東の宮 【一】
全てを拒絶し捨てることが出来たなら、この心は軽くなったのだろうか。
嫌いだ、と声を張り上げられたならば、この胸が締め付けられることもなかったのだろうか。
ああ、けれど。
そのような事、考えるだけ無駄なのだ。
ありもしない過去の選択肢に夢想しても何も生まれず。
運命とは、振り回される者でなく、掴み取った者にこそ相応しい言葉。
逃げ回ってばかりの私にはお似合いの結末だった。
ただ、それだけのこと。
―――夢見る時間は終わったの。朝日が昇る。さあ、一日をはじめよう。
流した涙は枯れ果てた。星空に手を伸ばしてももう遅い。
焦がれた一等星は流星となって他の誰の元へと旅立っていった。
―――ならば、私も私と別離を交わそう。
最後の別れだというのに、儀式も葬列も墓地もなくてごめんなさい。
永訣の朝。手向けの言葉があなたへの葬送となりますように。
「さようなら――あの人を慕った私」
さようなら。
さようなら。
何よりも誰よりもあの人に恋焦がれた私。
さようなら、私の初恋。
◆
私のもとに来客が訪れるのは、二週間ぶりの事だった。
「妃殿下。此度のこと、どのようにお考えか?」
人恋しさの余り、つい目通りを許可してしまったのが、後の祭り。挨拶も早々に疑問を投げかけられてしまった。『本日も妃殿下におかれましては』の一言からはじまる長々しい挨拶が無いのは有難いが、いきなり本題をズバッと切り出すのも如何なものか。
「唐突に話題を振りますのね」
「ご気分を害してしまったのなら申し訳ございません。回りくどいことは、苦手なもので」
来客の男――公爵家の子息、名をフレデリック・ヘイゼルと言う人物は、謝罪の為に頭を下げるも、先の発言を取り消すことまではしないらしい。
……まあ、いつかは誰かに尋ねられる事柄であるし。いいのだけれど。
「そう急かなくともいいと思いますの。まずは、紅茶でもいかがです?」
ただ、せっかく侍女が淹れてくれた紅茶もあるのだ。一口二口味わってから会話を切り出しても遅くない。
そう促すと、ようやく来客の男は紅茶の入ったカップに手をやり、「頂戴します」と呟いた。
私とヘイゼル卿がデッキテーブルを挟んで紅茶を嗜んでいる場所は、東の宮内にある住人共用のバルコニースペースだ。共用スペースであれば常駐の警備兵は勿論のこと、宮内を忙しなく行き来する侍女や女官の姿もある為、私個人への対男性の目通りはこの場所で行われる。
古くからこの国では、貴人の妻が夫以外の成人男性と密室で二人きりになることが御法度とされており、私も嫁いだ頃からその習慣に倣っている。妃としての立場がある以上、私室で目通りする訳にはいかない。
ここは白亜の宮殿の最奥。
国の政が行われる王宮の東側、国王とその妻子供らが日常生活を送る居住区を、宮中の人間は『東の宮』と呼んだ。
今でこそ当代の国王一家や近親の未婚女性王族だけが宮の住人であるが、先々代王の御世において東の宮は、輿入りした多くのうら若き乙女が国王の寵愛を得ようと競い合った場であったそうだ。表向き王家の血を絶やさない為のシステムとされていたが、実際のところは先々王が女道楽だっただけの話らしい。煌びやかに着飾った女性たちが宮中の主だった時代の面影はすでに薄れつつあり、当時を思わせる名残といえば、宮中のあちらこちらにある目立つ多数の空室ぐらい。先代王の御世に王族にも一夫一妻制が適用されるようになり、宮殿一、賑やかだった東の宮は一転して静かで穏やかな場所へと変容したとの事。
建前上とはいえ一夫一妻制が敷かれ早数十年近く。百人以上の女性が犇めき合った時より住人数は縮小し続け、今年初めには、東の宮の住人は数人しかいなかった。
アクロス王国第四代国王、グラディス陛下。
その子にして次期国王と目される、アーサー王太子殿下。
先王の末の姫、オルガー王女殿下。
先王の后、サマンサ王太后陛下。
グラディス陛下の后、マリアンヌ王妃陛下。
そして、七年五カ月前。
新たな東の宮の住人に加えられたのが、ヴァイオレット・ルフド・アクロスこと、アーサー王太子妃の私である。
