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6.電設のヒデオさん、夜逃げする。


勇者召喚から3週間が経過した。本日は逃走決行日。天気は曇り。都合が良い。


昼間はいつも通りに過ごした。自分にとっての勇者教育最終日なので感慨深い事があるかと思ったが、そんな事は無かった。


夕食後、自室に戻ってすぐに仮眠を取った。耳にはイヤホン型の小型目覚まし時計を装着。これなら周囲に気付かれずに起きられる。



「うおっ!?……何度使っても慣れないな。脳味噌に響く……」



午前0時。時間通りに目覚まし時計が鳴り響いた。耳が痛いが、仮眠からは完全に目が覚めた。



「おはようございます。ますたー」


「うん、おはよう、妖精さん」



妖精さんは、いつも通り。いつ寝ているのか少し疑問に思ったが、今は関係無い。思考を切り替える。


王国から支給された寝間着を脱ぎ、召喚時の格好に着替えた。


ワイシャツ。ネクタイ。黒い上下のスーツ。黒い靴下。黒い革靴。黒い通勤カバン。闇夜に溶け込むほぼ黒尽くめの格好は、図らずも逃走に都合が良い。



「まずは警備状況の確認っと」



ウェアラブル端末で城内の状況を確認する。いつも通り、警備兵は少数。待機場所、巡回経路、タイミング、全て同じ。


とても戦時下とは思えないほどに警備はザル。千年以上も戦争していれば、城内警備はただのルーティンワークと化すのか。こちらにとっては都合が良い。


端末を通勤カバンにしまい、代わりに暗視ゴーグルを取り出す。電気で動くから、電気設備である。妖精さん謹製。



「暗視ゴーグル装着」


「わー。かっこいいです。ますたー」


「よせやい、照れるぜ」



暗視ゴーグルで部屋の中を見渡す。月は雲に隠れ、わずかに星が瞬く夜。いつもより室内は暗いが、問題無く見えている。


事前に一通り片付けは済ませていた。通勤カバンに入れられる家電はすでに収納済み。両端の留め具を外して完全開口すれば見た目以上に口は広がるので、ほとんどは収納できた。それでも、大きいサイズの家電は入らないので、置いていくしかない。


冷蔵庫の中身はカバンに入れたが、本体は放置。当然、便器も放置。便座は入れれば入りそうだが、なんか嫌なので置いていく。


ウォーターサーバーは縦に細長い形状だったので、カバンに入れられた。当面の飲み水には困らない。



「さあ、最後の仕上げといこうか。妖精さん、時限爆弾セット。爆破予定時刻は午前3時で」


「はい。セットしました。ますたー」



大型家電は置いていくが、そのまま置いてはいけない。城から逃げる以上、自分の能力を推測できそうな要素は可能な限り消さなければならない。


爆破処理する。



「これはアレだ。人を傷付けるためのアレじゃなくて、発破用のダイナマイト的なアレだから、一応セーフって事で」


「ますたー。セーフですか?」


「うん、セーフだよ、セーフ。人を傷付けないならセーフ」



元々、ダイナマイトは工業用に開発されたものである。悪いのはダイナマイトを殺傷用に転用した連中であって、ダイナマイトも開発者のノーベル氏も悪くない。それと同じように、証拠隠滅用の道具としての爆弾を妖精さんに出してもらっても悪くない。


