正しい書物のつくりかた
シリーズ15万部突破記念SS。
Twitter企画として投稿したものを再録しました。
【執筆/慧月】
ある穏やかな夏の日。
「こちらの書物を親民礼で売ろうと思っているのですが、試しに読んでみていただけませんか、慧月様」
黄 玲琳にそう切り出された朱 慧月は、目を瞬かせた。
今日もまた、黄 玲琳が突飛なことを言い出したからだ。
親民礼とは、雛女たちが年に一度、後宮の門前で民に施しを行う儀のことだ。
手作りの菓子や装飾品を格安で民に振る舞うとともに、その売上を本宮へと献上するのである。
「書物? そりゃ、民とは言っても、実際門前に集まるのは通行を許された王都の者なのだから、字は読めるのでしょうけど……。書物を転売するだけなんて、少し手を抜きすぎなのではない?」
慧月が眉を顰めたのは、どれだけ見事な品を用意できたかによって、雛女の評価が左右されるからだ。
もちろん、雛女本人が優れた品を用意するのが望ましく、女官任せにしたのでは非難される。
なので、まさか雛女の手本とされる玲琳が、そんな「手抜き」をするとはと驚いたのだった。
だが、玲琳は「あら」と目を見開くと、鈴を鳴らすような声で笑った。
「違いますわ、慧月様。書物を、自分で作って売るのです」
「は?」
「ですので、自身で執筆し、版を起こし、製本するのですわ」
これはその初稿なのです、と、紙の束を掲げてみせた玲琳に、慧月はぽかんとした。
書道は雛女のたしなみとはいえ、自ら出版する雛女など見たことがない。
「あ……あなたが書いたというの!?」
「ええ。仮題を『百薬毒抄』としておりまして。薬や毒となる動植物を集め、図説したものなのです」
叫ぶ慧月をよそに、玲琳はおっとりと初稿をめくる。
そこには、精緻な筆致で、様々な動植物の絵と、簡潔な説明が記載されていた。
「絵はすべて、このあと銅板にわたくしが刻みますのよ。組版の負担を減らしたいので、説明文のほうはなるべく短くしたいのですが、どこを削るかが悩ましくて……」
だから初見の人間に確認してもらいたいのだ、と言われたが、慧月は突き付けられた原稿の質の高さに、目が眩む思いだった。
薬草は丁寧に近隣種との違いが解説され、虫毒の仕組みまで図説されている。読めばこれだけで医官になれそうだ。
(せいぜい手慰みの品しか期待されていないだろう親民礼で、こんな、民の文化水準を本気で上げにかかる品を用意してくるなんて!)
慧月はしばし、息を詰めて原稿を読み込んでいたが、やがてあることに気付いてふと真顔になった。
どの薬草にも、果ては毒を持つ獣や虫にまで、毎回「おいしい」だとか「あまりおいしくない」といった注釈が付いていたのである。
「……真っ先に削るべき場所を見つけたのだけど」
「えっ!どこですか!?」
「試食の感想に決まってるでしょう! というかあなた、この虫や、この珍獣のことまで食べたわけ!?」
おぞましい害虫や、魔獣の類いと信じられている獣を指さして問うと、玲琳は照れたように「ええ」と頷いてきたので、慧月はのけぞった。
(なに食物連鎖の頂点みたいな顔をしているの!?)
