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白い結婚の妻ですが、夫の甥だけは見捨てません  作者: 九葉(くずは)


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第一話 離縁状と遺言の写し

 ロナンの額に手を当てて、ようやく熱が引いたとわかった瞬間、私の肩から力が抜けた。

 よかった。声には出さず、胸の中だけでそう呟く。朝から三度も湯を替え、生姜を擦り、匙で少しずつ飲ませた甲斐があった。汗で湿った前髪を指で横へ流すと、子どもは眠ったまま、ほんの少しだけ、安心したように息を吐いた。

 その、やわらかい時間に、土足で踏み込んでくる音がした。


 扉も叩かず入ってきた侍女が、銀盆にのせた一枚の紙を、私の手元へ滑らせた。

 三行だけの、短い文面。離縁状だった。

 胸の奥で、何かが、すとんと落ちた。驚きよりも先に来たのは——ああ、今日だったのか、という、ひどく静かな諦めだった。


「お読みになりまして?」

 戸口に立っていたのは、オデッタ様だった。亡き前辺境伯と、いまの夫アルヴィス様の叔母にあたる人で、ロナンにとっては大叔母。家政と財布を握る、この屋敷でいちばんの実力者だ。その後ろには、オデッタ様の息子であるハーグ様が、満足げに腕を組んで控えている。二人とも、夫が遠い中央へ発つのを、待っていたのだ。

 私は、書きかけの養育記録を、そっと伏せた。インクが乾ききっておらず、指の腹が汚れる。それを膝の布で拭いながら、たった三行を、わざとゆっくり読んだ。早く読み終えてしまえば、次に何か言わねばならない。その「次」が、まだ怖かった。

「石女ゆえ、家格不足ゆえ、と」

「ええ。三年も子の気配がないのですもの。代官風情を正妻に据えたのが、そもそもの間違いでしたのよ」

 オデッタ様の声に滲んでいたのは、勝ち誇りではなかった。安堵だ。ようやく目障りなものを家から追い出せる、という、心からの。それがかえって、私の指先を冷たくした。


 ロナンが、寝台の上で身を固くしたのが背中でわかった。

 八つの子どもが、息を殺すのがこんなに上手い。それを覚えさせたのは、この屋敷だ。両親を流行り病で一度に喪った子に、ここの大人は誰ひとり、やさしい手を差し出さなかった。差し出したのは、たまたま嫁いできた、役目だけの妻だった私くらいのものだ。

 その私まで、追い出される。

 ——だめ。今は、震えるな。


 白い結婚だった。

 三年前、前の辺境伯ご夫妻が相次いで亡くなり、遺されたのは、まだ五つだった嫡子ロナン様と、若い弟君アルヴィス様。爵位は弟君が継いだが、領地の正統な跡継ぎは、兄君の子であるロナン様だ。あれから三年、八つになったいまも、ロナン様は、屋敷の隅で息をひそめて暮らしている。

 その幼い跡継ぎを育て、傾いた領の台所を回す。そのために選ばれたのが、代官の娘だった私——ミレイア・ケラーだった。徴税の段取りも、村々の帳面も、備蓄の割り当ても、父のそばで見て育った。情ではなく、その実務を見込まれて結ばれた婚姻。世継ぎが育つまでの、つなぎの妻。

 いつか切られると、覚悟はしていた。していたつもりだった。

 それでも、いざ紙を突きつけられてみると、覚悟などというものが、いかに薄っぺらいかを思い知る。喉の奥が、ひりついた。


「分かりました」

 声が、思ったより落ち着いて出たことに、自分で少し驚いた。

 オデッタ様が、わずかに眉を上げる。泣くか、縋るか、せめて取り乱すと踏んでいたのだろう。用意してきたであろう叱責の言葉が、行き場をなくして宙に浮くのが見えた。その顔を見たとき、私の中で冷たく固まっていた何かが、ほんの少しだけ熱を持った。

 ——そう。あなたたちは、私が泣くと思っている。

「離縁は、お受けします」

「……物分かりが、よろしいこと」

「ですが、一つだけ」

 私は伏せた記録の下から、もう一枚の紙を引き出した。三年前、前辺境伯が病の床で遺された、後見の指名状の写し。角がやわらかく擦り切れているのは、何度も読み返したからだ。心細い夜に、これだけが、私がここにいていい理由だった。

