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この世界、締切よりマシだと思ったのに  作者: アンドリュー・チェン


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22/23

第二十一章: 理解の代償.

この章と併せて、エルスベスが図書館の中で体験する神話を掲載しています。


作中では、原文は神聖文字で記されています――通常の手段では読み解くことのできない、直接理解することのできないものです。皆様がお読みになっているものは、神話の重みと意味を損なうことなくお伝えするため、よりわかりやすい言葉に翻訳されたものです。


オイクーメン世界の神話にご興味がおありの方は、

キャラクター視点作品の方にも収録されていますので、そちらをご覧ください。


この神話は、単に「読む」ものではありません。


「体験する」ものなのです。

敷居を越えた瞬間、空気が変わった。


何千年も閉ざされた場所の、澱んだ死んだ空気ではない。動いていた。私たちの周りで、長く息を止めていたものが、ようやく吐き出されたかのように、動いていた。確かに冷たく、年月の重みを帯びていたが、生きていた。循環していた。まるで、図書館は、ずっと息をし続けていたかのように。誰かが来るのを待ちながら。


背後で、キャルウィンが止まる音がした。


新しい環境を評価する者の、注意深く、意図的な間ではない。完全な、凍りついた停止。自分が知っていると思っていた全てが、不確かになった時に起こる、あの種類の停止。


私は、振り返った。


彼女は、入り口のすぐ内側に立っていた。その淡い瞳は、私の向こう側の空間に固定されていた。唇は、わずかに開かれている。いつもは、冷静に体の脇に置かれている手は、無意識に胸の上に押し当てられていた。まるで、内側の何かを、落ち着かせようとするかのように。


**「これは……」**


声は、かすかなささやきだった。


**「ありえません」**


私は、彼女の視線を追った。


廊下は、私たちの前に、長く、まっすぐに伸びていた。その壁には、棚が並び、暗闇の中へと続いている。時の流れに捨てられた場所の、崩れかけた棚ではない。かつて知識だったものの、骨格だけの残骸ではない。**完全な**棚だ。**無傷のまま**。木はかすかに輝いている。まるで、昨日、油を塗ったかのように。それらを満たす書物は、きちんと並んでいる。背表紙を外に向けて。その題名は、読まれるのを待っている。私は、それらを読むことはできなかった。文字は見慣れないものだ。言語は、私が今まで見たどのものよりも古い。しかし、それらは、そこにあった。数千冊。おそらく、その向こうの空間には、数百万冊。


**「文献は、廃墟を記述していました」**


キャルウィンの声は、か細くなっていた。何かに引き伸ばされたように。それは、驚嘆かもしれないし、恐怖かもしれない。


**「崩壊を。朽廃を。土に還った場所を。こんなものでは、ありませんでした」**


彼女は、一歩、そしてまた一歩と、夢の中を歩くように進んだ。


**「こんなものでは、ありませんでした」**


彼女の衝撃は、理解できた。私も感じていた。だが、それは、彼女とは違っていた。彼女は、文書館の管理者だ。彼女は、何世紀もかけて、断片を研究し、失われたものを繋ぎ合わせ、切れ端と残響から歴史の理解を築き上げてきた。こんな場所、無傷で、完全で、生きている場所に立つことは、彼女の知る全てが溶解するのを、見届けることに等しい。


彼女が、棚に向かって手を伸ばすのを見た。その指は、革の背表紙のすぐ上で、宙に浮いた。彼女は、それに触れなかった。触れられないようだった。まるで、接触が幻想を砕くかもしれないと。


**「素材が……」**


彼女は、息を呑んだ。


**「装丁が。これを可能にする保存技術が……」** 彼女は、止まった。唾を飲み込む。**「ありえません」**


彼女は、繰り返した。今度は、その言葉の奥底に、何かが聞こえた。単なる不信感ではない。何世紀にもわたる確信が、一瞬で崩壊するのを目の当たりにする、学者の静かな眩暈。


