23.物陰の嗚咽
城に到着して馬車から降りた瞬間、今までとは違う空気がはっきりと感じられる。
働いている使用人の目線さえも違う。それは私を直接攻撃するものではない。しかし、今にも転落してしまいそうなものを見ている目だった。
せっかく春が近づいてきているというのに、酷い寒気がした。私は身体を震わせる。
ヴェロニカ殿下のもとへ足早に向かおうとすると
「ピノン夫人。」
と話しかけられた。
その人物は城の残酷さの洗礼を私に受けさせた張本人。あの貴婦人だった。
「ごきげんよう、お久しぶりですわ。」
そう優雅に挨拶をするものの、私に対する好奇心は隠しきれていない。
「こちらこそお久しぶりです、ご夫人。」
と私も挨拶を返した。
はっきり言ってこのようなことをしている暇はなかった。しかし、今は少しの行動によって自身の名誉が傷ついてしまう可能性がある。いかなる人物にも過剰にする必要はないが、丁寧に接するべきだろう。
「お元気にしてらっしゃいますか?お話は予々聞いておりますが――」
なんて白々しいのだろうか。
詳細が気になるというなら、もっと直接的な言葉で尋ねればいいのだ。これか貴方はどうするつもりなの、と。
「ご主人のことで苦労されていますが、本当にお辛いですわね。でもどうか気を確かに持って……」
彼女の話はそのように続いた。分かってはいたが、もううんざりだった。
「そう言えば以前お会いした際ですが」
私がそう話し始めると、彼女の眉がぴくっと少し動く。
「分からないことは尋ねてくださっても構わない。そう仰ってくださいましたよね?」
彼女はあの時、間違いなくそう言った。
私はあえて確認すると、彼女は想像もしていなかったというような顔で驚いている。
そして
「私は主人と付き合いが長くないので詳しいことは分からないのです。このようなことになるなんて。何か頼りになることについてご存知ですか?」
と畳み掛けるように、尋ねた。
彼女は自身の中に渦巻く困惑を押し込めた。それを時間がないかのような焦りのように見せかけ
「ごめんなさい。用事があるので長く話せないのよ。」
と言って微笑んだ。
そして
「それでは失礼いたしますわ。」
そう逃げて行った。
それもそうだろう。彼女にはシモーネのことも、フィリア・トネットの事件についても、ましてや離婚や私生児問題の対処法の全てについて話さないに違いなかった。
最初から私に何も教える気などないのだ。他者の話を聞いて情報を得るだけ得て、自身の情報は分配しないことに反吐が出る。
私もフィリアのように露悪的になれたらどんなに良いだろう。そのような考えはきっと、逃避か甘えだ。
再び殿下の部屋へと歩みを進めた。
様々な意図を含んだ視線を向けられている。しかし、恐れはしなかった。本来このような場所に私は存在しなかった。
だからこそ、この場所を追われるということについての恐怖などないのだ。それ以上に、解決しないままここから逃げてしまう方が自分を許せなくなるに違いなかった。
突然奇妙な音が聞こえた気がした。
「うっ……」
影の方から嗚咽のようなものが聞こえてくるようだった。男性の声だ。
体調が優れないのであれば大変だ。私は声がする方向に考える暇もなく向かった。私が私である故に、拒絶されてしまったらどうしようという感情が頭をよぎった。
しかし、私が本当に心配するべき点はそこではなかったのだ。
「……っうう。」
その姿を見て私は驚いた。声の主はエフィジオ・ギアッチだったのだ。
すぐにその場を立ち去ることはできた。はずだったのだ。しかし、ドレスはどうしても布ずれの音を生んでしまう。彼に気付かれないのは難しかった。
「ご気分が優れないのですか。」
私は問いかけるというよりも冷たく言い放った。
しかし、情けなくうずくまった彼に視座を合わせる必要があったのだ。彼の派手な服は皺だらけで、ところどころ床の汚れがついていた。みっともなく、見ていられない。どれだけの時間をこのように過ごしていたのだろうか?
