10.電設のヒデオさん、助ける。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
※作中の行為を真似しないでください。大変危険です。
電気柵のすぐ傍に、エルフの女性が倒れていた。
作り物めいた完璧な美貌。透き通るような白い肌。艶の無い灰色の髪。長い耳。膨らんだ胸。
美しい女性だった。その表情はただ眠っているだけのように穏やかで、思わず見惚れそうなった。
それとは裏腹な全身を染め上げる赤黒い血の恐ろしさに肝が冷えた。
「し、死んでるのか?本当に?」
怖い。心が怯え、頭が鈍り、体が竦む。
自分にとっては、死体も流血も縁遠い。映画やドラマに色彩を与える要素の一つにすぎない。
葬式で祖父母の遺体を見た事はあるが、身綺麗で血は付いていなかった。
大量の血液なんて、針金製のハンガーが頭にブッ刺さった時の出血くらいしか見た事が無い。
手で触れられる距離に本物がある。その事実だけで恐怖に縛られる。こんな恐怖を自分は知らない。
「うええええええええんっ!」
鬼の号泣する声で、鼓膜が痛い。痛みのおかげで、体の縛りが少しだけ緩んだ。
「か、確認だ。とにかく確認しないと。ええっと、まずは意識の確認、か?」
女性の体を揺するために、肩に手を置いた。
ベトリッと気持ち悪い血の感触が掌に伝わった。
「ひぃっ!?……なんなんだよ、くそっ、もうっ、くそっ!」
思わず離してしまった手を、再び肩に置き直す。
耳元に口を近付け、できるだけ大声で呼びかけながら体を軽く揺する。
「大丈夫ですか!起きてください!大丈夫ですか!」
「やっばりおねえぢゃん死んでるー!うええええええええんっ!」
何度も呼びかけたが、意識が戻る気配が無い。自分の声より遥かに大音量の泣き声にも全く反応が無い。
肩から手を放し、掌を上着で拭う。
「つ、次の確認は、ええっと、呼吸と心拍、か?」
鼻の穴と口元に手をかざす。空気の流れが無い。呼吸していない。
首筋に指を押し当てる。指先に振動を感じる。鼓動がある。心臓は動いている。
この人は生きている。
「い、生きてる。でも、心拍があるのに呼吸が無い……。弱っている体にショックを受けて、自発呼吸に必要な筋肉が止まってるのか!?」
自分は医者でも看護師でも救急救命士でも無い。
詳しい事は、わからない。
正しい対処は、わからない。
それでも、わかる。
この人はまだ生きている事は、わかる。
このまま何もしなければ死んでしまう事は、わかる。
今この場で何とかできるのは自分しかいない事は、わかる。
この人の生死が自分のせいで決まってしまう事は、わかる。
「勘弁してくれよ……っ……」
普通のサラリーマンに、他人の命は重すぎる。
他の誰かに任せたい。怖い。家に戻って寝たい。気付かなかった事にしたい。
逃げたい。逃げられない。ここで逃げたら一生悪夢にうなされる自信がある。
それが嫌なら何とかするしかない。
「うええええええええんっ!」
「ええい、ピーピーうるせぇ!助けてやるから静かにしてろ!」
「……っ……」
怖さを紛らわせようと声を荒げた。鬼の少女に八つ当たりしてしまった。
こちらの理不尽な声に律義に従い、少女は口に手を当てて必死に泣き声を抑えようとしていた。
これでもう本当に逃げられない。子供相手に啖呵を切っておいて、大の大人が逃げる訳にはいかない。
実践した事は無いが、訓練した事はある。自動車教習所と、会社の新人研修の時だけなので、若干記憶が怪しい。でもやるしかない。
「確か、仕舞いっぱなしにしておいたはず……、あった!」
通勤カバンからマウスピースを取り出す。新人研修の講習後に配布されたものだ。小さくて嵩張らないので、そのまま入れっぱなしだった。
ブサイクな人形相手に人工呼吸の練習をさせられた時は、もうこれっきり使う機会は訪れないと思っていた。捨てなくて良かった。
女性の頭を上向きに傾け、マウスピースのシートを広げて口に被せる。
鼻をつまみ、口を当て、息を吹き込んだ。
「~~~~~~~~」
息を吹き込みながら、女性の肺に空気が届いているか横目に確認する。
脂肪の塊が邪魔だ。よくわからない。
肺に空気が届いていると信じる。
「っ、姉ちゃんに何してるんだ!離れろニンゲン!ぶにゃっ!?」
