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シナブロ  作者: 米油
プロローグ
2/2

縁の発火


哀しい。

今、僕は夢を、欲情がこびりついたような夢を見ていたのだろうか。

別にタイプの女というわけでもないが、エレベーターの暴力女とはまた違う、

いや、まるで際どい境界線に立っているかのような魅力のある女だった。

また会えたらいいのに。

そうやって延々と場面を反芻しながら歩いていると、大きな湖が出てくる。

どうやら潟湖というやつで、遠い昔は海だったらしい。

湖はよく手入れされていた。海辺でよく見かけるような無秩序に放置されたゴミの山や、

ぬめぬめと絡みついた海藻の類なんかは、

ここでは異国の話も同然だった。

風の強い緒護市で、ここの葦原を眺めれば、これほどの絶景はない。

元々は松林があったらしいが、7年前の山火事で全部焼けてしまったようだ。

市はそのうち撤去すると言っておきながら、ずっと放置したままだ。

どうやらこのまま放っておくつもりらしい。予算がないのか、まあこれも歴史のうちということにしておこうか。

風が気持ちいい。

そろそろ折り返し地点を回ると、海を背にして、右手の丘にようやく高校が見えてくる。

遠くから見ると相当高く見えるけど、傾斜はそこまで急じゃないよ、と父さんが教えてくれた。

高校の下には小さな建物が立ち並んでいて、もっと左の、湖畔と接する地点には

高級なペンションが軒を連ねている。いつか僕もあそこに泊まれる日が来るだろうか。

---


バスは坂道のすぐ下に停まる。360円くらいだったか。

本来は毎週千円もらってるんだけど、父さんをうまく丸め込めばほぼ毎日もらえるから心配はいらない。

余った金でドリンクを一本買った。さて、登るとするか。

なかなか曲がりくねった坂だ。脚に負担はかからないけど、顎をぐっと上げて、ちんたら登っていかないといけない。

洒落たカフェを通り過ぎ、左右に長く連なる商店街を後にすると、高校が見えてくる。

正門は、いつも通り開放されているが、その静けさが、あまりにも澄み切った静けさが、どこか不自然だ。

部活動か何かをしているはずなのに、今日はグラウンドにも誰もいないようだった。


「……」


——今、思い出した。

外観は子供の頃から見てきたけれど、僕はまだ校内に入ったことは一度もない。

よそ者の僕がうろついていたら、間違いなく怪しまれる身の上だ。

ああ、電話さえ通じていればどうにかなったものを。

公衆電話も近くにはほとんどなくて——公衆電話なんてもう過去の遺物だ。

困ったことになった。不審者だと誤解されなければいいけど。

とりあえず入ったほうがいいのか、いや、職員室をちゃんと見つけられるかが問題だ。

すぐ隣に中学校の建物もあるみたいだし、もし門が閉まっていたら目も当てられない。


「ねえ、あんた。そこで何してるの?」

背後から、唐突な声が聞こえる。

女性的でありながら、語尾がしゃがれた独特な声だ。

「ん?、あ、はい?」

僕はできる限り自然な態度を保ちながら答えた。

振り返るとそこにいたのは制服姿の女子生徒。

目を引くのは、飛び抜けて高い身長。180センチはゆうに超えているようだ。

ちょうど吹いてきたそよ風になびく彼女の長い髪は、古風な浮世絵を思わせる。

真っ黒な髪には、白い白髪がまばらに交じっている。

彼女の真っ白な肌は、光の中で消えたり現れたりを繰り返しているようだった。

赤く際立った唇。

——息を切らしているところを見ると、どうやらうろついていた僕を見て急いで駆けてきたらしい。

悪い人ではなさそうだ。あくまで最低限の予感だけれど。

僕が着ているのと同じ制服だろうか? 間違いなくこの学校の生徒だと思った。

「あ、このプリントを職員室に届けなきゃいけなくて、ええと、下原先生に——」


「下原先生なら、今日いないよ」

は?——僕は聞き返したかった。だが彼女のほうが一歩早かった。

「聞いてない? 今日は多分、職員室にほとんど誰もいないと思う」

最悪の結末だ。僕は一体何のためにここまで来たのか。人生無常。

あの時のヒステリーが、顎の先で筋を撫でていく。

現実逃避。

後頭部をもう一度殴られたかのように、瞳孔が眼球を締め上げるように収縮する。

「うう……」


「大丈夫? どこか痛いの?」


「——いえ、たいしたこと、たいしたことないです」

「あ、そういうことね——実は、僕、明日入学することになってて」

こうなったら本当のことを言うしかない。

「そ、そうなんだ、新入生なんだ⁈」

彼女の驚いた表情を見ると、罪悪感が湧いてくる。実際、嘘は一つもついていないのだけど、

一言一言に、優しさが——見知らぬ者を救おうとする、そんな温もりが込められていたから。