いや、頂点なのか。
この女は雛女の頂点を飛び越して、捕食者の頂点なのか。
それにしたって、ときどき「血抜き・塩ゆでしたのち味噌に漬けて三年寝かせれば食用可。とてもおいしい」だとか「皮を剥ぐと身はほとんどない。怒りを覚える」、「なにをしても食べられない! 強い怒りを覚える」などの記載に遭遇するあたり、食への執念が強すぎである。
特に、芋は「芽に毒がある」という情報だけで十分だろうに、お勧めの調理法や味付けが事細かに記され、重すぎる芋愛の片鱗を窺わせていた。
「余計な情報が多すぎる。全面改稿ね。特に芋のくだり」
「ええっ」
そんな、と悲壮な顔をした玲琳に、なんとも意地の悪い満足感が込み上げる。
「ですが、ものすごく重要な情報だと思いますのに。わたくし、自分の判断に自信が持てなくなってまいりました……」
「ふん、仕方ないわね。わたくしがあと数日付き合って、指導して差し上げる。代わりにあなたは、わたくしが香り袋を刺繍するのを手伝うのよ」
意気消沈したのに付け込んで、不平等な取り決めを持ちかけると、玲琳はぱっと顔を輝かせた。
「そのようなことでよいのですか? 喜んで!」
その、どこまでも純真な、美しい笑み。
(……ふん。利用されていることにも気付かずに。馬鹿な女だこと)
咄嗟に、内心で毒づいてみせる。
やはり黄 玲琳は、嫌味で、箱入りで、どうしようもなく愚かな女なのだ。
だから――これから数日、空き時間をともに過ごすなんて、苦行でしかない。そのはずなのだ。
「しょうのない人ね、あなたって」
慧月は、堪えきれず緩んでしまった己の口角を隠すように、窓の外へと顔を背けた。
「あ、ほつれていますね。玉結びからやり直しましょう」
「色糸、もう少し増やしませんか?」
「柄ももっと複雑にしましょう。大丈夫大丈夫、いけます」
実際問題、黄 玲琳による刺繍指導が純粋に厳しい苦行でしかなかったと慧月が知るのは、もう少し先の話。
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【校正/冬雪】
「ああ、とうとう校正が上がってまいりました!」
「おめでとうございます」
上機嫌に紙の束を抱きしめた黄 玲琳のことを、筆頭女官・冬雪は、慈しみを込めて見つめた。
親民礼で自作の書物を販売すると決めてから、この主人は鍛錬のための時間を割き、一生懸命執筆に取り組んできたのである。
その甲斐あって、内容は簡潔でありながら一層充実度を増し、女官や職人たち総出で何度も確認したために、組版作業も実に滑らかに進んだ。
あとは、校正と呼ばれる試し刷りを確認し、本格的な印刷に進む――つまり校了するだけ。
そうなってしまえば、ようやく黄麒宮に平穏が訪れる。
(あと少しで、いつもの鍛錬に戻っていただける。まったく、朱 慧月め、余計なことをしてくれたものだ)
ねぎらいの茶を用意しながら、冬雪は内心でそんなことを思い、毒づいた。
それというのも、せっかく玲琳がすんなりと初稿を書き上げたというのに、朱 慧月が「余計な情報が多すぎる」と指摘したせいで、この勤勉な主人は全面改稿を始めてしまったからである。
勢いのあった初稿とは反対に、一筆一筆を悩みながら削るのには時間が掛かり、結局冬雪は、かれこれ二週間近くも、玲琳と手合わせができていなかった。
「ねえ、冬雪。あなたが嫌でなければ、一緒に校正原稿の確認をしてくれませんか?」
とそこに、玲琳が穏やかに申し出てくる。
「ここまでずっと、ともに編集してくれたのですもの。この書物は、わたくしとあなたの、言わば共作ですわ」
その言葉には、相手への深い信頼が滲み出ていて、それは冬雪の心を一気に舞い上がらせた。
「もちろんでございます」
いそいそと校正原稿を受け取り、畏れ多くも文机を並べた冬雪は、かっと目を見開き、この世のあらゆる罪悪をあぶり出すような強い気持ちで、誤字脱字を探索した。
誤字脱字。やつらはどれだけ目を凝らして、叩き潰しても、頁の隙間でしぶとく生き延びる。本当に怒りを覚える。
いつも誤字脱字が多くてすみません。
