水平線
僕は目に力の限り神経を集中させた。
時計を見つめると、あと4秒、2秒、1秒。
分針と秒針が重なり合い、
7時、7時ちょうど。
「よし、睡眠パターンはちゃんと整ったみたいだな」
僕は安堵した。乱れた横髪をかき上げながら、
「——明日か?」
今日が4月6日だから、明日が入学式のはずだ。
この街での新しい生活、新しい学校。
じっとしていても心臓が勝手にドキドキ鳴り出す。
ぞわっとした気分に、めまいすら覚える。
いや、こういう時こそ、忙しく動かないと——と、
唇を軽く噛みながら、痛みの余韻を数えつつ、僕は思い切って敷居をまたいだ。
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「おお、起きたか」
「7時とはな、お前らしくもない」
「ん、まあ、この程度だよ」
父さんは僕のことを一体何だと思っているのだろう、自分は職もないくせに。
一体いつになったら仕事を探すつもりなのか。
いや、僕だって、あと3年もすれば成人だし——それなら、ああいうザマも見過ごさないといけないのだろうか。
社会の冷酷さとは——、めまいがまたぶり返しそうだ。
「それで、準備はもう終わったのか?」
「文房具、つまり鉛筆、消しゴム、鞄、教科書とか——」
「昨日一緒に準備したじゃん」
「ああ、そうだったな、悪い」
記憶力の減退が著しい。生まれつきなのだろうか。僕は母さん似なのか、記憶には強いほうだ。
それに、こんな簡単な言葉にすら気落ちするのも、僕の性格とは思えない。
祖父か祖母の影響だろうか? 二人とも会ったことは一度もないが。
「朝ごはん食べなくていいのか? サンドイッチ買っておいたんだけど」
少し間を置いて、
「いや、僕、ちょっと出かけてくる。引っ越してきたばかりだし、街を覚えておこうと思って」
「あー」
「どれくらいかかる?」
「さあ、昼前には戻るよ」
僕はいい加減に受け流しながら、また床に転がっていた上着を羽織った。
そろそろ洗わないとな、今日着て洗濯すれば、明日あたりには乾くだろう。
向こうには新しい学校の制服がきちんと並べてある。
田舎とはいえ、その中では一番学業に優れた学校らしい。
上はシンプルにブラック&ホワイト。
下は、うーん、残念ながら、西部劇にでも出てきそうなダサいチェック——それも派手なレッドだ。女子の制服は普通に可愛いのに、これだけ育った高校生男子がこんなものを着なきゃいけないとは。
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「あ、夜一、ちょっと待って」
ぼんやりしすぎたのだろうか。それとも、また些細な愚痴だろうか?
「今日、時間ある?」
「うん、時間ならたっぷりあるよ」
「困ったことになってさ、これ、学校に届けてくれないか?」
ちょっと、今なんて——
「……学校? 今日? 今日って休みじゃないの?」
「うん、それでも正門に渡しておけばいいから、多分お前の担任に渡してくれるはずだから」
父さんはそう言って、埃のかぶったプリント類を、無骨な手つきで丁寧にまとめて僕に
差し出した。
「めんどくさいんだけど」
「——悪い、今日中にやらなきゃいけないんだ」
「わかったよ、じゃあ」
結局こうなるのか、もう慣れた。母さんがいた頃なら、こんなことは想像もできなかっただろう。母さんがいたら。
僕は少しむかっとして、ヒステリックにひったくった。学校、学校か……
「ここから見えるかな?」
玄関を出ながら、マンションの外の風景を横目で見やった。
遠くに銅色の海が見える——そして湿った土の匂いと潮の香り。
海辺というのは、春でも冬でも夏でも、湿った空気を振り払えないものだ。
引っ越してきたばかりの頃は気に入っていたのに、「慣れ」というのは本当に恐ろしい。
それでも僕は緒護市が気に入っている。大都市に比べれば取るに足らない、狭い場所だけど。
人口は10万を超えるか超えないか、その程度だ。
故郷のA市は100万をゆうに超える巨大な街で、通りという通りが人でごった返し、ビルの森、ラッシュアワー、満員電車、フェラーリ、ランボルギーニ、ハーレーダビッドソン——
一言でいえば「カオス」だ。
それに引き換え、ここ緒護市はまるで楽園だ。これほど海が近くて、情緒安定にもいいし、冬でも暖かい。内陸に比べて湿気が多いのは残念だけど。僕は寒いのが苦手な体質だから。
街中で誰かとすれ違うことのほうがむしろ珍しいくらいだ。通り過ぎる車の大半は魚を山ほど積んだトラックばかりで。ベンチという ベンチをすべて占領しているお年寄りたちを除けば、事実上無人の街と言ってもいい。僕や父さんみたいな性格には合っているけれど、母さんがいたら、きっとこう文句を垂れていただろう。
「デパートもない、銀行もない、何もないじゃない、こんな所——!」
久しぶりに母さんの雷も聞いてみたい——。
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いけない、もう8時半になってしまった。僕はどれだけ感傷に浸っていたんだろう。
並んだマンションの玄関を一つ、また一つと通り過ぎて五つ目を過ぎるとエレベーターが出てくる。
エレベーターですら僕は嫌悪せずにはいられない!
