第十五章: クロックワーク・コスモス.
仕事が忙しくなるため、先に次話を投稿しておきます。
次の更新は来週の金曜日の予定です。
ご理解いただけますと幸いです。
稽古の最中、いつものように無意識で描いていた魔法陣の仕組みを、妖精王は唐突に、まるで天気でも教えるように説明しはじめた。
**「よく聞け、エルスベス。お前が魔法を極めたいのなら、この機構を理解しなければならない」**
彼の、星を宿した瞳が私を捕らえる。
**「それは決して、ただの装飾ではない。力そのものが息づく、生きた機構だ」**
息が止まった。
図は美しく、そして圧倒的だった。大きな外円。その内側に、等間隔に配置された七つの精緻で唯一無二の刻印。そのうちの六つは、骨の髄まで知っていた。**火、水、土、風、光、闇**。残る一つだけ、名を知らない。
けれど、それらはただの記号ではなかった。
歯車だった。噛み合い、世界を動かす機構。私が理解しようがしまいが、お構いなしに回り続ける宇宙そのものだった。
**「ここを見よ」**
彼は続けた。かすかな光が、円の最上部、第七の座を照らし出す。
**「これが『起動座』。力が顕現する玉座だ。今は風の刻印がこの座についている。風が此処に在る時、風はお前の意志に応える。風はお前に跪く」**
彼の指――いや、指の形をした光が、円周を時計回りに辿る。
**「だが、輪は静止しない。回るのだ。古の金庫の、錠前の歯車のように。お前が回転を発動させれば、風の刻印は消えはしない。此処へ移る。三番目の座へ」**
図の中で、風の刻印がきらめき、円周を滑るように新たな位置へ移動した。
**「一方、六番目の座にあった刻印――例えば水――は、第七の座へと昇り、お前の起動魔法となる」**
私は見入っていた。図はゆっくりと、意図的に、自ら回転を始めた。七つ全ての刻印が、完璧な調和のもと、定められた軌道を滑る。
**「一回転ごとに、七つの力は全て、その軌跡に沿って座を移す」**
彼の声は、宇宙の掟を唱える低い詠唱だった。
**「一回、二回、七回――それぞれの回転が、異なる原初の力を最前線へと招く」**
彼は、輪の中心を貫く太い斜線を指した。外円の正反対の二点を結ぶ、軸。
**「これが『固定梁』。輪が回転するための軸だ。お前の意思を、回転へと変換する」**
**「エルスベス」**
ようやく彼は、図から私へと視線を移した。
**「これは、単なる魔法の切り替えではない。リアルタイムで、お前の魔法そのものの権能を編み直すということだ。蝋燭に火を灯すことと、燃焼という概念そのものを統べることの、その差だ」**
ついさっきまで感じていた、あの温かい充足感。完璧な円。途切れない光。それらは急速に冷めていき、代わりに、背筋が凍るような、戦慄にも似た興奮が這い上がった。
ようやく歩き方を覚えたばかりなのに。
彼は今、宇宙船の設計図を目の前に広げている。
私と彼の間に、あのシンプルな封筒と、その中にあるはずの不可能な図面が、宙に浮かんでいる。
一年かけて描いてきた私の円は、まるでアルファベットだった。
これは、言語そのものだ。
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それからの数日間、輪が私の思考を支配した。
ただ円を描くだけじゃない。動く機構として、その脈動を感じる練習をした。
ペンの下で、円はひと息に、流れるように生まれた。三つの輪。完全な同心円。それぞれが淀みない共振を紡ぐ。
中央に、月相模様が咲く――鮮やかに、澄んで、もうそれは驚きではなく、紛れもなく私自身の署名だった。
維持する。十秒。二十秒。三十秒。光は揺るがない。意志は微動だにしない。
そっと息を吐き、解放する。輪は、温水に溶ける砂糖のように消えていった。その光は、尖塔の練習室に漂う淡い残光へと還る。
**「良くなった」**
窓辺に立つ妖精王が、そう言った。
称賛、では、なかった。承認。それが、私たちの進捗を測る通貨だった。
再びペンを呼び寄せる。今やその接続は一瞬で、努力さえ要らない――生まれた時からあったのに、使い方を知らなかった筋肉を、ようやく動かせるようになったみたいに。
新たな円を描く。今度は意志を込めて。**温もり。光。優しい守り。**
即座に円は起動した。金白色の光が、柔らかな波となって広がり、部屋中を夏の午後のような、心地良い暖かさで満たす。
単純な魔法だ。今の私なら、何時間でも維持できる。
**「良い」**
彼は言った。そして、ほんの僅かに――もしかすると、満足、と呼べるかもしれないものを含ませて。