私は、彼女に、その瞬間を与えた。一度には抱えきれないほどの啓示の、その縁に、立たせてやった。


なぜなら、私は、別のものを見ていたからだ。


**光。**


それは、私には特定できないどこからともなく、現れていた。窓ではない。窓はない。外への開口部はない。松明でも、灯りでもない。その照明は、ただ、そこにあった。柔らかく、拡散して、方向も、光源もない光で、空間を満たしていた。私たちが廊下の奥へ進むにつれ、それは、明るくなっていった。まるで、図書館が、部屋ごとに、廊下ごとに、目覚めていくかのように。


そして、その光の下で、より深い意識。


ここの沈黙は、空虚の沈黙ではなかった。私は、その沈黙を知っている。妖精界の深い森で、音と音の間の静かな場所で、知っていた。


**図書館は、私たちがここにいることを、知っていた。**


私は、声に出さなかった。キャルウィンは、まだ、無傷の棚という、ありえない光景を処理している。彼女は、まだ、これを受け入れる準備はできていなかった。


しかし、私は、感じていた。私たちの周りを、息のように動く空気の中に。私たちが歩くにつれて、明るくなる光の中に。聞こえるというより、感じる、深く、緩やかな鼓動の中に。全ての中心にある、心臓の鼓動。着実で、忍耐強く、ありえないほど古い。


この場所は、**保存**されていたのではない。保存とは、静止させ、凍結させ、自然な時間の流れに逆らって保持することを意味する。


---


私たちが歩くにつれ、棚は、曲線を描いているように見えた。入り口からは見えないはずの空間へと、開いていく。広大で、円形の閲覧室。その壁は、周囲の光でかすかに輝く書物で埋め尽くされている。机は、同心円状に配置され、それぞれに、開かれたままの写本が置かれている。まるで、学者たちが、つい先ほどまで席を立ったばかりかのように。螺旋状に上昇する階段。その段は、何世紀も前に、何世紀も、何世紀も、それを登った足で、滑らかに磨り減っている。それなのに、木は、しっかりとしている。石は、砕けていない。


キャルウィンは、閲覧室の端で止まった。彼女の手は、椅子の背もたれを掴み、体を支えた。彼女は、青ざめていた。その髪は、奇妙な光を受け止め、ほとんど液体のように変えていた。


私は、閲覧室の中央を見ていた。そこには、他の机からわずかに離れて、一つの机が置かれていた。その上に、一冊の書物が、開かれていた。


私は、考えるより先に、それに向かって歩いていた。


歩くにつれ、光は、明るくなった。影を落とさず、何も温めず、しかし、付き従うように。まるで、図書館が、私に見せたかったかのように。まるで、この瞬間を、この接近を、この特定の瞳が、これらの特定のページに落ちるのを、待っていたかのように。


私は、机に着き、見下ろした。


文字は、外の石板と同じものだった――封印文字、とキャルウィンは呼んでいた。私は、まだ読めなかった。しかし、挿絵は……それらは、理解できた。


**円。七つの位置。回転する輪。**


訓練で描いてきたのと同じ象徴。異なる元素を呼び出す時に回転する、あの同じ輪。しかし、ここでは、この古代の書物の中で、それは、異なる描かれ方をしていた。より注意深く。まるで、画家が、輪の形だけではなく、その動きを捉えようとしていたかのように。回転と回転の間の、空間を。