そう自分で自分に言い訳する。本当は妖精さんに爆弾など出させたくはないが、我が身の安全を考えればそうも言っていられない。



「この部屋はこれでいいか。よし、次行くよ、妖精さん」


「ますたー。あれは置いていくのですか?」



窓から外に出ようとした所で、妖精さんに呼び止められた。妖精さんが指差す先にあったのは、光の魔道具だった。



「これかぁ……照明器具としては微妙だし、別にいらないけど……持っていくか、一応」



この部屋に残して置いても、爆破に巻き込まれてガラクタになるだけ。勿体無いので、光の魔道具を通勤カバンに収納した。



「よし、それじゃあ今度こそ出発」


「ますたー。これは置いていくのですか?」



再び妖精さんに呼び止められた。ベッドの上にチョコンと座っていた。可愛い。思考が乱れた。



「ベッドシーツ……持っていくか」



この部屋に残して置いても、爆破に巻き込まれて灰になるだけ。勿体無いので、ベッドシーツを通勤カバンに収納した。



「気にし出すと気になるな……全部持っていくか」



この部屋に残して置いても、爆破に巻き込まれてゴミになるだけ。ホテルの備品をかっぱぐ宿泊客のように、目に付いたものを手当たり次第に通勤カバンに放り込んだ。


元から飾り気の少なかった部屋は、全てを収納し終わると殺風景にもほどがある有様になっていた。もうこれは絶対に誰にも見られる訳にはいかない。



「妖精さん、時限爆弾追加、室内に満遍無く配置で」


「はい。追加しました。ますたー」


「よし、それじゃあ本当に今度こそ行くよ。忘れ物は無い?」


「わすれもの?それはなんですか?」


「……うん、無さそうだし、行くか」



窓から外にロープ代わりの電源ケーブルを出した。大人が全体重を乗せてもビクともしない頑丈なケーブルを掴みながら、城の外側を壁伝いに移動する。


勇者は辞めても、勇者級の身体能力は健在である。某怪盗三世のような軽業アクションも力業で再現できる。


次の目的地は、勇者召喚陣のある石室。その直上。



「念のため、警備状況を再確認っと。……本当に気付かれてないのか、これ?」



警備状況は変わらず。ここ数日の作業に気付かれた様子は無い。ザルすぎる。


都合が良すぎて不安になるが、今更中止はできない。先日までの作業の続きだ。


通勤カバンから丸ノコと消音スピーカーを取り出し、セットする。


妖精さん謹製の消音スピーカーを使えば、騒音は1割以下に低減される。超高性能である。


騒音対策を施し、丸ノコで外壁を削る。すでに大きな切れ込みが入れてあり、9割方は終わっている。最後に残った部分を慎重に切り離し、瓦礫を落とさないように通勤カバンに収納する。


石室の天井部分に大人一人が通れるだけの穴が開いた。


城内から石室へと至るための経路は一つだけ。正規ルートを通ろうとすれば、通路の入口を常時警戒している警備兵に絶対に見つかる。だが、石室そのものは警備の対象外。秘密を守るためなのか、付近には誰も近寄れないようになっていて、警備兵はいない。


石室の中に入ってしまいさえすれば、こっちのものだ。外壁を削る音にさえ気付かれていないのならば、室内で多少の物音を立てても気付かれる心配は無い。



「妖精さん、電源ケーブル、ちょい長めで」


「はい。電源ケーブルです。ますたー」



穴から電源ケーブルを垂らし、石室内に侵入する。


石室の床板は大理石の一枚岩。そこに勇者召喚陣が刻印されていた。



「妖精さん、照明器具一式セット、魔法陣をライトアップして」


「はい。ライトアップしました。ますたー」



魔法陣をスタンドライトが取り囲み、照らし出す。自分をこの世界に呼び付けた元凶であり、元の世界に帰るための最重要の手掛かりである。



「妖精さん、上から魔法陣の全体像がわかるように写真を撮って欲しいんだけど。これカメラね」


「はい。写真を撮ります。ますたー」



通勤カバンからコンパクトデジタルカメラを取り出して、妖精さんに手渡す。手乗りサイズの妖精さんには大きすぎるくらいだが、割と苦も無さそうに持ち上げると、そのまま天井付近まで飛び上がって写真撮影を始めた。


妖精さんには実体が無く、基本的には物理干渉できないが、例外的に電気設備にだけは物理干渉が可能だった。コンデジは電気設備という扱いになっているので、持ち上げる事もシャッターボタンを押す事もできる。