**「遠くまで来たな、小さな火花」**
その時、尖塔に静けさが訪れた。時の外に在る場所にふさわしい、深く、唸るような静寂。
門をくぐってから、もう一年以上が経っていた。
円を描き、消し、破裂する失敗と、澄んで鳴る成功を重ねて、一年。
かつて漫画のパネルしか描けなかったペンで、火、水、土、風を操る術を学んで、一年。
密やかな時間に、あのスパイの死の重みを抱えながら、それでも強くなってきた、一年。
コントロールを。確信を。
Gペンは、いつもの温もりを残して胸へと溶け消えた。さて、今日の次の稽古は何だろう――そう尋ねようと、私は振り返った。
……足が止まった。
彼が、何かを手にしていた。
封筒。
シンプルだ。ありふれている。クリーム色の、あまりに日常的な紙が、彼の星屑を散りばめた衣にはひどく不釣り合いに見えた。
その光景は、どんな浮遊する水晶や歌声を上げる川よりも、はるかに衝撃的だった。
**「届いた」**
彼の声は、今まで聞いたどの時よりも、柔らかかった。
彼は私に手渡さなかった。代わりに、封筒を宙に掲げると、紙は自ら折れ曲がりを解き、私たちの間に浮かんだ。
その表面に描かれていたのは、手紙ではなかった。
複雑で、息を呑むほど美しい、一枚の図。
**輪**だった。
私は封筒を見つめた。まるで、異世界の遺物であるかのように。
――いや、まさにその通りだった。
**「……どうやって?」**
声にならなかった。かすかな、吐息だけ。
**「お前が来る前に、両親に伝えておいた。距離を超える紙の簡易魔法だ。彼らが書けば、私の元へ届く。私がお前に渡す」**
彼は、それを差し出した。
私は気づいた。彼の手が、ほんの僅かに震えていることに。
弱さからじゃない。
彼が運んでいるものの、重さからだ。
故郷からの知らせ。
一年ぶりの、音信。
私は、確かでない手で封筒を受け取った。
宛名は、母の几帳面な文字だった。
**『どこにいても、私たちのエルスベスへ』**
胸の奥で、何かが割れた。
痛くはない。春の川で、氷が砕ける音だった。
**「……読んでいる間は、一人にしてやろう」**
妖精王は、静かに言った。
そして、私が何か言う間もなく、彼は消えた。姿を消す、というよりは――光の中へ溶け、もはや区別がつかなくなった。
私は、手紙と二人きりだった。
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すぐに封は、切れなかった。
私はそれを練習室から、小さな水晶の小部屋――私の居住区――へと運んだ。寝台の代わりの岩棚に座る。膝の上で、封筒はひたすら白く、凡庸で、脆い。
尖塔の永遠の薄明が、窓の外で光っている。
どれだけそうしていたか。
やがて、息を、ずっと溜めていたことに気づいた。
息を吸い込み、封を切った。
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**──最愛のエルスベスへ**
**この手紙が、本当にあなたに届くのか、わたしにはわかりません。妖精王さまは届けると言ってくださいましたが、この手紙の使い方はあまりに奇妙で、お父さんもあなたの兄さんも、まるで魔法の品物を見るような顔をしていました。**
**それでも、わたしは書きます。母は、試してみるしかないのですから。**
(……試す。ただそれだけの、シンプルな決意。その一文で、目が灼けるように熱くなった)
**あなたが家を出てから、ひと月が経ちました。**
**あなたのいない部屋で朝を迎えるのは、今日で三十回目です。**
**食卓には、四人分の席を並べてしまい、三人で向き合う違和感に、いまだに慣れません。**
**お父さんは鍛冶場に立ちながら、あなたが昔、兄さんの作業を見ていた場所を、じっと見つめては、ため息をついています。**
(ひと月――その言葉は、鈍器で胸を打たれた衝撃だった。彼らにとってはひと月。私にとっては、一年以上。肋骨の裏側に、鋭く、物理的な痛みが走る。喉が締め付けられ、視界が歪む。何度も瞬きをしなければ、文字が読めなかった)
**ちゃんと、ごはんは食べていますか。**
**ヴィルヘルムは、毎日あなたの話をしています。**
**村は……変わりました。**
**まだ、噂をする者も、指をさす者も、います。**
**でも、マルタ――覚えていますか、パン屋の妻だったマルタさん――彼女は、聞く人すべてにこう言ってくれているんです。『あの子は、私の息子を救った。あの子は、呪いなんかじゃない。祝福だ』って。**
(あの、かすかな温もりが、痛みを貫いた。マルタ。粉まみれのエプロン。息を引き取るかと思われた我が子を抱く、あの恐怖に染まった瞳。まさか、こんな遠くで――思いもよらぬ場所からの、あの小さく、それでいて熾烈な庇護が、異界に流される私へ、確かに投げ渡された命綱のように感じられた)
