縁の発火
哀しい。
今、僕は夢を、欲情がこびりついたような夢を見ていたのだろうか。
別にタイプの女というわけでもないが、エレベーターの暴力女とはまた違う、
いや、まるで際どい境界線に立っているかのような魅力のある女だった。
また会えたらいいのに。
そうやって延々と場面を反芻しながら歩いていると、大きな湖が出てくる。
どうやら潟湖というやつで、遠い昔は海だったらしい。
湖はよく手入れされていた。海辺でよく見かけるような無秩序に放置されたゴミの山や、
ぬめぬめと絡みついた海藻の類なんかは、
ここでは異国の話も同然だった。
風の強い緒護市で、ここの葦原を眺めれば、これほどの絶景はない。
元々は松林があったらしいが、7年前の山火事で全部焼けてしまったようだ。
市はそのうち撤去すると言っておきながら、ずっと放置したままだ。
どうやらこのまま放っておくつもりらしい。予算がないのか、まあこれも歴史のうちということにしておこうか。
風が気持ちいい。
そろそろ折り返し地点を回ると、海を背にして、右手の丘にようやく高校が見えてくる。
遠くから見ると相当高く見えるけど、傾斜はそこまで急じゃないよ、と父さんが教えてくれた。
高校の下には小さな建物が立ち並んでいて、もっと左の、湖畔と接する地点には
高級なペンションが軒を連ねている。いつか僕もあそこに泊まれる日が来るだろうか。
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バスは坂道のすぐ下に停まる。360円くらいだったか。
本来は毎週千円もらってるんだけど、父さんをうまく丸め込めばほぼ毎日もらえるから心配はいらない。
余った金でドリンクを一本買った。さて、登るとするか。
なかなか曲がりくねった坂だ。脚に負担はかからないけど、顎をぐっと上げて、ちんたら登っていかないといけない。
洒落たカフェを通り過ぎ、左右に長く連なる商店街を後にすると、高校が見えてくる。
正門は、いつも通り開放されているが、その静けさが、あまりにも澄み切った静けさが、どこか不自然だ。
部活動か何かをしているはずなのに、今日はグラウンドにも誰もいないようだった。
「……」
——今、思い出した。
外観は子供の頃から見てきたけれど、僕はまだ校内に入ったことは一度もない。
よそ者の僕がうろついていたら、間違いなく怪しまれる身の上だ。
ああ、電話さえ通じていればどうにかなったものを。
公衆電話も近くにはほとんどなくて——公衆電話なんてもう過去の遺物だ。
困ったことになった。不審者だと誤解されなければいいけど。
とりあえず入ったほうがいいのか、いや、職員室をちゃんと見つけられるかが問題だ。
すぐ隣に中学校の建物もあるみたいだし、もし門が閉まっていたら目も当てられない。
「ねえ、あんた。そこで何してるの?」
背後から、唐突な声が聞こえる。
女性的でありながら、語尾がしゃがれた独特な声だ。
「ん?、あ、はい?」
僕はできる限り自然な態度を保ちながら答えた。
振り返るとそこにいたのは制服姿の女子生徒。
目を引くのは、飛び抜けて高い身長。180センチはゆうに超えているようだ。
ちょうど吹いてきたそよ風になびく彼女の長い髪は、古風な浮世絵を思わせる。
真っ黒な髪には、白い白髪がまばらに交じっている。
彼女の真っ白な肌は、光の中で消えたり現れたりを繰り返しているようだった。
赤く際立った唇。
——息を切らしているところを見ると、どうやらうろついていた僕を見て急いで駆けてきたらしい。
悪い人ではなさそうだ。あくまで最低限の予感だけれど。
僕が着ているのと同じ制服だろうか? 間違いなくこの学校の生徒だと思った。
「あ、このプリントを職員室に届けなきゃいけなくて、ええと、下原先生に——」
「下原先生なら、今日いないよ」
は?——僕は聞き返したかった。だが彼女のほうが一歩早かった。
「聞いてない? 今日は多分、職員室にほとんど誰もいないと思う」
最悪の結末だ。僕は一体何のためにここまで来たのか。人生無常。
あの時のヒステリーが、顎の先で筋を撫でていく。
現実逃避。
後頭部をもう一度殴られたかのように、瞳孔が眼球を締め上げるように収縮する。
「うう……」
「大丈夫? どこか痛いの?」
「——いえ、たいしたこと、たいしたことないです」
「あ、そういうことね——実は、僕、明日入学することになってて」
こうなったら本当のことを言うしかない。
「そ、そうなんだ、新入生なんだ⁈」
彼女の驚いた表情を見ると、罪悪感が湧いてくる。実際、嘘は一つもついていないのだけど、
一言一言に、優しさが——見知らぬ者を救おうとする、そんな温もりが込められていたから。