そもそもコンデジを創造したのは妖精さん自身である。妖精さんに創造してもらったコンデジなのだから、妖精さんが使えるのは当然だろう、多分。



「ますたー。写真が撮れました」


「ありがとう、妖精さん。後は俺がやるから、休憩しててね」


「はい。休憩します。ますたー」



妖精さんからコンデジを受け取り、接写モードに切り替えて魔法陣の細部を撮影していく。



「……召喚された時は気付かなかったけど、ずいぶん歪んでるな……なんでこんな汚い魔法陣で召喚できるんだ……」



勇者召喚の魔法陣は、全体の大きさは目算で直径5m程度。素人目に見ると、機能美の欠片も感じられない汚い魔法陣だった。


中心部付近は真円と直線の組み合わせで描かれた綺麗な幾何学模様になっているが、外側に行くほど徐々に形が崩れていく。まるで、歪さが売りのバームクーヘンのように、外周部はグニャグニャで歪みが酷い。



「……どうして俺みたいな勇者らしくない人間が勇者召喚されたのか、ちょっと疑問だったんだけど……これじゃあなぁ……」



詳細は不明だが、原因は一目瞭然。こんなに醜い魔法陣なら、バグの一つ二つ起こっても不思議は無い。



「……いや、細かい事を考えるのは後だ。魔法陣の検証は後でゆっくりやればいい。とにかく今は撮影に集中しよう……」



歪みが気になるが、今はそれよりも写真撮影に集中する。撮影し損ねた部分があると、後で困る。どんな些細な形状も見逃さぬよう、接写して何枚も写真を撮った。



「こんなもんでいいかな。妖精さん、また仕事頼みたいんだけど、大丈夫?」


「はい。大丈夫です。ますたー」


「それじゃあ、時限爆弾セット。爆破予定時刻は午前3時ね」


「はい。セットしました。ますたー」



爆破処理する。


魔法陣の真ん中に時限爆弾を設置。これは絶対に残して置けない。


王国にとって、この魔法陣が持つ意味は重い。もしかしたら、よそ者の自分が思っている以上に重いのかもしれない。それでも爆破処理する。


勇者召喚が行われるのは50年に一度だけ。世界全体からすれば、気にするほどの事では無いのかもしれない。それでも爆破処理する。


召喚されて良かったと思っていた者がいたのかもしれない。召喚されたいと思っている者がいるのかもしれない。それでも爆破処理する。


とにかく爆破処理する。欠片も残すつもりは無い。



「……爆弾一つじゃ足りないかな……?」



床板は大理石の一枚岩。厚みは不明。確実に粉々にしたい。できれば丸ノコで切れ込みを入れたいが、あまり作業時間は取れない。



「物量で押し切る!妖精さん、時限爆弾を追加、山盛りで!」


「はい。山盛りです。ますたー」



魔法陣の上に、大量の時限爆弾が積み上げられた。数はわからないが、魔法陣が埋まって見えなくなるくらいある。これだけあれば破壊できるだろう、多分。



「ここはこれで良し。次行くよ、妖精さん」


「はい。ますたー」



電源ケーブルをよじ登って石室を脱出した。




城内の警備状況を適宜確認しつつ移動する。


次の目的地は城の書庫。普通に入口から侵入した。


書庫の広さは、小学校の図書室くらい。蔵書数は少なめ。ショボい。



「……こういう城の書庫の奥には、禁断の書物が隠されてたりするのがお約束なんだけど……」



デジタル探知機を使って、書庫は事前に調査済み。禁書の収められた隠し部屋のようなものがあるかもと密かにワクワクしていたのだが、そんなものは無かった。


不審なスペースはあった。中には春画が入っていた。つまらない書庫である。


それでも、万が一の可能性はゼロではない。もしかしたら、見落としがあるかもしれない。あるいは、何らかの魔法的な隠蔽処理が施されていて、自分では気付けないのかもしれない。もしも勇者召喚の魔法陣に関する資料が残されていたら、復元されてしまうかもしれない。