**まだ、十分じゃないけれど。**
**でも、ほんの少しだけ、変わり始めているんです。**
**エルスベス、あなたが無事でいることを、祈っています。**
**あなたが、学ぶべきことを、しっかり学べていますように。**
**それから――あなたが帰ってくるその日まで、決して忘れないでほしい。**
**あなたは、愛されている。何ができるから、じゃない。あなたが、そこにいる、ただそれだけで、愛されている。**
(嗚咽が、喉に詰まった。**何ができるから、じゃない**。一年間、ただその力だけを評価され、磨き続けてきた私に、その言葉は、必要とさえ気づかなかった救いだった)
**お父さんが、『誇りに思う』と伝えてくれと言っています。**
**ヴィルヘルムが、『席は温めておく』と言っています。**
**そして、わたしは――毎晩、眠る前に、あなたの部屋の窓辺に立ち、森の方を見つめて、こう呟きます。**
**『無事で、帰っておいで』。**
**妖精王さまの言うことを、ちゃんと聞いて、良い子にしているのですよ。**
**――今日は、このへんで筆を置きます。**
(その光景は、あまりに鮮明だった。窓から香る、あの松の匂い。床板に落ちる月光。そして、尖塔を吹き抜ける風に乗って、確かに、今、母のささやきが聞こえた)
**あなたを、愛しています。**
**あなたを、恋しく思っています。**
**ずっと、待っています。**
**母より**
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私はそれを、三度読んだ。四度目を数える頃には、紙は、気づかぬうちに溢れていた涙で、ところどころ濡れてふやけていた。
そのまま、涙を拭わなかった。
尖塔には、それを見る者はいない。強くあろうと、気張る必要もない。
私は泣いた。
彼らが耐えた、たったひと月の時間。
私が生きてきた、十四ヶ月の隔たり。
私たちの間に横たわる、埋めがたい時の溝。
私は、現実そのものを書き換える魔法を学んでいる。意思ひとつで火も水も呼び寄せられる。癒し、守り、変容させる円を描ける。
なのに。
彼らの時と、私の時との、その距離だけは、埋められなかった。
――私は無事です。ちゃんと学んでいます。あなたたちが私に託したものに、いつか応えられるような人間に、私はなろうとしています。
それさえ、伝えられなかった。
私にできるのは、ただこの手紙を――この、世界と世界を繋ぐ、脆い紙の橋を――胸に押し当てて、美しくも空虚なこの部屋に、約束をすることだけだった。
**――帰る。必ず、この選択を、無駄にしない。**
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翌日、妖精王が私を見つけた。
指先で、ぼんやりと、光の形を宙に描いている私のもとへ。
**「エルスベス。――大丈夫か」**
それは、優しい、静かな侵入だった。
**「……はい」**
言って、それが、ほとんど真実であることに気づいた。悲しみは、沈んでいた。他の重みと並び、そこにある、というだけ。
**「手紙、ありがとうございました」**
**「……深く愛されているな」**
**「はい」**
手を重ねる。
**「彼らには、ひと月。私には、十四ヶ月」**
**「ああ。時間のずれは……難しい。だが、必要だったのだ」**
彼は言いかけて、止まった。
**「お前には、学ぶ時間が必要だった。彼らには、お前が……その、変わり果てる前に、帰す必要があった」**
**「変わり果てる?」**
**「……距離が、埋められなくなる前に」**
私は、うなずいた。
わかった。
**「……私の修行は、終わったのですか」**
問いは、迷いながら、こぼれ落ちた。
**「もう、家に、帰れるのですか」**
彼の表情が、わずかに変わった。
悲しみ、というのとは、少し違う。
もっと、こう――**覚悟**、に近い何か。
**「……来なさい」**
彼は言った。
**「お前の修行が、まだ続く前に――見ておくべきものがある」**
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彼が連れて行ったのは、尖塔の主なき大広間ではなかった。
もっと、小さな、内密な空間。壁は、乳白色ではなく、完全に透き通った水晶。向こう側には、この異界の、およそ現実とは思えない風景が、細部まではっきりと見えている。