私は、ページに触れた。羊皮紙は、温かかった。


背後で、キャルウィンが、ようやく声を取り戻した。


**「エルスベス」**


その口調は、変わっていた。衝撃から、より集中したものへ。


**「それは、何ですか?」**


すぐには答えなかった。私は、挿絵を見つめていた。そして、確信していた――ほぼ確信していた――輪が、動いたと。ほんのわずかに。まるで、私の接触に応えるかのように。


**「魔道書です」**


私は言った。


**「ここにあります。どこかに」**


私は、私たちの頭上、光の中へと伸びる棚を見上げた。閲覧室から枝分かれする廊下を見た。図書館の、広大で、生きている沈黙を見た。


キャルウィンは、私の隣に移動した。先程までの衝撃は、より静かなものへと、より目的的なものへと、落ち着いていた。


**「ならば、見つけましょう」**


彼女は、開かれた書物を見た。温かい羊皮紙を見た。夜明けの窓辺に光が集まるように、私たちの周りに集まる光を見た。


**「一緒に」**


彼女は言った。


そして、私たちが扉をくぐって以来、初めて、図書館の注意の重みが、移るのを感じた。見守る、ではなかった。


**探索が、始まった。**


---


私たちは、同じ水の中を流れる二つの流れのように、図書館の中を移動した。


キャルウィンは、左へ行った。棚の整然とした幾何学模様と、秩序の約束に引き寄せられて。彼女は、私が認識するようになった精密さで動いた。今は、ためらいはない。意図的だ。


私は、右へ行った。


それが論理的だからではない。何かが、その方向に私を引っ張ったからだ。空気の中の、温かさではない温かさ。光の中の、光とは言い切れない変化。図書館は、広大だった。その外殻から想像されるよりも、はるかに広大だった。廊下は、廊下へと続き、部屋は、部屋へと続いていた。しかし、そこには、方向性があった。静けさの下の、流れ。


私は、それに従った。


ここの棚は、入り口付近のものとは、違っていた。より古いか、あるいは、単により使われてきたか。その縁は、より柔らかく、何度も何度もこれらの書物に手を伸ばした手によって、木は磨り減っていた。私は、一つの棚の前で止まった。名状できない何かに引き寄せられて。背表紙を見た。まだ、解読不能で、まだ、見慣れないものだった。しかし、革は、触れると温かかった。保存の温かさではない。**抱えられていた**ものの温かさ。


私は、先へ進んだ。


背後で、キャルウィンの柔らかな足音が聞こえる。布のわずかな擦れる音。時折、何かをより注意深く調べるために、立ち止まる間。彼女は、独り言を言っていた。断片が聞こえる。私の知らない言語の単語。歩きながら、目録を作成する者の、呟くようなリズム。その音は、慰めだった。広大で、聴く沈黙の中の、小さな錨。


私たちは、話さなかった。私たちは、それを必要とする領域を、とっくに超えていたのかもしれない。あるいは、単に、言葉が空気には重すぎる場所に、到達したのかもしれない。だから、私たちは、静かに移動した。それぞれが、自身の流れの中で。それぞれが、自身を引き寄せるものに従って。


私は、地図で満たされた部屋を通り過ぎた。壁に留められた平面の地図ではない。別のものだ。見えない軸の周りをゆっくりと回転する球体。その表面は、見ている間に変化していた。見覚えのない大陸が、新しい構成へと漂流していく。光が、その深みに溜まっている。柔らかく、液状の。私は、しばらく立ち止まり、海岸線が形成され、溶解し、再び形成されるのを見ていた。そして、地図とは無関係な、より深い何かに、引っ張られているのを感じた。


私は、それらを回転させたままにした。


廊下は、狭くなり、そして広くなり、そして、私を立ち止まらせる空間へと開けた。


それは、閲覧室のように、円形だった。しかし、より小さく。より親密な。一つの棚が、壁に沿って腰の高さまで湾曲し、その上に、一冊の書物が置かれていた。ここの光は、異なっていた。より温かく、より集中して。まるで、図書館が、この一か所に注意を集め、そこに留め、待っているかのようだった。


私は、ゆっくりと近づいた。


その書物は、大きくはなかった。装飾も施されていない。その装丁は、暗い革で、縁は柔らかく擦り減っていた。棚の上に、閉じられたまま、置かれていた。待っている。背表紙に題名はない。私が読める印もない。しかし、私たちが図書館に入ってからずっと私を引っ張っていたあの温かさが、今、ここに、この小さな部屋に、この一冊の書物の周りに、集まっていた。


私は、それに手を伸ばさなかった。まだ。


背後で、キャルウィンの足音が近づくのが聞こえた。彼女も、それを感じたに違いない。空気の変化。光の集まり。彼女は、私の隣に立ち、その呼吸は静かに、その存在は、確かに。