特にあの騒音が——まるで「もう限界です」と悲哀を叫んでいるかのようだ。
速度もひどく怠けていて、一階、一階ごとに20秒はかかる気がする。
「まあ、ゲームでもするか」
僕はスマホを取り出して、最近話題のアクションゲーム『BOWLS』を起動した。
サバイバル要素がある程度加わった対戦ゲームだけど、意外と中毒性が高い気がする。
「あ——」
おっと、いつの間にか5階まで来ていた。今日は運がいいな、誰もいない。
僕は鼻息荒く、偉そうに背中をもたせかけた。エレベーターに誰もいない時によくやる姿勢だけど、頭をぐっと背面にくっつけて、脚をぐいっと伸ばすのがポイントだ。こうすると滑車の振動が伝わってきて、ある程度マッサージ効果もある気がする。気分がいい。
「ん? もう1階か——」
僕はあくびをしながら、気持ちよく拍車をかけた。ところが——、
バァァン——
「いてててて……」
何だ、何かにぶつかったのか? 僕の身長は175センチ、いや176だ。中学の頃もかなり高いほうだったし、昔のエレベーターは天井が低いと言うけれど、僕くらいの身長ならまず問題ないはずだ。うう、頭が割れそうだ。子供の頃、調子に乗って鉄棒を飛び越えようとして額を切った時以来、こんなに痛かったことはない気がする。
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「おい」
「何そんなとこで転んでんの? みっともない」
は? いきなりタメ口、いや、しかも僕より幼い声なんだけど。
「転んでるって、何、あと何?」
僕はキッと目を吊り上げた。
「エレベーターは降りる人が先だろ、そんなことも知らないの?」
軽く見た感じ、予想とさほど変わらなかった。身長は160くらいに見えるし、
うーん、髪が短くて男か女か区別がつかないな、男なら中学生くらいに見えるし、
女……なのか?
「はぁ、どうせ中学生くらいだろ、お前何歳だよ? 何、喧嘩でも売る気か?」
「——チッ」
久しぶりに頭のてっぺんまで怒りが上ってきた気がする。適当に謝ってくれれば済んだのに、必ず
馬鹿みたいに事を大きくする奴が、いつも一人はいるものだ。この際、性根を叩き直してやったほうがいいかもしれない。
「何だよ、まったく——」
ん?
ぷっ——
「な、何がおかしいんだよ?」
僕は失笑せずにはいられなかった。今ようやく目に入ったとは。
そうだ、女の子で間違いないようだ。
だけど、服の格好が、ああ、はははははは、
もちろん僕もファッションにはそこまで興味がない。それでもこいつが着てる状態が、
うーん、非常に危篤だ。服が安物だとか、そういうことではないのだが。
シルクのネクタイに、バーボン色のハット、何色かも分からないほど色褪せたバギーパンツ——
ファッションテロリズムの極みだ。何だ、これは。
パチン——
「痛っ!」
痛い、いや、今、一発叩かれたのか?