部屋の中心で、銀色の光の縦長の楕円が、たゆたっていた。
門だ。
私がくぐった、あの大樹を飲み込むような壮大さはない。もっと、小さい。もっと、制御されている。抑えられた力で、静かに、そこに在った。
**「……人間界へ?」**
心臓が、跳ねた。
**「一時的に、な。見るだけだ。留まるのではない」**
**「では、修行は、まだ終わらない」**
**「終わりなど、はるか先だ、小さな火花よ」**
その声音は、優しかったが、揺るぎなかった。
**「お前が尖塔で学んできたものは、基礎だ。文法だ。言葉を紡ぐための、構造。しかし、創造を真に極めるには、その応用を学ばねばならない。その目的を。その代償を」**
彼は門を指し示した。
**「――お先に」**
私は、踏み出した。
---
移行は、かつてよりはるかに滑らかだった。
あの、暴力的な置換ではない。
ただ、優しく、片方の世界から、もう片方へと、足を運ぶ。
明るい部屋から、陰りへと出るように。
そして……
空気。
**本物の、空気。**
尖塔の、水晶の完璧さではない。混ざり合い、複雑に絡み合った、人間界の大気。煙、パン、馬糞、松脂――数え切れないほどの、懐かしい匂いが、一斉に押し寄せた。
足裏に、土。苔じゃない。水晶じゃない。ただの、土。確かな、固い、ありきたりで、でも、どうしようもなく**普通**の。
目を開けた。
私たちは、街はずれに立っていた。
私の村じゃない。もっと、大きい。石造りの建物は三階、四階と高く伸び、石畳の道が複雑に絡み合う。広場や路地を、人、人、人――数十、いや、数百もの人々が、それぞれの日常を歩いている。
妖精王は私の横で、旅人の姿に身をやつしていた。シンプルな茶のマント。特徴のない顔立ち。しかし、その瞳だけは――あまりに深く、あまりに多くを知るその目だけは、彼が何者であるかを、隠しきれずにいた。
**「……ここは?」**
**「レオクセイオン。お前の村から、馬車で三日の交易都市だ」**
私たちは歩き始めた。人の流れに、ただ、溶け込むように。
騒音は、交響曲だった。叫び声、笑い声、荷車の軋み、犬の遠吠え。圧倒的だった。そして、それは――素晴らしかった。
彼は、不意に立ち止まった。
私は、その視線を追った。
一人の女と、小さな娘が、手を繋いで、私たちの前を通り過ぎていった。
娘は、四つか五つ。黒い髪を、二つに乱雑に結び、頬には、ジャムと思しき汚れ。
しかし、私の目を奪ったのは、娘ではなかった。
**人形。**
少女の空いた手に、それは、しっかりと抱かれていた。長く愛した証に、布の身体は擦り切れ、しかし、丁寧に繕われている。シンプルな造り。黒いボタンの目。刺繍の笑顔。かつては青かったのだろう、今は灰色に褪せたドレス。
少女はそれを胸の奥にぎゅっと押し当て、母親――彼女は優しく微笑み、娘の髪をくしゃりと撫でた――と共に、人混みへと消えた。
私は、石畳の上に、立ち尽くした。
そして、突然、私は、二歳だった。
(――記憶。三歳の、エルスベスじゃない。もっと深く。もっと遠く。)
能力の選別の、ずっと前。
誰も私と遊んでくれなくなる、その、ずっと前。
私には、**人形**がいた。
名前は……もう、思い出せない。でも、その顔は覚えている。丸く、柔らかく、ボタンの目は、無表情ではなく**嬉しそう**だと、幼い私は、固く信じていた。
どこへ行くにも、連れて歩いた。市場。鍛冶場。そして、毎晩、必ず、一緒に寝た。
母が、作ってくれた。母の古着の切れ端を縫い合わせて。ドレスは青だった――私のお気に入りのリボンの、あの色と同じ青。いつか川に落としてしまい、何日も泣き続けた。
覚えている。
家の戸口に座って、膝の上で人形に話しかけていた。冒険物語を作っては、彼女は勇敢で、私は勇敢で、私たちは決して独りじゃないと言い聞かせていた。
そして、ある時――昨日のことのように、鮮明に見える――
私は人形を抱きしめ、布の耳元で、ささやいた。
**「大丈夫。あなたは、独りじゃない」**
母は、ただの幼児の喃語だと思って、微笑んでいた。
だって、二歳の私にも、もう、自分が何か**違う**ことは、わかっていたから。後に、決定的な地殻変動となって、私を完全に孤立させるであろう、その予兆を、感じていたから。
だから、私は人形に――そして、自分自身に――約束したのだ。
**私たちは、絶対に独りにならない**、と。
記憶は、融けた。
私はレオクセイオンにいた。街の音が、一気に戻ってくる。
妖精王の手が、そっと、私の肩に触れた。
**「……大丈夫か」**
私は、うなずいた。声は、出なかった。
人形のこと、忘れていた。あの約束も。
(――彼女は、今、どこに?)
