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白い結婚の妻ですが、夫の甥だけは見捨てません  作者: 九葉(くずは)


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第二話 あの子も連れて出ます

 朝の光がまだ薄青いうちに、私は荷を背負って厩へ向かった。布にくるんだ三年分の帳面と、わずかな衣類と、それからロナンの手を引いて。子どもの手のひらはひんやりとしていたけれど、私の指をきゅっと握り返してくる力だけは、昨夜よりも確かになっていて、「置いていったりしない」と約束した言葉を、この子がちゃんと抱いて眠ったのだと、その握力で知れた。それだけで、まんじりともしなかった夜の疲れが、少しだけ報われた気がした。


 厩の前で私たちを待ち構えていたのは、オデッタ様だった。夜のうちに侍女から話が伝わったのだろう、寝起きの白粉が崩れたまま、それでも背だけはきっちりと伸ばして、彼女は私の行く手に立ちふさがった。

「ロナン様を、どこへ連れていくつもり」

 声は低かったけれど、その奥には、隠しきれない焦りが揺れていた。昨日まで「子守りの替えはいくらでもいる」と言い放っていた人が、明け方の厩までわざわざ出張ってくる――それだけで、この子がこの人にとってどれほど手放せない駒なのかが、透けて見えてしまう。


「後見人として預かっている子を、私の身の置きどころへ連れていく。それだけのことです」

「跡継ぎを屋敷から出すなど、許されると思っているの」

「ええ、思っています」と私は答えた。「後見の登録は宗主家の役所にあって、その原本に記されているのは、私の名です。屋敷に残っているのは写しだけ。あなたが何枚その写しを握っていらしても、ロナン様をどこで育てるかを決められるのは、後見人の私だけなのですよ」


 オデッタ様の喉が、ひくりと鳴った。反論を探して、見つけられずにいる――そういう種類の沈黙だった。私を追い出し、跡継ぎだけを手元に残して思うままに育て、領を握る。彼女が描いていたはずのその絵図の、いちばん大事な駒が、いままさに、自分の意思で私の隣に立っている。その一点が、彼女の用意してきた台詞を、片端から無効にしていた。


 ロナンは私の後ろにそっと身を寄せたが、それでもすぐには逃げず、毛布の縁から、じっとオデッタ様を見上げていた。怯えと、それでも何かを確かめようとする目で。

「……ロナン様。あなたは、この女に騙されているのですよ」


 オデッタ様が、声音だけをやさしく作って言った。けれどロナンは答えず、代わりに、私の上着の裾をいっそう強く握りしめる。その小さな手の主張を背中で受け止めながら、私はできるだけ静かに告げた。

「騙してなどいないことは、この子がいちばんよく知っています。三年のあいだ毎晩そばにいたのは――どちらでしたか」

 答えは、返ってこなかった。


 馬車が屋敷の門を抜けるとき、私は一度だけ振り返った。高い塀に囲まれた、乾いた石造りの屋敷。三年暮らしても、ついに一度として「我が家」とは呼べなかった場所だ。それでも、ロナンの寝室の小さな窓を見上げると、なぜだか胸の奥が疼いた。あの窓辺で、何度この子に物語を読んでやり、何度その額の熱を冷ましただろう。去ること自体は少しも惜しくないのに、あの窓だけは、ほんの少しだけ、名残惜しい。

 膝の上のロナンは、流れていく景色をじっと見つめていた。


「お屋敷、こわかった」

 ぽつりと、子どもがこぼした。私は驚いて、その横顔を見つめた。この子が自分から胸の内を言葉にしたのは、これが初めてだったからだ。

「うん」と、私はただ相槌を打った。余計なことは言わず、その四文字をまるごと受け止める。「こわかったね。よく、がんばったね」


 ロナンの目が、みるみる潤んだ。それでも声を上げて泣くことはせず、こくりと頷いて、私の腕に頭をことんと預けてくる。その重みと体温を抱きとめながら、私は、この子のためなら絶対に倒れてなどやるものか、と改めて自分に誓った。


 半日ほど揺られて辿り着いたのは、領の南にあるザイデ村だった。水の乏しいこの辺境で、それでも村人たちが辛抱強く井戸を守り、痩せた畑から麦を育ててきた土地だ。三年のあいだ、私は徴税のたびにここへ足を運んでは、井戸の深さを測り、子どもの数を数え、村長のセドラさんと幾度となく膝を突き合わせてきた。役目で通っただけの村のはずなのに、馬車が見慣れた辻にさしかかると、なぜだか、帰ってきたような心地がして、肩の力がふっと抜けた。