「国王とその妻子らと近親の未婚女性王族」だけが暮らすようになった東の宮内において、愛と憎しみと権力が渦巻く事は久しく無かった。
―――はずなのだが。
どれだけ平穏が続こうが、壊れる時はあっさり壊れるものである。
幾年幾十年といった歳月が少しずつ構築したものでも、破壊される時はたったの一瞬。
嗚呼、現実は無常なり。
ヘイゼル卿が言った「此度のこと」。それこそが、数十年もの間、女の園としての役割を停止させていた東の宮に落とされた特大級の爆弾だった。
アクロス王国では王族にも一夫一妻制が適用されている、が、実際に抜け道はある。重婚、側室、公妾といった制度は存在しないと同時に、愛人を囲うことを規制する法も存在しない。富に余裕のある王侯貴族の男性たちの間では、正妻の他に愛人を囲う事が男の甲斐性・ステータスだと捕らえる風潮は今も根強い(大々的に言うことはさすがに憚られるが)。
ただし、本邸に向かい入れる女性は正規の法律で保障されている正妻だけ、というのが大鉄則。『家』に関わらせないかわりに、愛人には専用の別邸を与え何不自由なく暮らさせる。これが出来てはじめて男の甲斐性となる。この条件が成立させられない男は、そもそも愛人を有するには値しない、と評価される。
王侯貴族の妻である夫人たちも、『家』における自身の地位が確立されているからこそ、夫の少々の火遊びに目を瞑る。大抵、愛人関係で問題が発生するのは、妻が居るにも関わらず愛人を本邸に招き入れるといった場合に限るのだ。
(ああ、まったく。ややこしい事になってしまった。考えるだけで頭が痛くなってしまう)
白亜の宮殿に住まう男性王族ならば、本邸である東の宮で妻子供らを大切に慈しみ、王都と少し距離のある離宮に愛人を住まわせるといった形をとれば、何ら問題ない。正式な妻たる妃の機嫌が少し悪くなるだけ。
そんな程度で終わる話だというのに。
「ヘイゼル卿がおっしゃる「此度こと」とはどれのことでしょう。心当たりが多すぎて困ってしまうわ」
手に持っていたカップをソーサーに置き一息ついてから、改めて私からヘイゼル卿へと問う。
私の夫であるアーサー王太子殿下が、私が故国より嫁いだ時に連れてきた侍女の一人を御手つきにしたこと。正妻となり幾年もの月日が流れたというのに、未だアーサー殿下から夜伽の誘いが訪れないこと。はたまた、王太子妃の私より先に、御手つきになった侍女が懐妊し無事に子を産んだこと――等などは「此度のこと」から除外してもいいだろう。どれも、今更過ぎる問題だ。
アーサー王太子殿下に嫁いで七年と五ヶ月。次期国王として将来を有望視されているアーサー王太子殿下の寵愛を得られた機会は一度もない。「自分の可愛がっていた侍女に夫をとられた妃」と影で囁かれてまうほどに、愛からは遠い身の上だ。
夫からまったく顧みられないことに、私も、周囲の人間も、慣れてしまった。
「殿下がルル様に東の宮内に部屋を与えたことかしら。アグライア様の養育を、正妃の私ではなく実母であるルル様が行っていることかしら。……それとも、アグライア様に王位継承権を与えよう、という話でしょうか?」
私室の大きさや贈り物の量等、細かいことを挙げればきりがない。アーサー殿下の近習の一人であるヘイゼル卿が頭を抱え、王太子妃にその心の内情を直接聞いてくる程度には、頭のいたい問題が浮上し始めているらしい。
ちなみに、私が「ルル様」呼ぶ女性こそ、七年と三ヶ月前まで私付きの侍女として仕え、今ではアーサー王太子殿下の寵姫として愛され子まで生した人のこと。そして、二人の間に二年前生まれた女の御子が「アグライア様」である。
「先代王からの風習に倣うならば、そのどれもが大問題ですが……。俺が、妃殿下のお考えを拝聴したいのは、アグライア様の王位継承権についてです」
問われたヘイゼル卿は躊躇することなく返答してくる。
「……ですわよね。前者二つは『王室規範』の縫い目を掻い潜っていますもの」