肩に何か当たった気がする。気にしている余裕が無い。
今は目の前の女性以外はどうでもいい。
口を離し、息を吐かせる。口を当て、息を吹き込む。
ひたすら同じ動作を繰り返す。何度も何度も繰り返す。
「~~~~~~~~」
息を吸うのが辛い。息を吐くのが苦しい。自分の肺が重たい。
女性の呼吸が戻らない。
首筋に指を押し当てる。まだ鼓動がある。まだ生きている。
まだ生きているから続ける。
口を当て、息を吹き込む。口を離し、息を吐かせる。
ひたすら同じ動作を繰り返す。何度も何度も繰り返す。
「ニンゲンめ!姉ちゃんに変な事するな!」
「ダメー!おじぢゃんの邪魔じぢゃダメなのー!」
頭が酸欠になったようにクラクラする。思考が麻痺する。
何回やった。何時間経った。何をしている。何のために動いている。
くるしい。つらい。にげたい。やめたい。やめてはいけない。
口を当て、息を吹き込む。口を離し、息を吐かせる。
ひたすら同じ動作を繰り返す。何度も何度も繰り返す。
「~~~~~~~~」
口を当て、息を吹き込む。
果たして、それは何度目の事だったのか。
「――がはっ、ごほっ、ごほっ、はぁっ、はっ、はぁっ、はっ、はぁっ」
「おねえぢゃん!」
「姉ちゃん!」
女性が咳き込み、マウスピースを吐き出した。息を吹き返した。
「は、はははっ!どうだ見たか!やってやったぞ!はははっ!」
変な笑いが出た。立ち上がろうとして、急に体の力が抜けた。重力に逆らわず、そのまま仰向けに転がる。
「はははっ……死ぬほどキツイわ、これ……もう二度とゴメンだぞ、人命救助なんて……」
もういっそ、このままここで寝てしまおうか。そんな誘惑に駆られた。気分的にはHPが満タンでMPが枯渇している状態。眠い。
「良がっだのー!おねえぢゃん生ぎ返っだのー!」
「……ここは……私は一体どうなって……?」
「目が覚めたんだな!姉ちゃん!良かった!良かったよぉ!」
「……お前達は……無事のようだな……良かった……本当に良かっ、ぐっ、うぅっ……!?」
「あああっ!?おねえぢゃん!どうじだの!?おねえぢゃん!」
「姉ちゃん!大丈夫か!?姉ちゃん!」
寝たいが、まだ寝るには早い。女性の呼吸は戻ったが、ただそれだけ。このままこの場に放置したら、明日の朝日が昇る前にまた呼吸が止まりそうな気がする。
今更ながら、三人の格好が気になった。囚人の方がマシなくらい格好が酷い。
貫頭衣のようなシンプルな布を纏い、足は裸足。
女性のボロ布は大量の血液で赤黒く染まり、至る所に斬り付けられた痕がある。
子供達の方は斬られていないようだが、薄汚れていて汚い。放って置いたら変な病気になりそうな汚さだ。
傍らには短剣が落ちていた。ボロ布とは違い高級そうで、実用品と言うよりは宝飾品に見える。とても三人の持ち物には見えない。
元の世界なら、全力で見て見ぬフリをしていただろう。
今も全力で見て見ぬフリをしたい。
「……はぁ……ここまでやって死なれたら目覚め悪すぎるし……見捨てられないよなぁ……」
死ぬほど怠いが、思ったほどには体力を消耗していない。ほとんど気疲れだ。
ガス欠寸前の気力を振り絞り、体を動かす。
「……また気を失ったのか……まあ、その方がいいか……下手に抵抗されても面倒だし……」
右腕を女性の背中に回し、左腕は女性の膝の裏に入れ、横抱きにして抱き上げた。
ベトッとした感触が気持ち悪い。
「ニンゲン!今度は何する気だ!姉ちゃんを離せ!」
「うるせぇ!お前の姉ちゃんを助けるんだよ!邪魔すんな!」
猫耳少年が横から攻撃してくる。そして全て物理反射で弾かれる。ダメージは無いが鬱陶しい。
「おい、黒いの。このままだと、お前の姉ちゃんは死ぬぞ。今度こそ本当にな」
「う、嘘だ!姉ちゃんが死ぬもんか!ニンゲンの言う事なんか信じないぞ!」
「そんなに吠えるなよ。少しは信じろ、助けてやるから」
「信じるもんか!姉ちゃんはこの変なのに触ったせいで倒れたんだぞ!ニンゲンの仕業だろ!オレはわかってるんだ!」
「それは……それについては悪かったよ。謝る。すまなかった」
「……っ……」
猫耳少年に向かって頭を下げる。こちらが頭を下げたのが予想外だったのか、少年は狼狽していた。