さて、今回については、職人の腕もよかったのだろう。
奇跡的に誤字も脱字も見つからず、冬雪は驚き感心していたが、そのときふと、隣の玲琳が「あ……」と声を漏らした。
「誤字ではないのですが、この白無垢華の記述……。間違った情報に、なってしまっていますね」
見れば、主人の細い指は、根に薬効を持つ芍薬の近縁種を指さしていた。南西部にのみ咲く花、との記述がある。
「執筆時点では、詠国の南西部にしか咲かないと思っていたのですが、実際には、そこから株を持ち帰った玄家が離宮で栽培し、今では南西部以上に多く咲いているらしく……」
どうやら玲琳は、最近になって、新たな情報を仕入れてしまったらしい。
「この一文を削る……と、全体の行組がずれてしまいますね。かといって空白にしては、違和感が大きい。どうしましょう、このまま目を瞑ってしまうべきか……」
「修正しましょう」
悩む主人に、冬雪はきっぱりと申し出た。
途端に、玲琳ははっと背筋を伸ばし、ばつが悪そうな表情を浮かべる。
「そうですね。黄家の女ともあろう者が、不誠実な態度を取るところでした。ここは、同程度の文字数で収まる差し替えの文章を考えて――」
「いえ、玄家の離宮を燃やしましょう」
「えっ」
「記載に合わせて事実を修正すればよいのです」
冬雪からすれば当然の発想だ。
これ以上主人の校正作業を長引かせるくらいなら、白ぶくれの花などさっさと根絶してしまえばいい。
なに、玄家の者に花を愛でる心などありはしない。
戦ごとを好む彼らには、離宮に花より焦土が広がっていたほうが、よほど心が安らぐはずだ。
「玄家離宮への抜け道はわたくしが存じております。下手人が割れるような不手際は起こしませんので、ご安心を」
「冬雪」
「燃え移りが心配のようなら、毒を撒くという手も」
「冬雪」
ごく真面目に対策を述べていると、主人の笑みがどんどん深まってゆく。
喜んでもらえたのだろうか、と冬雪もほほえみ返そうとしたそのとき、
「冬雪。今から半日、あなたと話すことをやめます」
衝撃的な言葉を告げられ、冬雪は固まった。
「え……?」
あの、と話しかけても、玲琳は優しい笑みを浮かべたまま、なにも言葉を返してくれない。
「……このぶんだと、冬雪に見逃されてきた誤情報は、かなりの数に上りそうですね」
聡明な主人は物憂げに溜息をつき、さらに恐るべきことを呟いた。
「仕方ありません。朱駒宮の蔵に泊まり込んで、慧月様にご確認いただきましょう」
「な……!」
せっかく、あの傲慢雛女から離れてくれたと思ったのに。
冬雪は平身低頭して前言を撤回したが、玲琳の校正作業はそこから一週間も続き、結局、冬雪はかつてないほどの期間、放置されたのだった。
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【価格決定/莉莉】
「あたしに、書物の価格を決めてほしい、ですか?」
朱駒宮はずれの蔵でこっそりと書の鍛錬をしていた莉莉は、押しかけてきた黄 玲琳からの申し出に、目を瞬かせた。
「ええ。親民礼で売るための『百薬毒抄』が無事完成したのですが、肝心の値付けをすっかり忘れておりまして」
頬に手を当てる玲琳によれば、この書物によって利を得るより、安価に設定し、民に広く流布してほしいのだという。
最初は「付け値でいいか」とのんびり構えていたのだが、菓子や装飾品とは違い、親民礼で書物が売られた例はない。
買い手も相場がわからず困るだろうということで、ここに来て値付けの必要性に思い至ったそうだった。
「下町暮らしの経験もある莉莉なら、きっと民にとっての適正な額に詳しいかと思いまして」
「ああ。たしかに、箱入りのあんたが決めたら、ぶっ飛んだ値段になりそうですもんね……」
莉莉が悪気なく頷くと、玲琳は珍しく、「まあ」と拗ねたように頬を膨らませた。
「意地悪な莉莉ですこと。念には念をと思っただけで、本当はわたくしだって、民の経済観は把握しておりますのよ」
どうやら、自立を愛する黄家の雛女は、「箱入り」だとか「世間知らず」だとかの評価をされると、ついむきになってしまうようである。