「あの子の後見人は、もとから私です。婚姻とは、別の話。離縁したくらいでは、消えません」

 言い切った瞬間、部屋の温度が、すっと下がった。


「……何を、言っているの」

 オデッタ様の声が、初めて揺れた。

「後見の登録は、宗主家の役所にございます。屋敷にあるのは、この写しだけ。原本がどこにあって、どう動かすのかは——私の手の内です」

 オデッタ様の口元が、笑みの形のまま凍りつく。ハーグ様の組んでいた腕が、ゆっくりとほどけて、脇に落ちた。その滑稽なほどの動揺が、不謹慎にも、少しだけ胸を空かせた。

「ロナン様を置いて出ていけ、とおっしゃるなら、それは後見人の私から、子を取り上げるということです。どうぞ宗主家にそうお書きください。なんなら、筆をお貸ししましょうか」


「……後見など、紙きれ一枚のことだ」

 ようやく、ハーグ様が吐き出した。押し殺したつもりの苛立ちが、語尾を尖らせている。

「病で気の弱ったご当主に書かせたものだろう。代官の娘に跡継ぎを預けるなど、正気の沙汰ではない。宗主家とて、まともに取り合うものか」

「では、お試しになっては」

 できるだけ静かに、私は返した。波風を立てたいわけではない。ただ、嘘で固めた言葉に、嘘で頷くことが、どうしてもできなかった。それは私の数少ない、譲れないところだ。

「気の弱った当主に書かせた紙きれだとおっしゃるなら、破棄も宗主家を通せばよろしい。なのにそれをなさらず、わざわざ夫の留守を選んで、私だけを離縁する。——ハーグ様。なぜ、そんな回りくどいことを?」

 ハーグ様の頬が、引きつった。図星を突かれた顔ではない。触れてはならないものに、こちらの指がかかってしまった、という顔だ。

 その一瞬で、確信に近いものが胸を走った。世継ぎだの石女だの、そんなものは口実にすぎない。この人たちには、夫が戻る前に私を追い出さねばならない、別の理由がある。


 私は立ち上がり、寝台のロナンに毛布を掛け直した。

「熱は下がったわ。今夜は、葛湯にしましょうね」

 ロナンが、私の袖をきゅっと握った。言葉はない。けれど、その指の力だけで、胸が締めつけられた。

 この子の好物。眠れない夜の癖。熱を出す前に、きまって耳の縁が赤くなること。それを書きつけた記録の余白に、いつからか、私のものでない走り書きが混じっていた。——「梨を煮ると食べる」「夜は灯りをひとつ残す」。

 夫の、アルヴィス様の字だ。

 あの人は、いつも忙しなく屋敷を出ていく。私とまともに口をきいたことなど、片手で足りるほどしかない。それでも、私の帳面だけは読んでいた。読んで、何も言わず、ロナンの枕元に煮た梨を置いて、また発っていった。

 冷たい人だと、皆は言う。私も、そう思おうとしてきた。——期待しなければ、裏切られないから。だからこの一行は、ずるい。私の作った壁の、いちばん薄いところに、するりと入ってくる。


「子守りが一人欠けたところで」

 オデッタ様が声を取り繕った。が、最初の余裕は、もう半分も残っていない。

「跡継ぎの世話なら、替えはいくらでもいます。お前のような卑しい生まれでなくとも」

「では、その替えの方に。来月の徴税の段取りと、冬を越す備蓄の割り当てを、今ここでお任せになりますか」

 返事は、なかった。

 領の財布を握っているのはオデッタ様だ。けれど、その中身を実際に数え、村ごとに割り、商人と掛け合ってきたのが誰かを、私は知っている。蔵の鍵の数と、出入りする荷の帳尻が、この二年、少しずつ合わなくなっていることも。

 ——けれど、まだ言わない。今は、まだ。確かな記録で固めぬうちに口にすれば、ただの腹いせになる。それでは、何ひとつ覆せない。怒りは、紙の上に積むものだ。声に変えてはいけない。私は奥歯を噛んで、せり上がるものを呑み込んだ。


 ふと、ロナンが、消え入りそうな声で言った。

「……ミレイア。ぼくの、せいなの」

 心臓を、直に掴まれた気がした。

 離縁が、自分のせいで起きていると思ったのだ。私が追い出されるのは、自分がうまく笑えない、可愛げのない子だからだと。

 私は寝台の横に膝をつき、子どもの目の高さに合わせた。

「ちがう。これはね、大人が、大人の勝手で決めたこと。あなたは、何ひとつ悪くない」

 声が、最後だけ少し掠れた。掠れさせたくなかったのに。この子に「お前のせいだ」と思わせる大人たちの中へ、この子だけを残していく——そんなことは、できない。離縁を受けると即答したとき、私の中ではもう、それだけが決まっていた。後見だの役目だのと並べた理屈は、たぶん、自分を奮い立たせるための飾りにすぎない。