私たちは、一緒に、その小さく、温かい部屋に立っていた。書物を見つめながら。


どちらも、話さなかった。


必要は、なかった。私たちの間の沈黙は、空虚ではなかった。それは、問いで満たされていた。驚嘆で。あらゆる空間を言葉で埋めなくても、共に働くことを学んだ者の間に育つ、静かな理解で。


---


書物は、あまりに容易に、手元へ来た。


私は、考えるより先に、それに手を伸ばしていた。背表紙に光が集まる、その様子に引き寄せられて。指が革に触れ、それは、棚から滑り出た。まるで、具体的に、私の手を待っていたかのように。抵抗はなかった。埃が舞うこともなかった。ただ、古びたページが、互いに擦れ合う、柔らかな囁き。それは、いつもそこにあったかのように、私の手に収まった。


私は、しばらく、それを抱いていた。その重みを感じながら。表紙は、滑らかで、暗く、題名も印もなかった。碑文もない。中に何があるかの、手がかりもない。ただ、私が決して知ることのない手によって、柔らかく擦り減った革。温度とは無関係の、温かさ。


私は、それを開いた。


中のページは、びっしりと、注意深い文字で埋められていた。何年もかけて、一文字一文字を書き込んだ写字生の、丹念な仕事。しかし、その文字は、**間違っていた**。単に見慣れない、というだけではない。**間違っていた**。私の目が追えない方法で、曲線を描いていた。同じ空間を占める複数の意味のように、互いに重なり合っていた。長く見つめすぎると、目の奥が痛んだ。ゆっくりと、しつこく、増していく圧力。まるで、静止を拒む形に、焦点を合わせようとするかのように。


私は、眉をひそめ、わずかに書物の角度を変えた。違う角度なら、はっきりするかもしれないと思って。


**「読めません」**


背後で、キャルウィンは、自分が調べている棚から、顔を上げなかった。その声は、穏やかで、遠くに漂ってくる。


**「読めなくて当然です」**


私は、振り返った。


**「……それは、安心しますね」**


**「現存するほとんどの言語より、古いのです」** 彼女は、まだ調べていた。指が、背表紙を、触れて目録を作成する者の、無目的な正確さで、動いている。**「神聖文字です。保存状態が本物なら、です。訓練された学者でさえ、断片を解釈するのがやっとです。文脈から。繰り返しから。比較構造から」** 間。**「流暢に読める者など、いません」**


私は、再び、ページを見下ろした。象徴が、再び、知覚の限界で、動いたように見えた。光の加減かもしれない。あるいは、別の何かかもしれない。


**「つまり、役に立たない」**


その言葉は、苦かった。


**「私たちにとっては?」**


キャルウィンは、ようやく振り返った。その淡い瞳は、私の手の中の書物に留まった。


**「ほとんど」**


私は、その答えが、好きではなかった。


指が、わずかにページに力を込めた。折り目をつけるほどではない。ただ、指の下の羊皮紙の質感を感じるために。**ほとんど**、ということは、方法があるということだ。方法があるはずだ。


私は、象徴を凝視した。私が理解できるものに、はっきりしてくれと、願いながら。それらは、はっきりしなかった。それらは、ただ、そこにあった。忍耐強く、解読不能なまま。私が到達できない秘密を抱えて。


*言語は、単なる記号ではない。*


その考えは、私の苛立ちのどこか深いところから、浮かび上がった。前の人生、サヤカの人生で、私は、言語の壁を越えて、人々がコミュニケーションをとるのを、何百回と見てきた。身振り。口調。言葉が間違っていても、文の形。意味には、構造がある。重みがある。文脈がある。言語を知らなくても、誰かが何を意味しているか理解できることは、常にある。


*音は、伝わる。言葉は、空気の中を移動する。意図を運ぶ、振動。意味には、ほとんど触れられるような、形がある。*


運ぶための、空気。


そして、それを安定させ、何かに固定するためには……


**「土」**


私は、呟いた。


キャルウィンの眉間のしわが、深くなる。


**「何です?」**


私は、答えなかった。考えは、速すぎて、調べる間もなく、断片が噛み合っていた。翻訳ではない。変換ではない。ただ……**理解**。言葉を知らなくても、歌を理解できるのと同じ。説明されなくても、表情を読めるのと同じ。