「へええ。それはどうだか」
少しばかり意地の悪い、そして実に愉快な気持ちになってしまった莉莉は――だって、自分がこの雛女をからかえる機会なんて滅多にない――、ふと思い立ち、目の前の古い硯を指さしてみた。
莉莉が長年愛用している、けれど二束三文で買った品だ。
「じゃあ聞きますけど、これ、いくらくらいだと思います?」
「……銀、二十匁ほどでしょうか」
「んなわけないでしょ!?」
のっけから暴投を食らって、莉莉は大きく声を裏返した。
銀二十匁といえば、一人暮らしの一ヶ月分の食費を賄えるほどだ。
「馬鹿じゃないの!? こんなの、市で銅銭十文も出せば買えるっての! 百倍以上出してどうすんの!?」
嫌な予感を覚え、「これは!?」と、毛先の広がった古筆や安物の墨を指さしてみる。
玲琳はおっとりと首を傾げた。
「筆は、銀、五十匁ほどでしょうか」
「なんでさらに値上がりしてんの!?」
「墨はまあ、三十匁ほどでもよいかもしれません」
「なに勘弁してやったみたいな顔してんの! 銀子から離れろよ! 全部銅銭で賄える世界だよ!」
だめだ。この雛女は予想を遙かに上回る世間知らずだ。
突っ込み疲れのあまり、ぜえぜえと息を荒げてしまったが、すると玲琳は、よりによって莉莉が放り出していた紙の束を取り上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「そしてこちらは、金一両といったところでしょうか」
「反故紙の束に値付けしてんじゃねえよ!」
莉莉は両手をわななかせた。
玲琳が取り上げたのは、薄葉紙どころか最下級の雑紙、しかも字を書き間違えて反故にしたものだったからだ。
「あーっ、もう、あんたっていう人は! 全然なんにもわかってない!」
「そうでしょうか」
世間知らずぶりを案じるあまり、指を突き付けて叫んでしまったが、玲琳は不思議そうにこう答えるだけだった。
「だってこれらはすべて、莉莉の努力の証でしょう?」
ごく自然な、優しい声が、莉莉から反論を奪った。
「硯は何度も使ったからこそ、真ん中がくぼみはじめている。筆は何度も字を書き連ねたからこそ、毛先が傷んでいる。墨は大量に必要だから、安いものを選んだのでしょう?」
そして、と、彼女は反故紙の束をそっと撫でてみせた。
「間違いを繰り返さぬよう保管しているからこそ、反故紙はこんなにある。わたくしなら、これに一両の値を付けます」
字が上手になりましたね、と目を細められ、莉莉は耳の端までを赤く染め上げた。
(ああ、もう)
莉莉が蔵で手習いをしていたのは、ほかの女官に悪筆を知られたくなかったからだ。
せっかく銀朱女官になったのに、馬鹿にされてはかなわないから。
実力不足はみっともないもののはずで、だからこの努力は隠さなくてはならなくて、誰にも気取られないもののはずだった。褒められるなんてもってのほかだ。
だというのに、彼女はいつもこうやって、かけがえのない言葉をひょいと投げて寄越すのだ。
きっと、玲琳にとっては、なんていうことない言葉。
けれど莉莉にとっては――万金の価値のある言葉。
「……で、いいんじゃないですか」
「え?」
「付け値で、いいんじゃないですか!」
莉莉はそっぽを向き、早口で述べた。
「買い手によって、感じる価値はそれぞれでしょ。売り手がそれで構わないっていうなら、べつに買い手に価格を決めさせて、いいんじゃないですか」
玲琳は「まあ」と目を見開いた後、優しく微笑む。
「では、そうしましょう」
眩しい光が降り注ぐ、夏の午後のことだった。
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【販売/辰宇】
親民礼は大層な賑わいだった。
いつもは整然としている後宮門前のあちこちで屋台が開かれ、龍紋を配した豪華な衝立の前では、雛女たちの手慰みの品が販売されている。
中でもひときわ長く行列ができているところがあり、見回りをしていた鷲官長・辰宇は目を細めた。
「あれは?」
