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26.弱さと決意

家に帰り着いてからも、彼女のあの顔が頭を離れずにいた。

眉は悲しげに垂れて。上目遣いで見上げる瞳は頼りなく揺れて。唇は悔しげに固く結ばれ。全身で何かを伝えている様だった。

それでも俺は、彼女の本心を汲み取ることができずにいる。

だから、あの時抱き締める事も、今電話やメールをする事にさえ臆病になる。きっと意識の奥底で拒絶される事を恐れているからだ。

想いのままに抱き締めて、振り払われたら。

電話を掛けて、電源さえ切られてしまったら。

メールをして、返事のないまま朝を迎えたら。

そうなる事を恐れている。

29にもなった男が女々しい事を、って。そんなの自分が一番よく分かっているんだ。でも、大切な人を完全に失う事の絶望感を知っているから。あの時の感情が、吐き気の様に込み上げる。

何もしない事で失う確率が少しでも減るなら。そんな弱くて浅はかな考えが脳みそを支配している。

「怖いよ。……怖いんだ。」

広いリビングのソファの上で、あの頃より少し大きくなった体を抱き締める。呟いた独り言は、悪寒となって体に纏わり付いた。


洗面台の鏡に映る自分の顔が情けなくて笑えた。それでも上手く笑えていなくて泣きそうになった。

明日、顔合わせづらいな。どうしてまだ木曜なんだ。

夏休みも来週末からだし。タイミングが悪い。

「はぁー。」

大きな溜め息をついて、この前の事を思い出す。心配そうに俺を見つめる顔。淹れてくれたコーヒーの味。

どうして好きになると、嬉しさや楽しさだけでいられないんだろう。

どうしてこんなにも、辛く苦しいんだろう。

……俺はどうして、こんなに彼女が好きなんだろう。

リビングからメロディーが聞こえる。電話だ。

今は正直、誰からの電話も取りたくない。だけど取らなければいけない様な気がする。

何かに突き動かされて、手に取った携帯には「菅野湖陽」の文字。

ドクンと胸が大きく鳴る。震え出した指で、通話に切り替えた。


「もし、もし。」

緊張したまま出した声は、ひどく掠れていた。

「もしもし。…立花、さん。」

控えめに俺の名前を呼ぶ声が聞こえて、緊張が溶け出していく気がした。

「……どうした?」

自然と優しい声が出せた。

「あの、あの。さっきはすみませんでした!」

謝られるからどうしていいか、分からなくなる。

「あんな事言うつもりなかったんです。

 なのに、立花さんが重郷さんに呼ばれた時、

 もしかしたらって。

 林田君が告白されたんじゃないかって言った時、

 否定されなかったから、やっぱりって思って。

 自分は立花さんに答えを出していないくせに、

 立花さんが告白されているのが嫌だと、

 思ってしまいました。それであんな事…。

 困らせたかった訳じゃないんです。

 ただ、ただ、違うって言って欲しかったんだと、」

「それは。」

捲し立てる菅野の言葉を遮る。

「……それは、嫉妬してくれたって思ってもいいのかな?」

返事は返って来ない。

「告白、されたんだ。」

スッと息を吸う音が聞こえた。

「でも、俺にはその人がいないとだめになるくらいに

 好きな人がいるから、って断った。

 君に、軽い奴みたいに見られたくなくて、黙ってた。

 ……俺が好きなのは君だけなんだ。

 君が走って行くのを止める事も、連絡する事も、

 もし拒絶されたらって、怖くてできなかった。

 本当に君がいてくれなきゃ、もうだめみたいだ。」

いつの間にか声は震えていて、溢れ出す涙を止められなかった。

「……ッ。」

電話の向こうで、漏れる声は泣いている様に聞こえた。 

「……俺の事、好きにならなくてもいいから、

 近くにいさせて。」

もうそれしか言えなくて。

「……はい、ッ、はい……!」

彼女にもそれしか言えない様だった。

「また、明日。」

そう言って電話を切った。

彼女の涙声が耳から離れなかった。



その夜、本を読んでいた。世良颯人の『転身』だ。

ラストシーンで、菅野が好きだという探偵が、助手の少年にこう言う。

『人は流されやすい生き物だ。良い方にも、悪い方にも。

 でもね、恐れてばかりではいけないよ。

 本当に欲しいものは、手を伸ばさなきゃ手に入らない。』

失わないでいる事に目が向いて、気付けば手に入れる事に目を伏せていた。

『自分が自分らしく笑っていられる道を選びなさい。

 そうでなければ、自分も、他の誰も、

 幸せにしてあげられないのだから。』

自分らしく笑っていられる道。

それはやっぱり、彼女の隣にいる事。彼女が隣にいてくれて、笑っていてくれる事。

今ある幸せにもっとちゃんと目を向けないと。そうじゃなきゃ、自分も、彼女も、幸せにできない。そんなのは嫌だ。


俺は幸せになりたい。彼女を幸せにしたい。

そのために、俺は手を伸ばすよ。

君が開いてくれたその手を、掴みに行くよ。

どうしてこんなに好きなのか。君を好きなのか。

理由なんていらない。

君だから好きなんだ。ただ一心に君を愛すよ。

人は辛くても、苦しくても、誰かを好きになる事をやめられない。

俺は何があっても、君を好きでいる事をやめられない。


 

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