1話 また、あの教室へ
新作です!
今回は『転生したら錬金術が得意な貴族家の女の子でした』とは違い、現代が舞台の作品になります。
更新は隔週を目標にしていますが、本編との並行執筆のため、不定期更新になる場合があります。
のんびりお付き合いいただけると嬉しいです(´・ω・`)
朝日がカーテンの隙間から差し込み、自然と目が覚める。
リビングから漂ってくる焼きたてのパンとバターの香りに誘われ、僕はゆっくりと階段を下りた。
「おはよう」
「あ、おはよー!」
キッチンでは母が朝食を並べ、ダイニングでは姉の真由と父がすでに席についていた。
「千尋、早く食べちゃいなさい。今日は始業式でしょう?」
「……うん。」
返事をしながらも、気分は沈んだままだ。
今日から新学期。
また、あの教室へ行かなければならない。
せっかくの焼きたてのパンも、今日は味がしなかった。
朝食を済ませると、洗面所へ向かった。
寝ぐせ直しスプレーを軽く吹きかけ、ドライヤーで乾かす。
ヘアアイロンで髪を整え、最後にお気に入りのリップをひと塗りする。
鏡に映る自分を見つめ、小さく息を吐いた。
「……行こう。」
玄関のドアを開ける。
「いってきます......」
「千尋、忘れ物。」
「……。」
「忘れたんじゃなくて、置いていったんでしょ?」
「…………。」
「私は、千尋が好きなものまで我慢する必要なんてないと思う。」
そう言って、お姉ちゃんはヘアコームを僕の手に握らせた。
「ほら! 笑顔の千尋が一番かわいいんだからそんな顔しない!」
お姉ちゃんは僕の背中をぽんっと軽く叩いた。
「今日はみんなでご飯を食べに行くんだから、早く帰ってきてね!」
その一言で、夏休みの穏やかな時間は終わりを告げた。
かわいいお洋服を着て。
お気に入りのプチプラコスメでおしゃれをして。
お気に入りのエプロンを着てお菓子を焼いたり。
裁縫箱を広げて、小物を作ったり。
そんな日常に終わりを告げるかのように聞こえた。
「あ! 千尋ちゃんおはよー!」
「明日香さんおはようございます......」
同じクラスの明日香さんが、小走りで駆け寄ってきた。
「もう! 昔みたいに明日香ちゃんって言ってよ!」
「無理です......」
明日香さんは笑っていた。
だけど、その笑顔はどこか寂しそうだった。
「もし僕なんかと親しいと思われたら明日香さんまでいじめのターゲットにされちゃうので......」
「そっか......」
「でも、私は千尋ちゃんの味方だからね!」
明日香さんは悔しそうに拳を握る。
「あんな奴らに、千尋ちゃんをいじめる権利なんてないんだから!」
「……僕は、誰の物でもありません」
そう返すと、明日香さんは困ったように笑った。
「そういうところだよ」
「え?」
「自分のことより、いつも周りのことばっかり考えるんだから」
僕は何も答えられなかった。
言い返そうと思えば、いくらでも言えた。
でも、それを口にしてしまえば、きっと明日香さんはもっと悲しそうな顔をする。
だから僕は、小さく笑ってごまかすしかなかった。
「僕は、本当に大丈夫です。慣れましたし」
明日香さんは足を止めた。
「……千尋ちゃん。」
「『慣れた』と『平気』は同じ意味じゃないからね。」
胸が、少しだけ痛んだ。
図星だった。
痛くないわけがない。
悲しくないわけがない。
それでも、そう思い込まないと学校へなんて行けなかった。
「……行きましょうか」
それ以上、この話を続けたくなくて歩き出す。
明日香さんも何も言わず、静かに僕の隣へ並んだ。
夏休みの間は毎日のように笑って歩いていた通学路が、今日はやけに長く感じた。
明日香さんと話しながら歩いていると、いつもなら時間を忘れることがある。
けれど今日は違う。
学校に近づくたび、足取りは少しずつ重くなっていった。
やがて、校門が見えてくる。
小学生の頃は、あの門をくぐるたびに胸が弾んでいた。
今日はどんなことを学べるんだろう。
どんな一日になるんだろう。
今日は誰と遊ぼうかな。
そんなふうに、学校へ行くのが楽しみだった。
でも、今は――。
『おいおい! 千尋ちゃんのお出ましだぜー!』
『やーい、オトコオンナ! 気持ち悪いんだよ!』
実際には、まだ誰にも何も言われていない。
それなのに、昔から僕をいじめてきた人たちの声が、頭の中で何度も再生される。
気づけば、僕は校門の前で立ち尽くしていた。
握りしめた拳が、小さく震えている。
学校に行きたくない。
ずっと夏休みならよかったのに。
そんな子どもみたいな願いが、胸の奥から消えてくれなかった。
「大丈夫だよ」
明日香さんは、そっと僕の手を握った。
「もしいじめられても、女子はみんな千尋ちゃんの味方だから!」
さっきまでの優しい手とは打って変わって、今度はぐいっと僕の手を引く。
「ほら! 早くしないと遅刻するよ!」
「ちょっと引っ張らないでください!」
明日香さんに引っ張られるまま、僕は重い足を前へ踏み出した。
――今日も、長い一日が始まる。