「荷をまとめます」

 私は努めて事務的に言った。「持ち物は、多くありません。三年分の記録と、あの子と、この指名状の写し。それで足ります」

 ハーグ様が何か言いかけ、結局、口をつぐんだ。

 指先をもう一度、膝の布で拭う。落ち着け。手が震えていないか、声が裏返っていないか。役目があるうちは、立っていられる。役目さえ手放さなければ、私は、私でいられる。

 ——それが、私の臆病さの裏返しだということくらい、自分でもわかっていた。役に立たない私には価値がない。そう信じ込んでいるから、こんなときでさえ、徴税だの備蓄だのを盾にして、やっと背筋を伸ばしている。


「ロナン」

 私は振り返り、できるだけやわらかく呼んだ。

「少しだけ、遠くへ行きましょうか。私と、二人で」

 子どもの目が、不安に揺れた。知らない場所。また何かを失うのではという怯え。

 それでも、こくり、と頷いた。私の袖を握る手は、離れない。その小さな決心が、何より胸に来た。

 オデッタ様が、その様子を見て、ようやく笑みを完全に消した。手元に残しておけるはずだった跡継ぎが、自分の意思で、卑しい代官の娘の手を取ろうとしている。その意味に、今ごろ気づいた顔だった。


 離縁状を、私は丁寧に畳んで懐にしまった。捨てない。これも記録だ。

 いつ、誰が、どんな言葉で、何を切り捨てようとしたのか。全部、覚えておく。書きとめておく。

 それが、いま私にできる、たった一つの戦い方だった。


 その夜、与えられた小部屋で、私はわずかな荷を布にくるんだ。

 衣類は二着で足りる。装飾品は、もともと持っていない。代わりに、棚から三年分の覚え書きを順に下ろした。徴税の控え、備蓄の出し入れ、村ごとの井戸の深さ、ロナンの熱の記録。背表紙の擦れ具合だけで、どの帳面に何があるか、手が覚えている。

 その一冊を開いたとき、また、あの走り書きが目に入った。「梨を煮ると食べる」。

 ……ほんとうに、ずるい人。

 私は、ひとりで小さく笑って、それから、泣きそうになって、慌てて頁を閉じた。


「ミレイア」

 寝間着のロナンが、戸口に立っていた。眠れなかったらしい。手招きすると、子どもはおずおずと寄ってきて、私の隣にちょこんと座った。その体温が、布越しに伝わってくる。

「明日、出発するわ。少し揺れる馬車だけど、我慢できる?」

「……うん」

 それから、ロナンは小さな声で付け足した。

「ぼく、いい子に、する。だから——どこにも、やらないで」

 今度こそ、胸が詰まって、一瞬、息ができなかった。

 この子は、どこかへやられることに、慣れてしまっている。両親を喪ってから、誰の手にも長くは委ねられず、屋敷の隅で息を殺してきた。「いい子にする」は、この子が覚えた、生き延びるための呪文だ。八つの子に、そんな呪文を覚えさせた大人たちを、私は、たぶん一生許さない。

「やらないわ」

 今度は、理屈も役目も、間に挟まなかった。「あなたを置いていったりしない。約束する」

 ロナンの目が、ふいに潤んだ。それでも声を上げて泣かなかったのは、泣くことすら、この子はどこかで禁じられてきたからだ。私は、その小さな肩に、そっと手を回した。痩せた背中が、私の腕の中で、ようやく少しだけ、ゆるんだ。


 窓の外、乾いた夜空に、星が痩せて見えた。

 あの人は、まだ、私が離縁されたことを知らない。中央から戻るのは、早くてもひと月先だろう。

 戻ってきたあの人が、空になった子ども部屋と、合わなくなった帳尻を前にして、何を思うのか。——少しだけ、見てみたい気もした。

 それまでは、倒れるわけにはいかない。

 懐には、二枚の紙。私を切り捨てる紙と、あの子を守る紙。奪う紙と、守る紙。

 行き場のなかった娘が、生まれて初めて、自分の意思で守りたいものを選んだ夜だった。

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