「龍紋から見て、黄 玲琳様の親民品が売られているところですねえ。ううん、まさか書物がこれほど人気を博すとは。昨今は、教養のある男がモテるということなのか……」
悔しそうに答えるのは、部下の文昴である。
最後の呟きの意味がわからなかった辰宇は、怪訝な顔つきになった。
「なぜ、そこで男がモテるなどという話になる?」
「なぜって……えっ、知らないんですか!?」
驚いた文昴が説明するには、こういうことだった。
親民礼は、後宮門前という珍しい場所に出入りする数少ない機会、すなわち、絶好の逢引き場所だ。
となれば、男がこの場でなにをどれだけ買ってやるかは、逢引きの成否を分ける重要な材料。
そこで男たちは、見栄を張って女の心を射止めるべく、こぞって高品質で高価な品を買い求めるのだという。
「しかも……ああ、付け値じゃないですか。こりゃ、男たちも引っ込みが付かなくなっちゃったんでしょう。ま、僕は見栄なんて張らずに、適正額を払いますけどね」
看板に書かれた「付け値」――すなわち買い手が自由に価格を決められる――を見て、文昴は冷静に肩を竦める。
が、人だかりの中に、鷲官とよく似た装束をまとった男を認めると、途端に顔をしかめた。
「げえっ、本宮付の武官まで来てる」
男性機能を失ってなる後宮付鷲官と、男性の憧れの職である本宮付武官は、成立ちから、非常に険悪な仲である。
どうやらほかにも諍いがあったらしく、武官を見て、文昴は嫌そうに舌を出した。
「うっわ、玲琳様の品を買うからって、鼻の下まで伸ばしちゃって。はあ? 書物一冊に銀を二匁? ふーんへー、高給取りって主張したいわけですかぁ」
とはいえ、その動向は気になるようで、背伸びして聞き耳を立てている。
どうやら、武官は連れがいるらしく、彼女の前で気風のいいところを見せようと、かなり高めの値を申し出たところだった。
「まあ。二匁も? 誠にありがとうございます」
「いえ。黄 玲琳様が手掛けられた品をこの程度で購えるなど、心苦しいほどです。しかし、あまり生意気な額を申し出て、懐の寂しい者を追い詰めるのも申し訳ないので、この程度で」
「細やかな気遣い、玲琳様も喜ばれますわ」
接客していた黄家の女官は得意げな顔になり、背後に座った玲琳も、扇の陰で嬉しそうに顔を綻ばせている。
その麗しさに、集った客は一斉に溜息を漏らし、武官も、得意げな笑みを見せた。
と、ちょうどこちらと目が合い、鷲官二人を見て取った彼は、小馬鹿にするように笑みを深める。
貧乏な底辺武官がおいでなすった、とでも言いたげだった。
「うわあ、めちゃくちゃ腹立つ! くそう、それなら僕は、へそくりはたいて、銀二匁に銅銭五十文付けてやる!」
いきり立った文昴は、財嚢を掴んで身を乗り出したが、傍らの辰宇が微動だにしないのに気づき、眉を跳ね上げた。
「ちょっと、長官殿! これは鷲官の沽券に関わる事態ですよ! 長官殿も、いつもの氷結眼光を活かすなりして――」
肩を揺さぶろうとするが、辰宇がじっと、あるものを見つめているのを理解し、手を引っ込める。
ものというか、人だ。
辰宇はじっと、稼いだ銀子を前に、嬉しそうに微笑む黄 玲琳のことを見つめていた。
「長官殿――」
「おまえは払わなくていい」
不意に、辰宇は文昴を遮り、売り場に向かって踏み出した。
長い足を活かし、たった数歩でたどり着いてしまう。
そうして、並べられていた書物を手に取ると、めくりもせずにこう申し出た。
「銀十匁で」
「高っけえよ!」
これには、聞いていた一同も声を裏返してしまった。
「複数購入してもよいのだろうか」
「え……ええ」
しかも、複数冊購入する腹づもりのようである。
「では、百冊ほど」
「多いよ!」
奴隷の息子、という側面を強調されることが多いが、辰宇は皇帝の血を引く男であり、つまりは皇子である。
皇子というものの持つ財力のすさまじさに、周囲の人間は青ざめて唸りはじめた。
「ええと、そんなに冊数がないのですが……」
肝心の黄 玲琳はといえば、真顔でのぶっ飛んだ申し出に、困ったように頬に手を当てている。
辰宇はそんな彼女のことを、いつになく愉快そうに見守っていた。
「え、もしや長官、僕にいいところを見せようと……?」