女性が電気柵のせいで死にかけたのは事実だ。一歩間違えれば、妖精さんに設置してもらった電気柵で人を殺す所だった。
電気柵には、人を斬り刻む機能は付いていない。女性は最初から傷だらけで衰弱していたのだろう。その分、自分の罪は軽くなるかもしれない。それでも、罪が消える事は無い。過失割合など知らん。
もしまた同じような事故が起きた時、同じように蘇生できる気は全くしない。今回は運が良かっただけ。運が悪ければそのまま死んでいた。
「一応言い訳させてもらうなら、こんな事になるとは思ってなかったんだよ。精々この家に近付いてくる奴をビビらせて追い返すくらいのものだと思ってたんだ。俺の見積もりが甘かった。本当に悪かった。すまなかった」
「……っ……」
「これについての文句なら後で幾らでも聞いてやる。でも今はこっちが優先だ。邪魔するな。って言うか手伝え。お前も姉ちゃん助けたいだろ?」
妖精さんに安易に電気柵の設置を依頼したのは自分だ。当然、責任は自分にある。責任分の償いはしなければならない。
それに、もっと単純な話として、助けられるなら助けたい。
「……ホントか?ホントに姉ちゃんを助けてくれるのか?」
「できる限りの事はしてやるよ。俺は医者じゃないから大した事はできないけどな。ここに寝かせるよりマシな寝床くらいは用意してやる」
「……わかった」
わかりやすく不満そうな顔をしていたが、猫耳少年はうなずいた。
「か、勘違いするなよ!信じるのは今だけだぞ!今だけだからな!もし姉ちゃんを助けられなかったら噛み殺してやる!」
「物騒な……。んなこと言ってないで行くぞ。俺は両手が塞がってるから、お前、荷物持ちな」
「何だと!ニンゲンめ!オレを荷物持ちにするなんて許さないぞ!後で覚えてろよ!」
「……面倒臭いな、こいつ……」
猫耳少年が面倒臭い。面倒臭いが、文句を言いつつ荷物を持ってくれた。根は悪くないのだろう、面倒臭いが。
「そっちの白い子もおいで。家に入れてあげるから。ああ、柵には触れないでね、危ないよ」
「ボクも一緒でいいの、おじちゃん?」
「ここに独り残していくほど鬼畜じゃないよ。悪いようにはしないから安心して」
「嘘だ!ニンゲンはそうやって家に連れ込んで酷い事するんだ!オレは知ってるんだぞ!」
「おい黒いの。お前いい加減にしないと殴るぞこの野郎」
「やっぱり!野蛮なニンゲンめ!ニンゲンは野蛮だ!」
「そうなの、おじちゃん?」
「ああもう面倒臭い!いいから黙って付いて来い!」
ガヤガヤうるさい子供達を連れて、玄関へと向かう。
「俺も黒いのも手が塞がってるんだ。お嬢ちゃん、ドア開けてもらえるか」
「うん」
鬼の少女が玄関のドアを開けようとした。玄関のドアが開かなかった。
「あれ?開かない?」
「あっ、忘れてた。今、鍵を出すから――」
「えい」
ガギンッと金属の破断する音と共に、玄関のドアが外れた。
鬼の筋力の前に、オートロックは無力だった。
「ドア開いたよ、おじちゃん」
「……ああ、うん、助かったよ。ありがとう」
今は緊急事態と自分に言い聞かせてスルーする。
「うちは土足厳禁なんだけど……しょうがないか、元から裸足だし……」
自分だけ靴を脱ぎ、子供達は裸足のまま家に上がった。
ふすまを行儀悪く足で開けて、和室のベッドに女性を横たえる。
子供達が心配そうに女性の顔を覗き込んでいる。
一度起きたきり、女性が目を覚ます気配は無かった。
「……地面に寝かせるよりはマシだと思うけど……他にできる事は……」
念のため、呼吸と脈拍を再度確認する。
息も脈も安定している。
後はこのまま休ませて、回復するのを待つしかない。
「……さすがに、このままだと汚すぎるか。血の汚れだけでも拭き取った方がいいよな……」
傷口を汚れたまま放置するよりは、少しでも綺麗にした方が回復は早いだろう。
ほとんど体に引っかかっているだけのボロ布を剥がそうとした。
「な、何する気だ、ニンゲン!姉ちゃんの服を剥いで変な事する気か!」
「お前なぁ……。人聞きの悪い事言うなよ。体を綺麗にするんだよ。このままじゃ治るものも治らねえぞ」
「嘘だ!ニンゲンは眠ってる女に変な事するんだ!オレは知ってるんだぞ!」