「妖精さん、時限爆弾セット。午前3時で」


「はい。セットしました。ますたー」



爆破処理する。



「普通の資料もあった方が良さそうだし、持っていくか」



どうせ残しておいても灰になるだけ。書庫の蔵書は全て通勤カバンに収納した。ついでに春画も収納した。



「空いてるな……埋めるか。妖精さん、時限爆弾を本棚に並べて」


「はい。並べました。ますたー」



本棚には本の代わりに爆弾を並べた。ついでに春画の入っていたスペースにも爆弾を押し込んだ。



「よし、次行くよ。妖精さん」


「はい。行きます。ますたー」



書庫を後にした。次の目的地は食料保存庫。普通に入った。



「……案外こういう場所に重要な資料が隠されてるかもと思ったんだけど……」



へそくりを冷蔵庫に隠す主婦がいるらしい。そういう噂を聞いた事がある。こういう重要なものが何も無さそうな所にこそ、あえて重要なものを隠しているかもしれない。


デジタル探知機を使って、食料保存庫は事前に調査済み。何も無かった。ネズミの大群と遭遇した時は悲鳴を上げそうになった。


おそらく普通の食料保存庫だ。隠し物の気配が微塵も無い。それでも、万が一の可能性はゼロではない。



「妖精さん、時限爆弾セット。午前3時」


「はい。セットしました。ますたー」



爆破処理する。



「隠し物がどうこう以前に、肝心の食材があんまり入ってないんだよなぁ……質も量もイマイチ……」



食料保存庫は、冷蔵設備も何も無いただの倉庫である。冷暗所にはなっているが、保存機能はあまり無い。


日持ちしない食材は毎日納入され、その日の内に消費し、使い切れなかったものは廃棄される。日持ちする食材でも1週間は持たないため、入れ替わりが早い。


王国の最近の財務状況では食費を捻出するのにも一苦労らしく、食品廃棄ロスを気にしているらしい。



「碌な食材無いけど、食べ物を粗末にするのはダメだな。持っていくか」



残しておいても灰になるだけ。食料保存庫の中身を全て通勤カバンに収納。



「詰めるか。妖精さん、爆弾追加で」


「はい。追加しました。ますたー」



食料の代わりに爆弾を詰めた。



「ついでに厨房に寄ってこうかな。すぐそこだし」



厨房に入った。普通。調査済み。可能性はゼロではない。



「妖精さん、爆弾セット。午前3時」


「はい。セットしました。ますたー」



爆破処理する。



「あって困る物でも無いし、持っていくか」



通勤カバンに収納。



「妖精さん、爆弾追加」


「はい。追加しました。ますたー」



爆弾を詰めた。



「よし、次」


「はい。ますたー」



その後も、目星を付けた所を順繰りに巡っていった。




昼間は多くの人が行き交う場所も、夜間は無人になる。下っ端の下働きも、上役の高級官僚も、みんな定時上がり。深夜残業する人はいない。


この世界では照明のコストが高く、日没後に仕事をするのは割に合わないらしい。必然的なホワイト業務体制。おかげで夜は自由に動ける。都合が良い。


城内の各所は全て事前に調査済み。しかし、万が一の可能性はゼロではない。時限爆弾をセットし、爆破処理する。


勿体無いので、室内のものは手当たり次第に通勤カバンに収納した。



「さて、人のいない所は一通り回ったし、もういいかな。妖精さんは、他にどこか寄りたい所はある?」


「さあ?よりたいでしょうか?」


「……うん、寄りたい所は無いみたいだね。じゃあ脱出の準備しようか」



最後に、もう一度だけ警備の状況を確認する。


城内のほとんどはザルだ。


ほとんどはザルだが、1ヶ所だけ他よりも明確に警備の固い場所がある。


何度確認しても隙が無い。



「……王様を吹き飛ばす訳にもいかないし……妥協するしかないか……」



王族のプライベートエリアだけは警備が固かった。特に寝室の周辺は警備ガチガチである。


昼間の内なら、王族の同伴があれば立ち入る事ができたので、各種センサー類は設置済み。隙を見て調査をしたかったのだが、調査ができるほどの隙はついに一度も生まれなかった。更に言えば、いつでも必ず誰かがいるので、爆破処理もできない。