**「時として」**
妖精王は、私の心を読むように、静かに言った。
**「我々は、その真の重みを知らずに、約束を交わす。そして、幾年か経ち、その約束を思い出すよう、呼び起こされるのだ」**
彼は、私に沈黙を与えた。記憶と、街の喧騒とが、私の中で共存するまで、しばらく、歩き続けた。
そして、彼は優しく、私を街の中心へと導いた。
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冒険者ギルドは、酒場のふりをした要塞のように、そこにそびえていた。
三階建ての、風化した石造り。鉄の帯で補強され、表通りにまで溢れ出した喧騒の戦い跡と思しき傷跡が、壁中に刻まれている。
扉の上には看板。剣と杖が交差し、様式化された炎がそれを取り巻く。
窓の向こうには、動く影。甲冑の光。武器の煌めき。歓声か、口論か、判別できない大声。
妖精王は広場の向こう側で立ち止まった。旅人の姿は、群衆に完璧に溶け込み、一切の違和感がない。
**「ここだ」**
彼は建物に向けて、顎をしゃくった。
**「お前の、次の段階の修行は、此処で行われる」**
私は、凝視した。
**「……冒険者ギルド? 私を、冒険者に……?」**
**「お前には経験が必要だ。尖塔は理論と技術、制御を教えた。しかし、理論は、応用なくして、ただの学問に過ぎない」**
彼は、疲れ果てた様子の戦士二人が、肩で息をしながら扉をくぐるのを見送った。
**「お前は、世界の中で、その力を使うことを学ばねばならない。管理された環境ではない、現実を」**
**「つまり……依頼を受けて、クエストに?」**
**「それだけではない。旅をするだろう。完璧な円と、澄明な瞑想だけでは、解決できない障害に、何度も直面するだろう」**
彼は、完全に私に向き直った。
**「お前は、描くことを覚えた。今度は、創造することを覚えろ」**
ギルドの扉を、どっと陽気な集団が飛び出してきた。泥沼にでも浸かったのか、一人は全身泥だらけで、別の男は、見事な青あざを作って、それでも大笑いしている。
期待と、不安とが、胃の腑でごちゃ混ぜになった。
**「いつから、始めるのですか」**
**「まだだ。尖塔で、お前はさらに基礎を固めなければならない。そして、何よりも――始める前に、必ず手に入れておかねばならぬものが、一つある。だが、もうすぐだ。彼らの時間で、一年以内」**
**「では、今のは……」**
**「予告だ」**
彼は言った。
**「そして、警告だ。お前がここまで成してきたことは、すべて準備に過ぎない。次に来るものが、その準備が十分であったかどうかを、試すだろう」**
私たちは、長い間、黙って立っていた。
混沌としたエネルギーが、ギルドを流れ込み、流れ出ていくのを、ただ、見つめながら。
**「修行は、まだ終わらない」**
妖精王は、繰り返した。その声は、低く。
**「だが、それが終わる時……此処が、お前の本当の仕事の始まりだ」**
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門は、かすかな風の囁きと共に、背後で閉じた。
私たちは再び、尖塔の小さな部屋に立っていた。人間界は、銀色の光の向こうに、封じられた。
でも、まだ、匂いは、忘れられない。
パンと煙と馬糞と――命の、匂い。
まだ、目に焼きついている。
ギルドの、傷だらけの壁。
そして、手のひらには、擦り切れた人形の感触が、まだ、幽かに残っている。
私は、胸元に触れた。母の手紙が、まだ、そこにある。
**彼らにとっては、ひと月。**
**私にとっては、十四ヶ月。**
妖精王の声が、静寂を破った。
**「明日から、属性の複合を始める。火と水の同時制御。土と風。相反する力を釣り合い、複雑な魔法を編み出す技術だ」**
私は、今はもう輝きを失った門から、彼へと向き直った。
悲しみ。記憶。そして、目の前に広がる、果てしない道のり。
それらすべてが、溶け合い、一つに凝縮されて――ただ、**決意**となった。
**「――準備は、できています」**
私は、言った。
そして、初めて、その言葉の、本当の重さを、理解した。
**――本当に、準備ができる、ということの意味を。**