Gペンが、完全に召喚を決断する前に、私の指に滑り込んだ。見慣れた重さ。見慣れたハミング。私は、しゃがみ込み、先端を滑らかな床に当てた。


**「エルスベス……」**


円が、形成された。


完璧ではない。練習したもののようには。線は、私が描くにつれ、わずかに揺れた。頭は手より先に走り、今まで試みたことのないものを、形作ろうとしていた。意味を運ぶための、空気。それを固定するための、土。円の内側に、私は、第二の模様を重ねた。よりシンプルに。より粗く。投影するためではなく、**受信**するための構造。聞くための。


それが、機能するかどうか、わからなかった。それが、何なのかさえ、ほとんどわかっていなかった。


**「必要なのは」**


私は、キャルウィンに向けてというより、自分自身に呟いた。


**「これが、何を言おうとしているのか、理解することだけだ」**


最後の線が、閉じた。


一拍、何も起こらなかった。


そして、空気が、変わった。


かすかな風が、私の周りで動き、生き物とは思えない吐息のように、肌を撫でた。円の線が、不均一に輝いた。縁でちらつきながら、まるで、存在するべきかどうか、迷っているかのように。脈拍が、速まった。これは、私が知るものの限界だった。制御が擦り切れ、本能が取って代わる場所。


**「エルスベス」**


キャルウィンの声は、今や、より鋭く、私の集中を断ち切るように。


**「何をしているのですか?」**


私は、顔を上げなかった。


**「愚かなことです」**


そして、私は、それを起動した。


世界は、変わらなかった。書物は、変わらなかった。文字は、全く同じままだった。解読不能で、重層的で、苛立たしいほどに、静止した。心臓が、一瞬、落ちた。失敗の、吐き気を催すような、衝撃。


*……動かない。*


そして、何かが、**割れた**。


外ではなく。**内側で**。


意味が、氾濫した。


言葉ではない。文章ではない。言語ほど整然としたものではない。**概念**。**イメージ**。理解の断片が、一斉に私に押し寄せた。重なり合い、衝突し、速すぎて、追跡できない。**創造。虚空を裂く光。存在を形作る手。その間から見つめる、何か……**


息を呑んだ。視界がぼやけ、書物を握る手に、力が込もる。ページの文字が、**生きていた**。動き、蠢き、それぞれが、さらに多くの意味に解けていく、意味の塊。層の下の層。抱えきれないほどに。


**「待って……」**


私の声は、か細く、息を切らして。


**「待って……ゆっくり……お願い……」**


それは、止まらなかった。情報は、流れなかった。**氾濫した**。川から飲もうとするように。さらに、注ぎ込まれる。**神々。均衡。何か、名もなきもの。何か、創られざるもの。何か、それを創るべきではなかったものから生まれたもの……** 息が詰まる。その重みで、膝が折れそうになる。**「多すぎる……」**


意味は、整然としていなかった。次々と現れるのではない。それらは、全て、**同時に存在していた**。重層的に。あまりに多くの声が、同じ瞬間に話すように、私の思考に押し寄せる。分離できない。保持できない。流れ込むのを、止められない。


その時……


別の断片が、浮かび上がった。


より重く。より鋭く。それは、刃のように、雑音を切り裂いた。


**杯。きらめく液体。魂。飲むこと。忘却。**


固まった。


**「……忘却?」**


言葉が、止められずに、私から零れた。


その概念は、他の何よりも、深く突き刺さった。抽象的ではない。遠くのものではない。**個人的**だった。死の記憶。サヤカの心臓が止まる。世界が、砂嵐に消える。そして、ここで、目覚める。私のものではない身体で。存在するはずのない世界で。


**全ての魂は、……**


目の奥に、痛みが走った。魔法陣が、激しく揺らめいた。足下の円が、鋭く、脆い音を立てて、ひび割れた。光の線が、外側へと飛散する。息が、速くなる。不均一に。視界の端が、灰色に変わる。