「庶子とはいえ、アグライア様は王家の血筋のお生まれ。……どうしても、アーサー殿下と妃殿下との間に御子がお生まれにならないのならば、アグライア様の王位継承も可能ではあります。けれど、」
「けれど?」
「……っ」
けれど、と言ってから、ヘイゼル卿はかすかに眉を寄せた。
ここにきて初めて、何かを言いづらそうな態度をとる。
回りくどいことは苦手だ言い放つ男が、言いよどむほどの、言葉が紡がれようとし――、止まった。
「……今更、殿下の近習に気を使われましても。どうぞ、言葉を続けてください」
失礼ながら、と要りもしない前置きをしてから、ヘイゼル卿が口を開く。
「『妃殿下はまだ御歳二十とお若い。お体も健康であらせられます。今後、元気な御子を宿すことも大いに考えられる。次代を背負う御子には王太子妃殿下のお血筋のほうが相応しく。現時点で、アグライア様の継承権認証は早すぎるのではないか』と元老院から意見が出てまして」
あら、本当に。
「――――本当に、失礼だこと」
ヘイゼル卿の目通りを許可したことも。言葉を続けてと言ったことも。後の祭り。
後になって後悔ばかりだ。
◆
穏やかな風と共に春が訪れたあの日。私は隣国へと嫁いだ。
数台の馬車が列をなし王宮の城門へと続く大通りをゆっくりと進む。馬車の周囲を、鎧を纏った数十人の兵士たちが固めていた。
馬車の中からでも聞こえきた、民の声。幾千、幾万もの帝国皇女の到来を喜ぶ人々の声が、王都中に響き渡るようだった。
「アーサー王太子殿下万歳!」
「皇女殿下万歳!」
「お二人に祝福を! 未来ある王国の繁栄に幸あれ!!」
馬車の小窓から外を覗けば、溢れかえるほどにひしめき合う人々の姿があった。
王国の民は皇女を歓迎し、少女の背中によりよい国の繁栄を重ね合わせ、声が枯れるまで叫び続けた。
アクロス王国・王都リッテンゼルクは緑に恵まれた花の都。
春の息吹に誘われるように、色彩鮮やかな花が街のいたる所に見受けられた。
街から、遠くの平野を眺めてみれば、青々とした若葉がはるか彼方まで広がって、目の前には真新しい黄緑の絨毯がずっとずっと続いているような錯覚にとらわれた。
皇女に一目会おうと国中から王都へと集まった幾万もの人々が彼女の来訪を祝福する。
皆の両手には、二種類の旗が掲げられた。
双頭の龍が盾を守るように配されているルフド皇室の紋章の旗と、二対の羽根を持つ獅子を基調としたアクロス王家の紋章の旗。
風にたなびき、幾重にも重なる二種の旗が波のようにうねる様は、圧巻の一言だった。
「なんて、暖かくて優しい国なのかしら」
私、こんなにも素晴らしい国へと嫁ぐのね。
「本当に、本当に。左様でござますね、姫さま」
一緒にきてくれたルルも嬉しそうに同意してくれて。
「ええ、そうね。ルル。この国に嫁げて、私は、なんて、なんて、幸せ者なの」
アクロス王国とルフド帝国との同盟が成立したのは、七年と五ヶ月前。
大陸有数の強国となったアクロス王国だが、その歴史はまだ浅い新興国。対するルフド帝国は大陸随一の歴史を有する伝統ある国であるが、海に面していない内陸国。他大陸との貿易が重要になってきている昨今、港を有していないルフド帝国は他大陸との貿易で、他国より一歩遅れている状況があった。
内陸国であるルフド帝国は港が欲しい、新興国であるアクロス王国は歴史や格式が欲しい。山脈を介して隣り合う両国の思惑は一致した。
同盟の証として、アクロス王国王太子アーサーのもとに、ルフド帝国第六皇女が嫁いだのだ。
七年と五ヶ月前。
確かに私は、隣国の花嫁は。
ルフド帝国第六皇女ヴァイオレット・ルフドは、幸せだったはずなのに。
以前、小説家になろうにて掲載していた【初恋葬送】の改訂版となります。登場人物の年齢、性格など設定が異なる部分があります。
◆ヴァイオレット・ルフド・アクロス(20)
元・ルフド帝国第六皇女。現・アクロス王国王太子妃。
宮殿内の東の宮に住んでいる。結婚して七年以上になるが夜伽の経験はない。
故国から連れてきた侍女を王太子に召しだしだ。