#027『ドーナツ、なんちゃって!』
熱々のドーナツを最近食べていないなと、ふと思いました。
なぜか私の記憶には、小学生の頃に熱々のドーナツを食べていた記憶があります。
近所にあったパン屋さん? それとも大手スーパーのデリカ?
もう一度、昔懐かしいドーナツが食べたいです。
『ドーナツ、なんちゃって!』
スマートフォンが制服のポケットの中で短く震えた。
薄暗い教室の中、窓ガラスを打ち付ける雨の音が、不規則なリズムを刻んでいる。ひんやりとしたガラスに額を押し当てながら、私は画面をスワイプした。
『今日の放課後、駅前の新しいカフェ行かない? 新作のフラペチーノ、マジで映えるらしいよ!』
画面の中でポップなスタンプが跳ねている。私は反射的に、口角をきゅっと上げて「いいね! 行く行く!」と、ハートマークが飛び交うスタンプを打ち返した。
送信ボタンを押した瞬間、上がっていた口角は重力に従ってスッと元の位置に戻る。
私の名前は伊藤來未。16歳の高校二年生。
世間一般で言うところの「花の女子高生」というやつだ。けれど、私の中にあるのは花のような彩りではなく、ひたすらに無機質な空洞だった。
教室はひどく息苦しかった。じめじめとした湿気。女の子たちが振りまくフローラル系の柔軟剤。それに甘ったるいココナッツの香水。これらが交じり合っているからだ。
気持ち悪くなる。
「來未はどう思う? あの先生、絶対私たちのこと舐めてるよね」
「ねー、マジそれな。ウケる」
私は相槌を打ちながら、まるでもう一人の自分が天井から自分を見下ろしているような感覚に陥っていた。
いまの私は「なんちゃって」だ。
友達のノリに合わせる「なんちゃって」陽キャ。流行りのメイクをして、流行りの音楽を聴いて、空気を読んで笑う「なんちゃって」女子高生。本当の自分が何を好きで、何を面白いと感じるのか、もうずっと前から分からなくなっていた。
ただ、グループという輪の中から弾き出されないように、必死に外側の形だけを繕っている。
中身は空っぽだ。ハリボテの笑顔というコーティングの下には、何もない。
放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、私は唐突に息ができなくなった。このままあの子たちと駅前のカフェに行って、甘ったるいだけのフラペチーノを飲みながら、誰かの噂話で盛り上がる。
その想像をしただけで、胃の奥が鉛のように重くなった。
「ごめん、今日ちょっとお腹痛くて……。先帰るね」
「えー、マジ? 大丈夫?」
「うん、薬飲んで寝れば治ると思う。また明日ね」
嘘をつくのにも慣れたものだ。心配そうな声色を出してくる友達の瞳の奥が、本当は全く心配などしていないことにも気づいていた。
お互いに「なんちゃって」の友情で結ばれているのだから、それでいい。
傘を広げて校門を出ると、雨足はさらに強まっていた。
アスファルトに打ち付ける雨粒が跳ね返り、ローファーの爪先を濡らす。雨に濡れた土埃と、古いコンクリートの匂いが鼻を突いた。駅とは反対の方向へ、私はあてもなく歩き出した。
冷たい風がブレザーの隙間や青いスカートの下から入り込んで肌を撫でる。
16歳。青春のど真ん中。
ドラマや漫画の中の女の子たちは、この年齢で世界を変えるような恋をしたり、一生モノの夢を見つけたりする。なのに、どうして私はこんなに空っぽなんだろう。
雨のベールで灰色に霞む街を歩きながら、私は自分の胸の真ん中にある、ぽっかりと空いた巨大な穴の存在を意識していた。
どれくらい歩いただろうか。
気づけば、見知らぬ古い商店街に迷い込んでいた。
シャッターの閉まった店が立ち並ぶ中、ポツンと、温かいオレンジ色の光が漏れている場所があった。
ふわりと、空腹を容赦なく刺激する、香ばしい匂いが漂ってきた。暴力的なまでに甘い、熱せられた油の匂い。バニラエッセンスの甘い香り。そして、小麦粉がこんがりと焦げる、あの懐かしい匂い。
雨宿りをする口実で、私はその古ぼけた店の軒下に逃げ込んだ。
見上げると、色褪せたテント看板に『手作りドーナツ カメヤ』と書かれている。ガラス張りの引き戸越しに中を覗くと、ショーケースの中はほとんど空っぽだった。