ちなみに、背後の文昴もそんなことを呟いて、びくびくしながら己の唇を庇ったが、残念ながらこちらには、誰の注目も集まることはなかった。
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【販売・献本/尭明】
さて、ぶっ飛んだ経済感覚を突き付けた鷲官長の登場によってざわついていた一帯だが、その場を、さらなる混乱の渦に叩き込む声が、不意にあたりに響いた。
「やれやれ。買い物に慣れぬ男は、これだから」
涼やかな、男の声である。
振り向いた人々は、一斉にその場に膝をついた。
「皇太子殿下に、ご挨拶申し上げます……!」
なぜなら、多くの護衛に囲まれ現われたのは、詠国が皇太子・尭明だったからである。
彼は、秀麗な顔に笑みを浮かべると、愛おしげに玲琳を見つめた。
「大繁盛のようだな。献本を読ませてもらったが、素晴らしい内容だった。人気が出るのも納得だ」
さりげなく、献本をもらう間柄であることを強調しつつ、如才なく内容を褒める。
「特に、丁寧な図説がよかった。医官の教本にも劣らぬ」
「まあ……! 光栄でございます!」
内容を褒められた玲琳は、これまでになく嬉しそうな表情を見せる。
そこでようやく、はっとしたように手の中の書物を見下ろした辰宇に、尭明はからかうような視線を向けた。
「だが世の中には、内容を確かめもせず、無粋に買い占めようとする輩もいるようだ。書物は、万人に広く読まれてこそ、価値があるというのに」
「…………」
押し黙った辰宇をよそに、尭明は「俺なら」と懐を探り、女官の差し出す盆の上に、金一両を置いた。
「買うのは一冊にとどめ、そこに金一両を出そう」
ためらいなく差し出された最高級の金子に、周囲はどよめいた。
「えっ、いえあの……」
一方の玲琳は、困惑して頬に手を当てた。
気持ちはとても嬉しいが、販売の途中でこれだけ高額の値を示されてしまうと、後の客が続きにくい。
「どうしましょう、情も値付けも重いです……」
「しっ、玲琳様。そのお言葉は殿下のお心を抉ります」
ごく小声で呟いてしまったのを、傍らに控えていた冬雪に諫められた。
が、幸い、尭明の耳に、その言葉は届かなかったらしい。
なぜなら、黙り込んでいた辰宇が、不意に声を張り上げたからだった。
「なるほど、配慮が至りませんでした」
彼はごく一瞬、玲琳を見やってから、挑むような目つきで尭明を見据える。
「では俺も、買うのは一冊にして、そこに、銀十匁の百冊分――金十七両を支払いましょう」
そうして、懐から雑紙を取り出すと、さらりとそこに「金十七両」の文字と名を書き連ねた。支払いの証文代わりだ。
「い、一冊に金十七両!?」
「ふん」
観衆と化した周囲が真っ青になるのに対し、尭明は動じずに片方の眉を持ち上げる。
彼は証文を奪うと、十七の数字と辰宇の名に線を引き、堂々たる達筆で、二十の数字と己の名を書き足した。
「思い切りの悪いことだ。俺なら、端数は丸める」
「…………」
辰宇はごくわずかに眉を寄せると、無言で異母兄から筆を奪った。
さすがに皇太子の名に線を引くことはできぬので、新たな紙を取り出し、先ほどより大きな文字で「三十」と記す。
「三十両!?」
観衆は叫んだが、すると尭明はにこりと笑い、「三」の字に縦の棒を二本足した。
金、五十両。
「ひいい……っ」
飛び交う額の恐ろしさに、観衆はとうとう悲鳴を上げた。
金五十両と言えば、そこそこ腕のいい大工の年収にも匹敵する額である。
「……そもそも、殿下の支払われる金子というのは、血税から成るものなのでは」
「おまえの俸禄もな。ちなみに俺は、自力で稼ぐべきという黄家の教育方針もあり、俸禄以外に、書物を出すことで稼ぎを得ている。これはその金だ」
「俺のこの金も、遠征の合間に賊を討伐したことで、独自に稼いだものですが」
片や笑顔で、片や無表情で。
両者はじっと見つめ合っている。
場の空気が見る間に張り詰め、誰もが冷や汗を浮かべはじめた。
(大変。カブトムシさんの、角の大きさ対決の様相を呈しています……!)
