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頭の中が真っ白になる。
思考が停止して、俺をうっとりと見詰めるハーグから目を離せないまま、俺は得体の知れない恐怖で固まっていた。
今、何て言った?
ハーグ......今、皐月って言わなかったか............?
「......とう、して......」
からからになった喉から出る声は掠れ、震える唇から発せられる声色は情けなくも怯えに染まっていた。
だって、おかしいじゃないか。
その名前は、この世界で知っているのは俺だけの筈だ。
それを、どうしてハーグが知っている?
いや、そもそも......。
この男は、本当にハーグなのか?
「どうして? って、何が?」
男は、どうして俺がいぶかしむのか分からないみたいで、キョトンとした顔をして首を傾げる。
ハーグの地味ながらも整った顔で、そんな幼い表情をされると今までの危険な行動をしていた男とは思えない程無害な人間に見えて来る。
「ニベウス!!」
ハーグから目を離せずにいたら、スギナの息詰まる叫声が聞こえた。
振り向けば、リディに抱き止められたスギナが身を乗り出して必死に俺へ手を伸ばしている。
リディの右腕は、袖が吹き飛び傷だらけになっていた。
「ニベウス!ニベウスを返せ!!」
顔は焦りに染まり、リディを振り払おうと暴れるスギナと、それを懸命に止めるリディ。
そんな二人に一瞥をくれた男は、小さく鼻を鳴らした。
「返す? 勘違いするな小僧。彼は元々俺の物だ」
いや、あんたの物になった覚えはどこにも無いのですが?
それジャイアニズム。
勝手な事を言い出すしていた男は、スッと右手を横に翳した。
すると、手元からぐるぐると渦を巻きながらブラックホールのような空間が現れ、徐々に大きくなり人が一人入れる位の大きさまで成長すると、動きを止めた。
なんこれ?
「彼の世話をしてくれたのに免じて、命は見逃してあげよう。それじゃ......彼は返して貰うから」
じゃあね。
男は、ニンマリとほくそ笑み、俺を抱えたままブラックホールに飛び込んだ。
連れていかれる瞬間、スギナの悲痛な表情が見えた気がした。
恐怖でちびりそうになっていた俺は、あっさりと謎の男に連れ去られたのである。
*第三者視点*
その街は騒然としていた。
まだ人が行き交う夕暮れ時。
街灯がともり、酒場にはちらほらと客が見え始め、仕事から帰路につく仕事人や学校帰りの若者も少なくない町の街路。
昼間の喧騒から、夜のしっとりとした賑わいが広がり始めた時。それは起きた。
その街にはある男爵の屋敷があった。
街の大きな産業施設、印刷工場の持ち主であり社長でもあるその男爵家の当主は、昔その印刷業を初めて手掛けた事で国に貢献し、王家から男爵の地位を授かった一族だ。
その一族の名はロビンフット。
街の繁栄は単にこの印刷工場にあり、ロビンフット男爵の屋敷は街のシンボルにもなっていた。
その屋敷が、唐突に"消えた"。
何の前触れも無く、音すらせずに、まるで消しゴムで消したように、忽然とその屋敷は姿を消した。
あまりにも非日常の出来事に、始め街の人々は立派な屋敷が消えた事に全く気付かなかった。
しかし、一人、二人、街の違和感に気付けばあっという間に街はパニックに陥る。
誰かが、憲兵を呼べと叫んだ。
そのタイミングで、駐在していた憲兵が慌ただしく街を駆け巡る。
街の異様な興奮を、まだ明るい空から覗く白んだ三日月が静かに傍観していた。