帰ろうかと思ったその時。
「……入れば? 濡れてるし」
不意に扉が開き、ぶっきらぼうな声が降ってきた。
そこに立っていたのは、白いエプロンをつけた同年代の男の子だった。いや、同年代どころではない。
「……新くん?」
思わず声が出た。同じクラスの、いつも一番後ろの席で寝てばかりいる男子生徒。瓶谷新だった。彼は少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「なんだ、來未か。おまえ、こんなとこで何してんの」
どうやら新は制服だけを見て、声を掛けたようだ。
「それはこっちのセリフだよ。ここ、新くんの家?」
「じいちゃんの店。おれはたまに手伝ってるだけ」
促されるままに、私は店の中に入った。
店内は外の冷たさが嘘のように暖かかった。使い込まれた木のカウンター、年季の入ったフライヤーから聞こえる、ポコポコ、シュワァッという油の弾ける音。換気扇が低い音を立てて回っている。
「タオル、貸してやるよ」
新が奥から清潔なタオルを持ってきた。私はそれを受け取り、湿った髪とブレザーを拭いた。
「ありがとう。……ここ、すごくいい匂いがするね」
私は反射的に、いつもの「愛想のいい女子高生」の笑顔を作って言った。しかし、新は私をじっと見つめ、ため息をつくように言った。
「おまえさ、学校の外でもそんな作り笑いしてて疲れないの?」
心臓がドクンと嫌な音を立てた。
「え……? 何のこと?」
「顔の筋肉、引きつってるぞ。別に、ここでまでいい子ぶらなくていいから」
痛いところを突かれ、私は咄嗟に言葉を失った。私の「なんちゃって」の皮が、いとも簡単に剥がされた気分だった。
気まずくて俯くと、ふと、カウンターの隅に置かれたバットが目に入った。
そこには、いびつな形をしたドーナツがいくつか転がっていた。綺麗な丸ではなく、歪んでいて、表面も少し凸凹している。
「それ……売り物?」
話題を逸らすように私が指差すと、新は肩をすくめた。
「いや、俺が練習で揚げたやつ。温度調整ミスって形が崩れた。いってみれば『なんちゃってドーナツ』だな。売り物にはならない失敗作」
「なんちゃって……」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
「食うか? 見た目は悪いけど、味は普通のドーナツだよ。捨てるのも勿体ないし」
新はトングでそのいびつなドーナツを一つ挟み、白いワックスペーパーに包んで私に差し出した。
受け取ると、じんわりとした熱が紙越しに手のひらへ伝わってきた。冷えていた指先が、その確かな温度にじんじんと解れていく。表面にはたっぷりのグラニュー糖がまぶされていて、キラキラと光を反射していた。
私は小さく口を開け、その歪な円の一部をかじった。
サクッ。
小気味良い音が耳の奥で響いた。次の瞬間、フワッとした柔らかい生地の食感と共に、強烈な甘さとバターの風味が口いっぱいに爆発した。
今時のカフェにあるような、カロリーオフのヘルシーなお菓子じゃない。油と砂糖と炭水化物が真正面から殴りかかってくるような、ごまかしようのない本物の甘さだ。
「……美味しい」
気づけば、ぽつりと声がこぼれていた。
熱い。
熱くて、甘くて、どうしようもなく優しい味がした。
口の中で溶けていく生地の熱が、食道を通って胃の奥へと落ちていく。それは、私の胸の奥にある冷え切った空洞を、芯から温めていくような感覚だった。
どうしてだろう。急に視界が滲んできた。
私、なんで泣きそうになっているんだろう。
慌てて下を向いたけれど、遅かった。ポロリと、一粒の涙が頬を伝ってワックスペーパーの上に落ちた。
「……おい、マジか。そんなに不味かったか?」
新が焦ったような声を出す。
「違う、違うの」
私は首を横に振った。
「美味しすぎて……なんか、安心しちゃって」
言い訳にもならない言葉を口にしながら、私はもう一口、ドーナツをかじった。鼻の奥がツンとして、涙が次々と溢れてくる。頬を伝う涙が唇に触れる。しょっぱい水滴が、ドーナツの表面にまぶされた砂糖の甘さと混ざり合い、複雑で、だけどとても人間らしい味がした。