玲琳もまた、焦った。
これが、男の沽券というものなのか。
なにしろ二人は兄弟だ。つい張り合いたいお年頃でもあるのだろう。
「あの――」
「おお、玲琳! 盛況であるなあ」
慌てて身を乗り出したとき、ひときわ快活な声が、あたりに響いた。
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【販売③/絹秀】
「おお、玲琳! 盛況であるなあ」
歯切れのよい言葉とともに登場したのは、誰あろう、詠国が皇后・絹秀であった。
後宮の長として、親民礼の様子を見に来たらしい。
鷲官長、いや、皇太子をも上回る権力者の登場に、周囲は一斉に叩頭を始めた。
「皇后陛下にご挨拶申し上げます!」
「よい、楽にせよ」
絹秀は鷹揚に応じ、礼を解くよう促す。
恐る恐る顔を上げた周囲をよそに、彼女は顎をしゃくりながら、台に並ぶ書物を見つめた。
「よく売れているではないか。妾が買えるぶんは残っているか? 付け値というが、今の相場はいくらなのだ」
「ええと……」
これには玲琳も困り顔になる。
辰宇が当初の発言通り百冊を買うというなら、在庫は一瞬で消えてしまうし、尭明が本当に五十両を払おうというなら、相場はとんでもないことになる。
「あの……陛下にはすでに献本を差し上げましたので、新たにお買い求めいただかなくてもよいのかな、などと」
結局そんな風にお茶を濁すと、伯母は大きく嘆息した。
「馬鹿め! 姪が初めて出版したのだぞ? 祝わずにどうする。二百冊ほど買ってよいか? あるいは、一冊百両ほどでどうだ?」
さすが尭明の母にして皇后。
やることの規模が、尭明たち以上に突き抜けている。
「いえ、あの……」
「なあんてな」
困り果てて頬に手を当てた玲琳に、絹秀はふっと笑ってみせた。
「そんなことを言っても、おまえは喜ぶまい。金銭や栄誉にかけらも頓着しないおまえには、これをやろう」
そう言って、小さな袋を差し出すではないか。
玲琳は不思議な思いをしながら受け取ると、中身を検め、はっと息を呑んだ。
「これは……!」
「おめでとう。『百薬毒抄』は、皇家御用達、詠国講談師の推薦図書となった」
そこには、龍紋の中に「良書」の文字をあしらった、活字が入っていたのである。
「二刷目からは、これを組版に入れよ。執筆と印刷に掛かる費用はすべて国が保証し、書物は全国に配布される」
「…………!」
玲琳は口元を両手で覆い、歓喜の悲鳴をなんとか堪えた。
「で、では、全国の皆様が、『百薬毒抄』を読んでくださるのですか!?」
「厳密には、字の読める講談師が、だけどな。彼らがこれを教本とし、民に知識を授ける」
「では、貧しい方々も、薬や毒について学べるのですね!?」
「そうなる。いや、そうさせるつもりだ」
ゆったりと頷き、それから絹秀は、玲琳ににっと口の端を引き上げてみせた。
「身内の欲目を抜きにしても、最高だったぞ。図も精密だし、解説も端的だ。なにより、ほとばしる食への愛が、とっつきやすさを確保している。芋のくだりが特によかった」
「まあ……! ありがとうございます!」
「調理法を、それぞれたった二こまの絵で表わしたのもよかった。中でも揚げ芋は最強だな。涎が出た」
「そう! そうなのです、陛下! 芋が……揚げ芋で……っ、ど、どうしましょう! わたくし、とても嬉しい……!」
感極まった玲琳は、絹秀の両手をぎゅっと握り締めながら、ぶんぶん頷いている。
明らかに、これまでに接したどの客に対するよりも、嬉しそうな様子であった。
「わたくし……! ああ、本当にありがとうございます!」
「こらこら、これしきのことで大騒ぎするでない」
絹秀は、感涙しそうな姪の頬を、ふっと笑って撫でている。
どう見ても、歴戦の色男と、その掌で転がされる純真な美少女のような構図であった。
と、そのとき、絹秀がふと背後を振り返る。
彼女は、無言で立ち尽くす二人の若き美丈夫に向かって、愉快そうに眉を跳ね上げた。
喧噪に紛れて、彼女が口の動きだけで伝えたのは、たった一言。
『これが、正しい女の口説き方だ』
尭明と辰宇が無言で仰いだ天には、ゆったりと筆を滑らせたような青空が広がっていた。
完
こんな感じで、Twitterではときどき企画SSなど投稿することもあるので、興味のある方は覗いてみてくださいませー。
中村 颯希@satsuki_nkmr