「偏見強すぎだろ。そういうのがいないとは言わないけど、俺はケガ人に手を出すほど節操無しじゃねえよ。本当に体を綺麗にするだけだ。この汚い布をどけて血を拭くんだよ」
「姉ちゃんに触るな!オレがやる!ニンゲンの手は借りない!」
「無茶言うな。お前みたいなチビに何ができる――……いや、できるのか?」
猫耳少年を止めようとして、思い直した。
猫耳少年も、鬼の少女も、見た目は幼稚園児くらいだが、見た目よりも遥かに身体能力が高い。普通の人間の成人男性よりも上だろう。体が小さい分、苦労はするかもしれないが、単純作業なら十分こなせるはずだ。
女性は今は気を失っているが、また意識が回復するかもしれない。その時、見ず知らずの男が体を拭いているよりは、見知った子供が体を拭いている方が安心できるだろう。任せられるなら任せた方がいい。
この家の中の事を知っているのは自分だけだ。お湯や布は、自分にしか用意できない。自分は裏方に徹した方が効率が良い。
これは分業だ。これが一番効率的だ。
「……本当にできるんだな?」
「できる!」
「……よし、わかった。ここは任せる。体を拭くためのお湯と布を用意してやるから、少し待ってろ」
和室に三人を残して、キッチンに向かった。
まずは手を洗う。
全身装備の自動洗浄の効果により、手から腕まで付いていた血は跡形も無く消えているが、清潔に気を遣って遣いすぎるという事は無い。
蛇口の水を勢い良く出し、ジャバジャバ洗う。
「……………………」
綺麗になった手を、何度も洗う。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
「……………………」
ベトリッとした感触が消えてくれない。
鉄臭さに似た嫌な臭いが鼻の奥にこびり付いている。
気持ち悪い。吐き気がする。腕が強張る。指先の震えが止まらない。
「……情けねえ……子供に丸投げとか……何やってんだよ、俺は……」
効率的な分業だなんて、ただの言い訳だ。間違いでは無いが、それが一番の理由でも無い。そんな事は自分が一番よくわかっていた。
子供達は二人とも気丈に振舞ってはいたが、肉体的にも精神的にも疲弊しているはずだ。先に休ませるべきだ。
ケガ人の面倒は自分が見ればいい。ここには医者も看護師も救急救命士もおらず、医療器具も無いのだから、どうせ大した事はできない。わざわざ分業するほどの大変な作業は無い。
血塗れのケガ人が怖かったのだ。怖くてビビッて逃げたのだ。自分が怖くてやりたくない作業を子供達に押し付けたのだ。体の良い言い訳で自分を正当化して。
そんな自分の卑小さが嫌になる。
こんなのが勇者として召喚されたなんて、ブラックジョークもいい所だ。
「ええい、チビども待たしてんだ。落ち込んでる暇あるなら、さっさと動けよ。アホか俺は!」
頬を張って意識を切り替える。
お湯を用意する。電気ポットの蓋を外して桶の代わりにし、給湯器の温度を調整してぬるま湯を満たした。
「……これ、洗濯乾燥機に入ってたんだから、清潔な布って事でいいんだよな、多分……」
体を拭くための布は、洗濯乾燥機の中にバスタオルとハンドタオルが一枚ずつ入っていたので、それを使う。医療用として使うには一抹の不安があるが、新品のはずなので大丈夫だと信じる。
妖精さん謹製のタオルは清潔。間違いない。
「おーい、お湯と布、持ってきたぞー」
タオルと電気ポットを持って、和室に入ろうとした。
「ニンゲンは入って来るな!」
「おじちゃんは入っちゃダメなの」
「いや何でだよ。……って、そりゃそうか。すまん」
入口からチラリと中が見えて、慌てて頭を引っ込めた。
見てはいけないものを覗き見た気分になった。
傷付き血に塗れても尚、その美しさが損なわれていない肌。
部屋に運び込んだ時は精神的にいっぱいいっぱいで気にしていなかったが、ボロ布を取り払われたボディラインは魅惑の一語に尽きた。
エルフの女性の肢体は、普通のサラリーマンの目には猛毒だ。
「……ケガ人相手に欲情とか……ゲスすぎるだろ……」
血液が集中していた。今日一番の自己嫌悪で凹んだ。
救急医療の正しい情報については、日本医師会等の情報をご参照ください。
参考:日本医師会 救急蘇生法
<https://www.med.or.jp/99/cpr.html>