「私さ……」
気づけば、私は誰にも言えなかった本音をこぼしていた。
「ずっと、自分がドーナツみたいだなって思ってたんだよね」
「なんでだよ」
「真ん中に、ぽっかり穴が空いてて。中身が何もないの。周りに合わせて、流行りのものでコーティングして、なんちゃって女子高生を演じてるだけ。本当の私は空っぽで、何もないんだって」
涙声で語る私の話を、新は遮ることもなく、ただフライヤーの油の音に耳を傾けながら聞いていた。
私が話し終えると、新はバットからもう一つのいびつなドーナツを掴み、そのまま自分の口に放り込んだ。モグモグと咀嚼し、ごくりと飲み込んでから、彼は静かに口を開いた。
「おまえ、ドーナツの真ん中にどうして穴が空いてるか知ってるか?」
「え……?」
「昔、ドーナツの原型みたいな揚げ菓子があったんだけどさ、生地の真ん中まで火が通らなくて、いつも生焼けだったらしいんだよ。で、ある人が真ん中をくり抜いて揚げてみたら、熱い油が生地の真ん中までしっかり通って、全体がふっくら美味しく揚がった」
新は、ワックスペーパーを持った私の手元を指差した。
「穴がないと、中身はドロドロの生焼けのままだ」
「生焼け……」
「ドーナツにとってのその空洞は、欠陥じゃない。全体にちゃんと熱を通すために、必要な空白なんだよ」
必要な……空白。
その言葉が、熱を帯びたまま私の中にすとんと落ちた。
「おまえのその『空洞』もさ、生焼けのまま大人にならないために、いま、必要な隙間なんじゃないのか? なんちゃってだろうが何だろうが、そうやって悩んでるなら、ちゃんと熱は通ってるって証拠だろ」
新の言葉はぶっきらぼうだったけれど、そこには何の嘘も、何のコーティングもなかった。
私はもう一度、手の中のドーナツを見た。
不恰好で、歪で、完璧な円には程遠い「なんちゃってドーナツ」。
でも、その真ん中の穴を通った熱は、確かに生地を黄金色に焼き上げ、甘く優しい食べ物に変えていた。
「……新くんって、たまにすごく真っ当なこと言うね」
「うるせえ。ドーナツ屋の孫だからな」
新がそっぽを向いて耳を赤くしたのを見て、私は今度こそ、声を出して笑った。顔の筋肉は全く引き攣っていなかった。喉の奥から自然に込み上げてくる、本物の笑いだった。
店を出る頃には、雨はすっかり上がっていた。
雲の切れ間から夕日が差し込み、水たまりに反射して路地裏を黄金色に染め上げている。
雨上がりの空気は澄み切っていて、湿ったアスファルトの匂いも、先ほどまでの重苦しさが消えていた。
口の中には、まだドーナツの甘い後味が微かに残っている。
ポケットの中で、再びスマートフォンが震えた。画面を見ると、またグループトークからの通知だった。
『來未、大丈夫〜? 明日は来れる?』
いつもの私なら、ここでまた過剰に元気なスタンプを返していただろう。でも、私はスマートフォンのキーボードをゆっくりとタップした。
『うん、今日はゆっくり休むね。ごめん、また今度』
スタンプは添えず、短いテキストだけを送信した。それだけでも、心臓が少しだけドキドキした。
もしかしたら「愛想が悪い」と思われるかもしれない。でも、不思議と怖くはなかった。
胸の中の空洞は、まだそこにある。
すぐに何かが埋まるわけじゃない。16歳という不安定な季節の中で、私はこれからも「なんちゃって」な自分に悩み、揺れ動くのだろう。
でも、もう無理にこの穴を隠そうとは思わない。
いつか、自分だけの本当の熱を通して、この空洞の周りをこんがりと焼き上げることができる日まで。
大きく息を吸い込むと、胸いっぱいに香ばしい油と甘い砂糖の匂いが広がった。
「ありがとう、新くん。また明日、学校で」
「ああ、また明日」
歩き出した私の足取りは、ここへ来た時よりもずっと軽い。
未だ来ない未来を、こちらへ招き入れる。親が私につけてくれた「來未」という名前。
ぽっかりと空いたこの胸の空白は、きっと、その新しい未来を受け入れるためにあるのだ。
雨上がりの水たまりを一つ飛び越えて、私は家へと続く道を駆け出した。