「よくここまで登ってきたね、普段からスポーツか何かやってるの?」


「いえ、そういうわけじゃなくて——」


「ちなみに、道の真ん中を歩いたほうがいいよ」

「夏になると木から虫が落ちてくるから、シュシュッ、て~」

役に立つ情報といえば、役に立つ情報だ。

「この間もね? 頭に毛虫がくっついてて大変だったんだから、

イチカがちゃんと教えてくれなかったら、むむむ、想像もしたくない!」

……そろそろ話題を変えたほうがよさそうだ。

「あの、もしよかったら、お名前は」


「ああ、ごめん。ちゃんと自己紹介するね。私は2年B組の春衣玲見由(はるい・れみゆ)」

春衣玲見由——という名前らしい。初めて聞く名前だ。

「春衣先輩、って呼べばいいですか。僕は周藤夜一といいます」

他人と自己紹介をし合うなんて、一体いつ以来だろう。

中学までは生まれた場所から出たことがなかったから、

全員顔見知り、それでいてどこかよそよそしい人たちばかりだった。

だけどここは違う。

……朝のガキっぽいちびを除けば、

面識もない僕に、自分から近づいてきてくれる場所。

そうか、もしかしたら——

「あ、うん! じゃあシュウ君って呼ぶね」


「はい——問題ありません。それより先輩はどうして今日、学校に来られたんですか? 部活動があるんですか?」


「えへへ、実はね、私、生徒会なの。入学式前に確認しないといけないことがあってさ……」

生徒会、か? あまり生徒会っぽいイメージではない。

確かに、不良っぽい雰囲気は見当たらないけど、

かといって優等生っぽい感じも、運動部っぽい感じも、この人からは感じられない。

ただ、どこにも染まっていない感じ———これは単なる直感だけど。

それでも生徒会なら、きっと学校のことをいろいろ知っているだろうし、

もしかして仲良くなれたら、いろんなベネフィットがあるかもしれない。

「それじゃ、そのプリント貸してくれる? 代わりに渡しておくよ」


「あ——ありがとうございます、先輩」


「ふふっ、お礼なんていらないよ。入学式の日に会おうね」


「はい、気をつけて帰ってください」


さて、任務完了、かな。

一時間程度の暇つぶしのつもりが、こんなに長くなるとは。

春の日は高く昇り、

昼休みの時間はとっくに過ぎていることだろう。

僕はただ、塩気を帯びた海風を味わいながら、

涼しさの源を求めて、緑色の湖に向かって歩いて、また歩いた。

登ってくる時にはただの障害物にしか見えなかった景色が、今になってはっきりと色を見せてくれる。

菜の花、そして桃の花。

花が咲くたびに、蘇る幼い頃の姿。

望むのは、あの日々の純粋さ。

黒く染まらない無知を——



---

それからおそらく3時間は経っただろうか。

湖の向こうに太陽が沈み、世界を橙色に染めていく。

むずがゆいような暑さも、賑やかにさえずっていた雀たちも。

静寂を理解したかのように、その哀愁のある雰囲気を受け入れたかのように、

騒がしい観客の座から離れ、静かに退場していく。

家に、は。特に帰りたくなかった。

中身のない小言に嫌気が差しながら生きるくらいなら、

湖畔の石を投げて水切りをしているほうがましだった。

だが、それにも飽きてしまった。

葦原、葦原を見ていると、母さんのことを思い出す。

母さんの故郷には、ここのように葦がずっと、広がっているらしい。

———あの、水平線を越えてまで。

僕は、その景色を見ることはできないだろうけど。

舌をチッ、チッと打ちながら、僕は家に帰るバスに乗った。

帰りのバスは、街の繁華街を直行する。

街灯とネオンサイン、立ち昇るタバコの煙、中毒。

パチンコ、疾走するバイク。

繁華街は、世界中どの都市にとっても心臓のような場所だから。


そうして家に帰ってきた。

父さんが壊れた携帯電話について、それに帰りが遅かったことについて、あれこれと詰め寄ってきた。

事を大きくしたくなかった僕は、適当に言い訳を並べた。

偶然、そう。偶然——壊れたんだ、遅くなったんだ、と。

部屋に閉じこもった僕は、天井を見上げた。


「どうにか、なるだろう」


無造作な独り言。

この一言が、

これから続く、あらゆる、そのあらゆる出来事を正当化し、

僕を急き立てることになるとは、まったく知らないまま。

今日の出来事を、一つ一つ噛みしめた——

エレベーターの事件、屈辱感。

壊れた携帯電話、打撲。

向かいにいた少女——あの謎。

湖の風景、朝の静寂。

先輩との出会い——

僕はこれらすべての記憶を、拒みもせず、認めもしないまま、

運命の波に、身を委ねることにした。

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