**「止まれ……止まれ……!」**


Gペンを、線の一本に、引きずった。


円が、砕けた。


魔法は、瞬時に崩壊した。目の奥の圧力が、あまりに突然に消え、私は、倒れそうになった。沈黙が、戻ってきた。厚く、重く。図書館の静かな存在感が、四方八方から押し寄せる。


私は、よろめき、最寄りの棚に、片手をついて、体を支えた。書物は、手から落ちそうになったが、持ちこたえた。指は、擦り切れた革の表紙の周りで、震えている。しばらく、考えることができなかった。うまく息ができなかった。経験したばかりのものを、自分の思考から、分離することができなかった。断片は、まだ、頭のどこかで回っていた。完全には消えない、反響のように。


そして、ゆっくりと、それらは、静まっていった。


消えたのではない。決して、消えない。ただ……より静かになった。夢の記憶が、意識の縁に消え、はっきりとは表現できないが、否定もできない印象を残すように。


私は、再び、ページを見下ろした。


文字は、まだ、解読不能だった。全く、変わっていない。同じ、不可能な象徴。同じ、重層的な曲線。同じ、忍耐強い沈黙。


しかし、今……


今、私は、**知っていた**。


全てではない。明確には、ではない。断片は、散らばり、不完全で、直線的な理解では整理できない方法で、重なり合っていた。しかし、私は、それらの**形**を、感じることができた。その**重み**。私の理解の限界に、押し寄せる、はるかに巨大な何かの、縁を。


私の声は、囁きとなった。


**「どうして……魂は、忘れなければならないの……?」**


キャルウィンは、私の隣にいた。彼女が動く音は、聞こえなかった。彼女の手は、私の肘の近くで、宙に浮いていた。触れていない。まるで、私が接触に耐えられるか、確信が持てないかのように。


**「あなたは、何をしたのですか?」**


その声は、低く、抑制されていた。しかし、その下に、何かがあった。恐怖、とは、違う。誰もが触れられないと信じてきたものに、誰かが触れるのを見る者の、畏怖に、より近い。


私は、顔を上げなかった。書物を握る手に、わずかに力を込める。その確かな、革の重みに、自分を固定する。


**「読みませんでした」**


私は、ようやく言った。言葉は、薄く、不十分に感じられた。しかし、それが、私が持つ唯一の真実だった。


息を吸う。吐く。


**「……見せられました」**


---


息を整えていると、キャルウィンの声が、どこか前方から、漂ってきた。


**「エルスベス」**


顔を上げた。


彼女は、私が気づかなかった部屋の、最奥に立っていた。壁は、内側に湾曲し、視線を中心へと引き寄せる。


中心に、向かって。


**書物**が、そこにあった。


暗い石の台座の上に、閉じられて、待っている。部屋は、そのために建てられていた。あらゆる建築の線。あらゆる棚。あらゆる光の筋。全てが、その一点に収束している。


キャルウィンが、より近づいた。彼女の手が、表紙の上で、宙に浮く。そして、彼女は、それに触れた。


何も起こらなかった。光も。温もりも。全く、反応がなかった。


彼女は、長い間、そこに立っていた。その指は、石のように動かない革に、置かれたまま。


そして、彼女は、手を引いた。


彼女が、私を振り返った時、その表情は、失望ではなかった。


それは、**確信**だった。


**「これは、決して、私のためにあったのではない」**


私は、立ち上がった。


だが、その下から、何か別のものが、立ち上がってきていた。


**引力。**


論理ではない。好奇心ではない。


Gペンに手を伸ばす時と同じ感覚。そこに何かがあり、握られるのを待っているという、同じ確信。


私は、魔道書に向かって動いた。


最初は、ゆっくりと。そして、着実に。そして、確かに。


私は、ためらわなかった。手を伸ばした。


指が、表紙に触れた。


**世界が、終わった。**

魔道書を手にしたエルスベス。

次に何が起こるのか...


次回、同じ時間に、同じ場所で。

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