勇者召喚の魔法陣は、王族の秘中の秘。何らかの重要な資料が王族のプライベートエリアに隠されている可能性は高い。それでも、諦めるしかない。無理をして捕縛されたら元も子も無い。


もしも勇者召喚の魔法陣が復元されてしまった時は、次に召喚された勇者に後始末を任せる。


自分にできる事はした。給料も出ないのに良くやったと自分で自分をほめても良いくらいには頑張った。後は知らん。


未練を振り切り、脱出のための起点へと向かった。



「……た、高い……これ思ったより怖いな……」



城の外壁をよじ登り、一番高い尖塔の頂上部に到着した。寒くないのに体が震える。こんな場所を選んだ事を少し後悔した。



「……今更ビビッてどうすんだよ……気を引き締め直さないと……」



これから脱出のための電気設備を設置しなければならない。今まで特訓で出してきたものとは比べ物にならない、最大規模の電気設備だ。



「妖精さん、ここから北側10kmの地点まで送電線を繋げて。それと鉄塔も。高低差は大きめに付けて欲しいんだけど、できる?」


「はい。送電線と鉄塔です。ますたー」



いつも通り、一瞬で送電線と鉄塔が設置された。尖塔と鉄塔は一体化し、そこから真っ直ぐ北の方角に送電線が伸びている。


対となる鉄塔が遥か彼方に立っているはずだが、暗闇に溶け込んでしまって視認できなかった。



「……ゴールが見えない……王都の外まで伸びてるはずだけど……」



一般的な径間長の約10倍。世界最長記録の約2倍。過去に前例の無い超長距離の送電線。改めて考えると、とんでもないものを出してしまったと呆れるしかない。


送電線としては安全マージンが低すぎて常用できないだろう。だが、今回限りの使用であれば強度は足りるはずだ。足りると信じる。


まずは試しにLEDランプを通勤カバンから取り出し、スイッチを入れて送電線に引っ掛けてみた。


重力に引かれて斜め下方へと滑り、小さな光が流れていく。周囲の闇が濃すぎて距離感やスピード感はよくわからないが、とりあえず途中で送電線が切れている心配は無さそうだ。



