけは強くあろうとしていた母さんを守りたい一心だったのを覚えている。
それでも、剣を振るたびに、母さんとの距離が開いていったんだ。
「早く、約束の場所に行かないと……」
私は稽古用の服に着替えると、剣と荷物を手に、静かに部屋を出る。
母さんとすれ違う前に家を出ようと、少しだけ急いで玄関へ向かう。
「あの子が無事に帰って来られるように、守ってあげて」
ちょうど、母さんの部屋の前を通った時に聞こえてきた。
「あの子まで、失いたくない……」
震える母さんの声に、目頭が熱くなる。
今、泣いてしまったら、きっと甘えてしまう。
だから、せめて母さんに気づかれないようにと、急いで家を出る。
私は、母さんの気持ちを何もわかっていなかった。
話さなくなっても、今日まで私を育ててくれたのに、私を止めたい気持ちを我慢していただけだった。
ずっと嫌われていたと思っていた。
でも違ったんだ。母さんは私を失うことが怖くて、距離を取っていたんだ。
それなら、言ってほしかったと思うと、私も同じだと気づいてしまう。
「ずるいよ。わざと冷たくしてたなんて……」
思わず漏れた声が震えていた。
家を出るのをやめれば、昔のように戻れるのだろうか。
でも、それでは母さんが、ずっと我慢してきたものを、なかったことにしてしまう。
「どうしたらいいの……?」
戻りたいのに、戻れない。
足を止めたら、きっと、もう進めなくなる。
そう思った時、涙は止まらなかった。




