了
空なんて飛べなくて良い飛ぶ必要なんかないと思いながら、白隆はよろよろとミスズの背を降りた。足元が揺れているような気がするのは、抱えている妻の身体が重い所為だと思うことにした。
まだ昼間だというのに津瀬邸には人の気配がない。姫がとんでもない場所からお帰り遊ばせたというのに出迎えもない。気を失ったように眠り続ける妻の部屋へは、ミスズが先導した。褥の上にきちんと横たえてやり、白隆はやっと人心地がついた。指先が震えていた。
「この子と一緒に居れば、よくあることだ」と、山犬は言った。「まともな娘だと思わん方がいい」
白隆は頷いた。
「分かっていたよ、初めて逢った時から」
ミスズは相槌の代わりに尾でぴしゃりと床を叩いた。すると、明木の屋敷でしてそうして見せたように、輪郭が滲み姿が徐々に変化し始めた。ややあって定まった姿はあの時の痩せぎすな男ではなく、それより前に白隆の知った人間のものだった。
「初夜の女房……」
娘が篠と呼ぶ女房。
白隆はまじまじとミスズを――篠を見た。
「真似ているのではない」女房らしからぬ不遜な態度で彼女は言った。声は丸きり女だった
「あの晩、お前をこの子の部屋に案内したのは私だ。この姿で、少々口うるさいがしっかり者の篠として振る舞うことを求められている」
「津瀬の姫に?」
「頼昭にさ。物の怪や怨霊を喰い殺すから、この子は"ミスズ"が好きではない」
「だが、必要な存在だ。あんな仕事をしているなら」
「その通り」
篠は優雅に口元を押さえ、微笑んだ。
「まあ、今は必要でないな。……明日の朝までは浅い眠りと深い眠りを繰り返すだろう。暫く大人しくさせておいてくれ」
同調するように娘がころんと寝返りを打った。白隆は神妙に頷いた。
「それで、妻の守りをしているお前は、どういう物の怪なんだ? 何故私にも姿が見える?」
「凡そ全ての人間に姿を見られてしまう物の怪だ」篠は言った。「この子の夫になるからと言って、見えないことに負い目や引け目を感ずることはない。理解し合えないからこそ上手く行くことも――ところで、お前達は二人して結婚に抵抗がある様子だったが、本当に夫婦になるのか?」
白隆は言葉に詰まり、ぎこちなくも微笑んで見せたが、篠が射抜くような視線を投げかけるので内心堪らない。
本当に夫婦になるのか。
彼の人生で今までになく重い決断である。夫婦という一つの型には、否応無しに嵌められてしまったが。
とは言うものの、傍らで眠りこけるこの娘に、貴方の妻なんて真っ平ですと断言されたなら、それはそれで微妙に傷付くと思う。
押し黙る白隆を鼻で嘲笑い、篠は退室した。
「お前も明日まで休んで行けば良いさ。――それと、"篠"の正体をこの子に明かせば頭から食うからな」
女が泣くのは苦手なんだ。どうしたって母を思い出す。自分が泣くのも厭だった。
そう常々思っていたが、彼女は泣きながら目を覚ました。
最悪なことに、白隆がこちらをじっと見ていた。彼女は慌てて目尻を手の甲で擦った。
部屋は暗く、湿ったにおいがした。
「もう、夜ですか?」
白隆はゆるりと首を振った。
「夜明けだ」
彼は単の上に女物の衣を何枚か無造作に羽織った姿で、円座に胡座をかいていた。篠が適当に引っ張り出してきた着物だったが、それらは全て娘と白隆の結婚祝いにと明木融が用意したものだった。一度も袖が通されていない着物と微妙な気持ちにくるまり、白隆は初めて妻の家で眠った。
「気分はどうだ?」
「最悪です」
つっけんどんな返答に白隆は失笑した。
「なら大丈夫だ。篠を呼んで何か腹に優しいものを頼むよ」
篠は白隆と二人の時とは大違いの女房然とした振る舞いで言い付けに頭を下げると、直ぐに退室した。白隆はあれとミスズが本当に同一の存在か疑わずにはおれなかった。
「……お帰りになるべきでしたのに」
娘が鼻声で言った。
「帰れば私が父に何と言われるか」
「貴方は昨日、私を助けて下さいました。それで十分ではありませんか」
「父は別段、頼定殿に借りがあったから私を貴女の夫にと約束した訳ではないと思うが」
娘は寝返りを打って白隆から顔を背けた。
白隆は咄嗟に名前を呼ぼうとして、彼女の名前を知らないことをまた思い出した。
「なあ、名前を教えてくれないだろうか。字でもいい。呼びにくくてかなわん」
「……たま」
「本当に? 昔、同じ名前の猫を飼っていた。女房達が溺愛して四六時中餌をやるものだから、ぶくぶく肥えて餅のようになった白猫でな――」
「珠子です! 外でその……仕事をする時は、たまと名乗るのです」
珠子は背を向けたまま声を荒らげ言った。
「珠子か」と言った白隆の気持ちは今一つ読み取れない。
(とまれ、これで、もう一つの型枠に嵌ってしまった)
「貴方はここに顔も出したくないというご様子でしたのに」
「貴女が思ったよりも興味深い方だったのでね」
白隆は溜息を吐いた。
「まあ、私の事情も推してくれ。夫という名の友人が出来たと思ってくれればいい。それで周りは納得するし、安堵もする」
重く短い沈黙の後、珠子は蒼白な顔を白隆に向けた。目が赤いが、口は真一文字に引き結ばれ、弱々しさとは縁遠い表情をしていた。やはり女童だな、と白隆は微笑ましく思った。
「後で後悔なさっても知りませんからね」
三日夜の餅は卵の入った粥で代用された。珠子はそれをぶすくれたまま啜り、白隆は終始笑いながらついでに酒を呷った。
斯様な次第で、この二人は一先ず夫婦という枠に収まったのである。