彼は顔を上げて私を見た。目を大きく開いて驚いている。それはそうだろう。あれだけ侮辱し尽くした、憎しみを抱いている人物の伴侶なのだから。
「私の顔が理解できるようですね。では大丈夫でしょう。」
その言葉は明らかに皮肉だった。
そう、彼が初対面の際に私に言った"会ったかどうかも分かりやしない"という言葉の意趣返しだった。
自分でも嫌になる。彼と話していると、自分の全てを曝け出さなければいけないような気持ちになるのだ。居ても立ってもいられない。
それに、これ以上ここに居る必要もなさそうなので立ち去ろうとすると
「……ステラ・デ・ピノン」
と彼の声は滲んでいた。しかし、そうはっきりと呼びかけた。あの脂っこい響きは今日はしていなかった。
そして彼は私にこう尋ねるのだ。
「なぜあんたはそんなに平気そうなんだ?」
と。
私は言い切る。
「何を仰っているか分かりませんね。」
と。
彼と真剣な話などしたくはなかった。どうせ自分が可哀想だ、という話になることは分かっていたからだ。。
ただあしらって、再びその場から去ろうとすると
「ふっ。シモーネ・デ・ピノンはどんな女共にでもあれだけのことができるのに。自分の結婚相手には愛されていないなんて。本当に面白い奴。」
そう、エフィジオは壊れたように笑い始めた。彼の声はだんだん醜悪になっていく。
そして
「愛していたらそうはならないよなぁ?」
と問いかけられる。
彼は本当に夢を見ているのだ。自分の愛が自分を救い、人の愛が自分を救ってくれるということを。そして、それが決して間違いなどではなく、誰かが自分に与えてくれるはずだということを信じている。
「貴方がフィリアさんを愛しているということはよく分かりますが、人の愛とは人によって価値判断されるものではないでしょう?」
私はそう話し始めてしまう。
彼は何か言いたげな顔をしていたが、変わらず対話などはしたくなかった。これはただの私の独り言なのだから。
「フィリアさんの愛だってそうです。彼女は自分を捨ててもなおその男性と一緒に地獄に堕ちたがっている。貴方とは全く違う価値観をお持ちです。」
そう言うと
「うるさい。」
とだけ彼は言った。不貞腐れたように再び顔を膝に埋める。
エフィジオ・ギアッチ、彼の人生についてつい考えてしまう。きっと彼は場所に染まりやすい人間なのだろう。それをフィリアは利用した。
決して社交界の美しい毒華としてではなく、ただのフィリア・トネットを追い求めていた。そして彼は本当に裏切られたと思っているのだ。
フィリアもシモーネに対して絶望を感じているかもしれないが、本当にそうであるならエフィジオを早く解放すべきだったのだ。彼ではなくもっと物分かりの良い人物を選べば良かったのだ。
「フィリア、本当に愛しているのに……」
その響きは、今までで最も誠実だった。同時に悲しくもあった。
本人であるフィリア・トネットは、愛している人物の不貞さえも視界に入れないほどの深い感情を持っているのだ。それは決して彼には捧げられない。
「私の許可なんて必要ないでしょうけど、気が済むまで泣いたらどうでしょう?」
と言って立ち上がった。
彼は
「あんたに腹が立ち過ぎてそんな気分にならないね。」
そう言って私に続いて立ち上がった。
彼は私を一瞥すると
「ふっ。」
と鼻で笑った。
「それ。」
彼は私の首元にあるネックレスを指差しているようだった。
「今まで見たあんたの中で一番そそるね。」
と言う。そして何事もなく去っていった。
しかし視野が狭くなっているのか、泥酔しているのか千鳥足で歩いている。とても見ていられない。
エフィジオは本当に下品な人物だ。そして誰よりも夢見がちで――哀しい。
彼に対してフィリアに本当の感情を洗いざらい話してしまえば良いと言えば良かった。
それでは本当に罪を洗い流してくれるような、懺悔を求める聖女のようではないか。しかし決して私はそのような人間ではない。そこまで恥知らずではないのだ。
私だって今ここで、罪を犯し続けているのだから。