「妖精さん、はぐれると困るし、胸ポケットに入ってくれる?」


「はい。ポケットに入ります。ますたー」



あまり心配いらない気もするが、用心して妖精さんには上着のポケットに入ってもらった。


お人形さんを持ち歩く危ない人みたいな格好だが、気にしない。


妖精さんの姿は誰にも見えないので、気にしてもしょうがない。



「……まさか、これを使う日が来るとは思わなかったよ……」



通勤カバンから、銃身の折れ曲がったスナイパーライフルを取り出す。


勇者級の膂力で更に折り曲げ、への字型にして送電線に引っ掛ける。


体に通勤カバンを括り付け、への字の両端を強く握った。



「……こんなもんで本当に行けるのか……?」



今更ながら不安になった。正直、自信は無い。今からでも引き返したい衝動に駆られる。



「迷ってどうすんだ!妖精さん、送電線の接続部に時限爆弾セット!爆破予定時刻は午前3時で!」


「はい。セットしました。ますたー」



これで全ての準備は完了した。正真正銘、もう引き返せない。先に進むしかない。



「ええい、ままよ!」



暗闇へと身を投げ出し、ワイヤー代わりの送電線を滑り降りた。



「こここ怖ええええええええっ!?」



静かにしていた方がいいと頭ではわかっている。でも怖い。怖くて声を抑えられない。


上下左右全てが暗闇。暗すぎて何も見えない。本当に前進しているのか。実は送電線が切れて落ちているのではないか。感覚が狂う。


手に伝わる振動と耳鳴りのような風切り音が恐怖を増幅する。送電線からギシギシと嫌な音が聞こえる。


夜天は曇り、月も星も見えない。地上の街に灯りは見えない。対の鉄塔は見えない。暗い。先行するLEDランプの光が頼りなく揺れている。


怖い。超怖い。ひたすら怖い。怖すぎる。



「こんな脱出ルートを考えたアホは誰だああああああああっ!?」


「ますたーです」



恐怖の滑走は30分も続いた。






30分後、無事にゴールに着いた。



「し、死ぬかと思った……もう二度とゴメンだぞ、こんなアトラクション……」



肉体的には疲労は無いのに、精神的にはヘロヘロだ。休みたい。でもまだ休めない。


現在時刻、午前2時。爆破予定時刻まで残り1時間。



「……さっさと移動しよう……ここまで来て捕まったらマヌケすぎるし……」



本音を言えば、時限爆弾の起爆を確認してから出発したい。しかし、確認する意味は無い。


もし仮に時限爆弾が不発だったとしても、今更城へは戻れない。これからの行動予定は変わらないのだから、少しでも先に進んだ方がいい。



「妖精さん、自転車、出してくれる?電動アシスト付きのヤツで」


「はい。自転車です。ますたー」



電動アシスト付き自転車が出た。いつも通勤に使用していた自転車に瓜二つ。相変わらず、メーカー名や生産国の表記は無い。


自転車の鍵には、キーホルダー代わりの鈴が付いていた。近所の百均ショップで購入したゴルフボール大の鈴で、密かなお気に入りの一品。


ちょっとだけテンション上がった。



「よし、行くか」



ペダルに足をかけ、漕ぎ出そうとして、最後にもう一度だけ城を振り返る。



「……もう3週間もいたんだよな……その割には思い出無いけど……王都見学くらいしたかったなぁ……」



今にして思い返せば、事実上の軟禁生活だった。


昼間は勇者教育で忙殺され、自由時間はほとんど無かった。


夜間はみんな寝ている時間なので、自室で妖精さんと二人きりで過ごした。


勉強や訓練で充実はしていたものの、思い出らしい思い出は無い。


お披露目までは勇者の存在は一般には秘密と言う事で、交流を持てた相手は限定的だった。その内の大部分は王族との交流で、ほぼ苦行にも等しい義務的な交流だった。


侍女の人や騎士達などは、良くも悪くもビジネスライクな姿勢を貫いていて、仕事に支障が出ない程度の浅い交流だった。特に親しくなった人はいない。騎士団長閣下のリア充っぷりに死ぬほど嫉妬した事以外には、特に思い出は無い。


活動範囲は城内限定だった。今夜の脱走時にすら、疑似ジップラインでスルーしてしまったので、ついに王都にはただの一歩も踏み入らなかった。当然、王都での思い出は無い。


嫌な思い出ならある。飯はうまくなく、服はゴワゴワで着心地が悪く、ベッドは硬くて寝心地が悪く、便所は汲み取り式で臭かった。


全体的に生活レベルが低くて、毎日ただ普通に生活しているだけでイライラを感じる日々だった。


妖精さんに電動シェーバーを出してもらってヒゲを綺麗に剃れた時の感動が、ある意味、一番の思い出かもしれない。それ以上の思い出が無い。


濃密でカラッポな3週間だった。



「いや、まあ、これっぽっちも後ろ髪を引かれないようにしてくれたと思えば、悪くはないか。そこだけは感謝してもいいかな」


「ますたー。感謝してるのですか?」


「……いや、やっぱり全然感謝する事無いな。さっさと行こうか。妖精さん」


「はい。ますたー」



城から目を離し、妖精さんと共に南に向かって走り出した。



「おっと、忘れる所だった。妖精さん、鉄塔に時限爆弾セット。午前3時で」


「はい。セットしました。ますたー」



今度こそ本当に走り出した。


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