第14話 商会が仕掛けた最後の遅延魔法
契約の日まで、あと七日。
朝の鐘を鳴らし終えた子どもたちが広場から散っていくと、時計塔の下に見慣れない男が立っていた。
商会の使いではない。黒い外套の襟に、銀色の歯車を三つ重ねた徽章をつけている。商会が雇った魔法技師だと、ユアンが小声で教えてくれた。
「技師が何の用です」
ユアンが前へ出る。
「時計塔の状態を確認しに来ただけです。契約の期限までに修復が間に合わなければ、街区の管理権は商会へ移る。その確認ですよ」
「修復作業は公開されています。隠れて調べる必要はないでしょう」
「作業を妨げるつもりはありません」
男は笑った。だが、その視線は私の工具箱と、塔へ続く扉の錠前を順に測っていた。
「ただ、古い魔法機械には専門家の判断が必要です。素人が触れば、かえって危険になりますから」
「私は素人ではありません」
そう言うと、男は私の手を見た。油と煤で黒くなった指先を見て、わずかに口元を歪める。
「職人見習いでしょう」
「見習いでも、壊した人よりは構造を知っています」
ユアンが低く息を吐いた。笑いをこらえたのかもしれない。
技師はそれ以上何も言わず、塔の扉へ近づいた。私は反射的に鍵を押さえる。
「中へ入るなら、記録に名前と時刻を書いてください」
「ずいぶん厳重ですね」
「壊れた原因を調べているので。誰が、いつ、どこを触ったか残すのは当然です」
男は肩をすくめたが、記録板に名前を書いた。字はひどく読みづらく、署名の最後に小さな印が押されている。印章の縁に、歯車の模様があった。
塔の内部へ入ると、男はすぐに壁際の制御盤へ手を伸ばした。私はその前に立った。
「そこは調整中です」
「調整中だから確認するのです」
技師の指先から、淡い青い光が流れた。魔力の線が盤面を走り、歯車の隙間へ入り込んでいく。
「触らないでください」
私は工具を抜いた。
「外部から魔力を入れると、現在の調整値が変わります」
「微細な補助です。問題ありません」
光が一度、強くまたたいた。
その瞬間、塔の奥で何かが弾けた。
がきん、と金属が噛み合う音がして、調速輪が急に回転を速める。私は盤面の留め具を外し、内部を覗き込んだ。
「止めます!」
手動制動の紐を引いた。だが、紐は途中で空回りした。
「制動輪が外れています」
ユアンが叫ぶ。
「さっきの魔力で外れたんです!」
私は床に膝をつき、工具を差し入れた。歯車が異常な速度で回り、細い金属片が火花を散らしている。このままでは軸が焼ける。
技師は盤面から手を離し、後ろへ下がった。
「危険ですね。やはり、専門家に任せるべきだった」
「あなたが触ったからです!」
「証拠は?」
怒りで視界が白くなった。けれど、今は言い争っている場合ではない。
「ユアン、上の補助鎖を外してください。三本目だけ。二本目を外すと振り子が落ちます」
「わかった」
ユアンが階段を駆け上がる。私は焼けた軸に冷却用の粉を振り、歯車の回転に合わせて楔を打ち込んだ。速度が少し落ちる。だが、奥から別の音がした。
かち、かち、かち。
規則正しい音なのに、時間を刻んでいるのではない。ひとつの動作を、何度も繰り返している。
「遅延魔法……」
技師が呟いた。
「気づきましたか」
私は制御盤の隅に刻まれた魔法陣を見つけた。細い線が三重に重なり、中央に商会の徽章と同じ歯車が描かれている。
「この魔法は、動きを止めるものじゃない。命令を受けてから実行するまでの時間を、少しずつ遅らせる」
「それが何だというのです」
「調速輪が回る命令と、制動輪が働く命令の間に遅れができている。今までの故障も、これで説明できます。壊れたのではなく、直そうとするたびに別の場所へ遅延が積み重なっていた」
私は魔法陣の端にある小さな切れ目を指でなぞった。
「誰かが、修復作業そのものに仕掛けたんです」
広場から住民たちの声が聞こえた。塔の異音を聞きつけたのだろう。子どもたちの小さな鐘も鳴り始める。
ちりん。ちりん。
その音を合図に、ユアンが補助鎖を外した。調速輪の回転が一段落ちる。
「リゼット、どうすればいい」
「遅延の魔法陣を逆向きにします。命令の順番を戻す」
「失敗したら?」
「塔の鐘が、少なくとも二十年は鳴らせなくなります」
ユアンは私を見た。迷いは一瞬だった。
「やってくれ」
私は細い調整針を取り出した。魔法陣の線を一本ずつ削る。削りすぎれば術式は暴発する。浅ければ、商会の魔力がまた戻ってくる。
手が震えた。
その時、扉の外から声がした。
「リゼットさん、鐘の音を止めません!」
男の子の声だった。
「みんなで鳴らしています!」
小さな鐘が、次々に重なる。ちりん、ちりん、ちりん。ばらばらなのに、ひとつも途切れない。
私は息を整え、最後の線を削った。
青い光が逆流した。
技師が悲鳴を上げ、徽章を押さえて後ずさる。魔法陣から吸い込まれた魔力が、彼の印章へ戻っていく。そこに刻まれていた歯車の模様が、ひび割れて消えた。
塔全体が大きく揺れた。
そして、止まっていた針が一目盛り進んだ。
かちり。
静かな音だった。
だがその直後、塔の鐘が低く震えた。まだ鐘そのものを鳴らすほどの力はない。それでも、街区の壁を伝わり、足元へ確かな振動が届いた。
外から歓声が上がる。
ユアンは技師を見下ろした。
「あなたが仕掛けたのですか」
「私は命じられただけだ」
「誰に」
男は答えなかった。
私は記録板を持ってきて、魔法陣の跡と技師の印章を描き写した。ユアンが住民たちを塔の中へ招き、全員に見せる。
もう、壊れた原因は偶然ではない。
商会が仕掛けた最後の遅延魔法は、鐘を止めるためだけのものではなかった。修復を何度も失敗させ、住民たちに諦めさせるための魔法だったのだ。
夕方、広場で記録を読み上げると、誰も沈黙しなかった。
「契約の日まで、あと六日です」
ユアンが言った。
「急がなければならない。しかし、焦ってはいけない。私たちは、誰が何をしたのかを、すべて明らかにする」
子どもたちが小さな鐘を鳴らした。
ちりん。
今度は塔の奥から、かすかな返事があった。
かちり、と一度。
遅れていた時間が、ようやく私たちの側へ戻り始めていた。