「……何がおかしいんだって聞いてんだよ、この馬鹿」
その、いや彼女は、憤りに満ちた声で叫ぶと、階段のほうへどたどたと駆けて行った。
世も末だな……
いけない、プリント類があちこちに散らばってしまった。入学式前日だっていうのに、こんなことになるなんて。
でも改めて見ると、顔立ちは悪くなかった気がする。いや、可愛いほうだと思う。
盛りなしの実物で見ても、うーん、かなり好みかもしれない。
「まあ、あの性格じゃ無理だろうけど」
うん。無理だ。そもそも16年連続彼女なしのくせに。
プリントでも拾い集めるとしよう。はぁ、何でこんなに大変なんだろう。
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たんこぶができたかもしれない、もしかすると。面倒なことになった。
頭をさすりながら、僕はまた道を歩き出した。
早春の初々しい花の香り。
まだその装いを見せていない蕾たちが、そのぶん
弾けそうで弾けない、うずうずと揺れていた。
その目に眩しいものを見ていると、さっきのあの女のことが思い出される。
ああ、考えるだけでむかむかと苛立ちがこみ上げてくる。
それでもまだ大丈夫だ——桜はまだ咲いていないのだから。
桜が咲いた美しい日々にこんな目に遭っていたら、僕だって黙って見過ごしはしなかっただろう。
力を使ったのは、中学1年の時が最後だったけれど、こう見えて結構丈夫な体だ。
とりあえず、学校に行くのが先だろう。
家から5分歩くと石橋が出てくる。
補修工事だとかでコンクリートまみれにされてしまった今となっては、「石橋」というには少し違和感がある。
石橋を渡ると、都会らしいと言えるような大きな道が出てくる。
その道で真紅色の2403番バスに乗れば、学校の前まで直行できる。
実は401番バスのほうが速いのだけど、僕が2403番にこだわる理由は別にある。
——乗りながら説明しよう。
それはさておき、今日は週末だから、運行間隔がひどく長いようだ。
20分くらい待つことになるだろうか。
大都市なら、どんなに長くても10分以内だ、10分。
一体どうなってるんだ、いっそ母さんについて行けばよかった。
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内面の怒りは、収まるどころか、
僕の一挙一動を過激に命令していた。
心身不安、神経性過呼吸、理性の停滞——
だが次に訪れた、一連の出来事のおかげで、僕は自我の暴走から解放されることになった。
最初に直面したのは、エレベーターでの一件のせいでスマホが不通になっていたことだった。
スマホについて——どうやらぶつかった時の衝撃で内部がイカれてしまったらしい。
困った。冗談じゃない、今すぐ連絡を取る手段があるわけがないのだ。
田舎に泥棒なんかいるはずもないだろうが、あの女みたいに腹黒い人間がうようよしているかもしれないのだ。
僕は限界に達し、捨てられていた空き缶を力いっぱい蹴飛ばした。清掃業者には申し訳ないことをした。
ところがその拍子に、間抜けなことに、僕はバランスを崩し———後頭部を街灯にぶつけてしまった。
痛みが一瞬にしてつま先まで伝わった。
僕はうめきながら、脳震盪を心配し、また、こんな所で倒れたら、SNSに晒されはしないか、
誰も助けてくれず、蝉の抜け殻のように朽ちていくのではないか、という妄想をした。
その時、鳥の声のような爽やかな笑い声が、耳に入ってきた。
意識を働かせて目にしたのは、向こうにいる少女だった。
その少女は、向かい側のバス停に座っていた。
それが僕の注意を引いた理由は、彼女のワンピースがあまりにも美しかったから——というのは、あまりに叙情的すぎるだろうか?正直に言えば、彼女のエキゾチックな美しさ、赤みがかって無秩序に焼けた肌、
黒いのに白く輝く瞳、非対称ながらも、彼女だけの初々しい生気を宿したヘアスタイル。僕は彼女の従者になったかのように、彼女の一挙手一投足に神経を注がずにはいられなかった。
まさにその時、彼女と目が合った。
僕は黒い本心を隠しきれず、崩れ落ちるように顔を背けようとした。
やっぱり嫌がられるだろう、いや、嫌悪されて当然だろう。きっと軽蔑の——怒りを、高潔な怒りを込めた眼差しを僕に送ってくるはずだ。それなら僕は服従と懺悔の合図を送り返すしかない。
そう思っていると、彼女の返答は驚くべきものだった。
彼女は小さく、生気に満ちた唇を柔らかく押し上げながら、
慈しみに満ちた笑みを僕に向けてくれた。
彼女の笑みに、崩れ落ちてしまった僕は——意識的に大げさに膨らませていた後頭部の怪我のことすら忘れ、まともな返答を返すこともできないまま、
タイミング悪くやってきた2403番バスに飛び乗った。
バスの中から再び目をやったその場所には、彼女はいなかった。
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