「よくここまで登ってきたね、普段からスポーツか何かやってるの?」
「いえ、そういうわけじゃなくて——」
「ちなみに、道の真ん中を歩いたほうがいいよ」
「夏になると木から虫が落ちてくるから、シュシュッ、て~」
役に立つ情報といえば、役に立つ情報だ。
「この間もね? 頭に毛虫がくっついてて大変だったんだから、
イチカがちゃんと教えてくれなかったら、むむむ、想像もしたくない!」
……そろそろ話題を変えたほうがよさそうだ。
「あの、もしよかったら、お名前は」
「ああ、ごめん。ちゃんと自己紹介するね。私は2年B組の春衣玲見由」
春衣玲見由——という名前らしい。初めて聞く名前だ。
「春衣先輩、って呼べばいいですか。僕は周藤夜一といいます」
他人と自己紹介をし合うなんて、一体いつ以来だろう。
中学までは生まれた場所から出たことがなかったから、
全員顔見知り、それでいてどこかよそよそしい人たちばかりだった。
だけどここは違う。
……朝のガキっぽいちびを除けば、
面識もない僕に、自分から近づいてきてくれる場所。
そうか、もしかしたら——
「あ、うん! じゃあシュウ君って呼ぶね」
「はい——問題ありません。それより先輩はどうして今日、学校に来られたんですか? 部活動があるんですか?」
「えへへ、実はね、私、生徒会なの。入学式前に確認しないといけないことがあってさ……」
生徒会、か? あまり生徒会っぽいイメージではない。
確かに、不良っぽい雰囲気は見当たらないけど、
かといって優等生っぽい感じも、運動部っぽい感じも、この人からは感じられない。
ただ、どこにも染まっていない感じ———これは単なる直感だけど。
それでも生徒会なら、きっと学校のことをいろいろ知っているだろうし、
もしかして仲良くなれたら、いろんなベネフィットがあるかもしれない。
「それじゃ、そのプリント貸してくれる? 代わりに渡しておくよ」
「あ——ありがとうございます、先輩」
「ふふっ、お礼なんていらないよ。入学式の日に会おうね」
「はい、気をつけて帰ってください」
さて、任務完了、かな。
一時間程度の暇つぶしのつもりが、こんなに長くなるとは。
春の日は高く昇り、
昼休みの時間はとっくに過ぎていることだろう。
僕はただ、塩気を帯びた海風を味わいながら、
涼しさの源を求めて、緑色の湖に向かって歩いて、また歩いた。
登ってくる時にはただの障害物にしか見えなかった景色が、今になってはっきりと色を見せてくれる。
菜の花、そして桃の花。
花が咲くたびに、蘇る幼い頃の姿。
望むのは、あの日々の純粋さ。
黒く染まらない無知を——
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それからおそらく3時間は経っただろうか。
湖の向こうに太陽が沈み、世界を橙色に染めていく。
むずがゆいような暑さも、賑やかにさえずっていた雀たちも。
静寂を理解したかのように、その哀愁のある雰囲気を受け入れたかのように、
騒がしい観客の座から離れ、静かに退場していく。
家に、は。特に帰りたくなかった。
中身のない小言に嫌気が差しながら生きるくらいなら、
湖畔の石を投げて水切りをしているほうがましだった。
だが、それにも飽きてしまった。
葦原、葦原を見ていると、母さんのことを思い出す。
母さんの故郷には、ここのように葦がずっと、広がっているらしい。
———あの、水平線を越えてまで。
僕は、その景色を見ることはできないだろうけど。
舌をチッ、チッと打ちながら、僕は家に帰るバスに乗った。
帰りのバスは、街の繁華街を直行する。
街灯とネオンサイン、立ち昇るタバコの煙、中毒。
パチンコ、疾走するバイク。
繁華街は、世界中どの都市にとっても心臓のような場所だから。
そうして家に帰ってきた。
父さんが壊れた携帯電話について、それに帰りが遅かったことについて、あれこれと詰め寄ってきた。
事を大きくしたくなかった僕は、適当に言い訳を並べた。
偶然、そう。偶然——壊れたんだ、遅くなったんだ、と。
部屋に閉じこもった僕は、天井を見上げた。
「どうにか、なるだろう」
無造作な独り言。
この一言が、
これから続く、あらゆる、そのあらゆる出来事を正当化し、
僕を急き立てることになるとは、まったく知らないまま。
今日の出来事を、一つ一つ噛みしめた——
エレベーターの事件、屈辱感。
壊れた携帯電話、打撲。
向かいにいた少女——あの謎。
湖の風景、朝の静寂。
先輩との出会い——
僕はこれらすべての記憶を、拒みもせず、認めもしないまま、
運命の波に、身を委ねることにした。