「ミレイアさん!」

 まっさきに駆け寄ってきたのは、セドラさんだった。白いものの混じった眉を寄せ、私の顔と隣の小さな子を交互に見比べると、彼は何ひとつ詮索せず、ただ大きく頷いた。

「事情は、風の噂で聞いてまさあ。――まあ、こまかい話は、あったかいもんでも腹に入れてからにしましょうや」

 その不器用なやさしさに、ずっと張りつめていた糸が、ようやくほんの少しだけ、ゆるんだ。


 村長の家の囲炉裏端で、セドラさんの奥方が、湯気の立つ汁物を椀によそってくれた。麦と、干した豆と、わずかな塩だけの、素朴な一椀。それでも、ことことと長く煮込まれたそれは、屋敷で出されたどんな立派な膳よりも、ずっと温かかった。ロナンははじめ、椀を両手で包み込んだまま、おそるおそる匂いを嗅いでいたが、思い切って一口すすると、ぱっと目をまるくして、それから、もう一口、もう一口と、夢中で匙を運びはじめた。


「……おいしい」

 子どもの頬が、ほんのりとほころんだ。屋敷では一度も見たことのない、肩から力の抜けた、ただの八歳の子どもらしい顔だった。それを目にした途端、胸の奥がじんと熱くなって、私は慌てて自分の椀に目を落とす。泣いている場合ではないのに、温かいものというのは、どうしてこう、涙腺のすぐ近くにあるのだろう。


 その晩、ロナンを寝かしつけてから、セドラさんが一通の手紙を差し出してきた。

「これ、あんたが屋敷を発つ前に、早馬で届いてたそうでね。あんた宛だ」

 封蝋には、ヴァルダの紋が押されていた。――アルヴィス様だ。

 受け取った指先が、われ知らず、わずかに震えた。離縁のことは、まだあの人の耳には届いていないはずだ。つまりこれは、何も知らないあの人が、何も知らないまま書いて寄越した手紙ということになる。そう思うと、たった一枚の紙を開くのが、なぜだか妙に怖かった。


 中身は、いつも通りの、そっけない事務の文面だった。国境の係争が長引いていること、戻りはひと月以上も先になりそうなこと、屋敷のことはくれぐれも頼む――それだけの、たった数行。けれど、その末尾に、ほかより少し小さな字で、一行だけ書き足されていた。

 ――『ロナンは、夜、きちんと眠れているか。』

 私は、その一行を、何度も指でなぞるように読み返した。

 領のことでも、財のことでもなく、あの人がまっさきに案じているのが、あの子の眠りだということ。いつも忙しなく屋敷を出ていくばかりで、私とはろくに言葉も交わさなかったあの人が、遠い中央の喧騒の只中から、ひとりの子どもの眠りを気にかけている。それを知った瞬間、冷たい人なのだと懸命に思い込もうとしてきた私の壁が、また一枚、音もなく剥がれ落ちた。

 ……ずるい。ほんとうに、ずるい人だ。

 手紙をそっと胸に当てて、私は小さく息をついた。返事には、何と書けばいいのだろう。離縁のことを、どう切り出せばいいのだろう。けれど、もしそれを正直に伝えてしまえば、この人はきっと、抱えている厄介ごとを何もかも放り出して、まっすぐ戻ってこようとする気がした。まだ、面と向かって心を交わしたことすら、数えるほどしかないというのに――どうしてか、そんな確信めいた予感だけが、胸に残った。


 灯りをひとつだけ残して、私はロナンの隣にそっと身を横たえた。子どもの寝息は、屋敷にいた頃よりも、いくらか深く、安らかだった。手紙のあの一行が、まだ胸の奥で、小さな灯のように灯っている。明日からのことが、何ひとつ楽でないことは、わかりきっていた。それでも、温かい一椀と、腕の中の痩せた肩のぬくもりと、たった一行きりの問いかけ――それだけあれば、私はまだ、どうにか立っていられる。


 その安らぎを破るように、宗主家の早馬がザイデ村へやってきたのは、翌朝のことだった。携えられていたのは、一通の通達。相続査察の通知である。正統な跡継ぎたるロナンの所在を、宗主家がじきじきに確かめにくるという。

 あの子を奪おうとする者と、あの子を守ろうとする私。その勝負の場が、いよいよ、静かに開こうとしていた。

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