第一声
「この世界はなんて、静かなんだ──。」
それが、俺の中に残る一番古い感情の記憶だ。
二歳か、三歳くらいだったと思う。
普通なら、そんな年齢で世界を「静か」だなんて思うはずがない。
でも、俺は普通じゃなかった。
俺には、前世の記憶がある。
前世の俺は、生まれつき全盲だった。
だから覚えているのは、音と感情ばかりだ。
人の顔も、景色も、空の色も知らない。
記憶の中の世界は、ただ闇だけが広がっている。
幸い今世は五体満足、健康体に産んでもらった。
「しずか。」
ある雨の日、幼い俺は思わずそう口にした。
「今日は雨だからねぇ。ザーザーって音で、ほかの音が聞こえにくいのかな?」
母は笑いながら頭を撫でてくれた。
違う。
そういう意味じゃない。
けれど、その頃の俺には、自分の感じている違和感を言葉にすることはできなかった。
“何”と比べて静かなのか。
成長するにつれ、その比べた“何か”の記憶が前世のものだと理解した。
前世の時代は、おそらく幕末。
文久、攘夷――そんな言葉だけが、断片的に耳に残っている。
ずっと不思議だった。
車もない。
電車もない。
信号も、店先から流れる音楽もない時代。
それなのに、あの頃の世界は、現代よりずっとうるさかった。
現代は、車が走り、人が行き交い、あらゆる音で溢れている。
それでも俺は、この世界を「静か」だと感じた。
前世の俺は、一体何を聞いていたんだろう。
目が見えなかったから、音のする方角も、声の主も分からない。
ただ一つだけ確かなのは、あの世界には、いつも誰かの声があったということだ。
もっとも、その謎を解いたところで何になる。
二十五歳にもなって「前世の記憶があります」なんて口にすれば、痛い奴だと思われるのがオチだ。
だから誰にも話したことはない。
「だからさ。今年のお盆は、私の実家に行こうよ。……ねぇ、聞いてる?」
声に引き戻され、隣を見る。
助手席で美織が頬を膨らませていた。
「あ、ごめん。聞いてなかった。美織の実家ってどこだっけ?」
「長野。山奥の小さい村。昔は結構栄えてたらしいけど、今は限界集落。」
「へぇ。よく帰るの?」
「実家は好きなんだけどさ……村はあんまり好きじゃないんだよね。」
「なんで?」
「なんて言えばいいんだろ……空気が重いっていうか、息苦しいっていうか。」
「そんな村で育ったわりには、美織はずいぶん陽キャだよな。」
「陽キャって何よ。そこまでじゃないし!」
そう言って笑う美織は、俺より二つ年下の二十三歳。
よく喋り、よく笑う。
以前、友人に「お前の彼女、うるさくね?」と言われたことがある。
けれど俺には、それくらいが心地よかった。
賑やかな声が途切れない時間は、不思議と安心できる。
もしかしたら俺は、前世で失った何かを、無意識に求めていたのかもしれない。
「まあ、ニ、三日くらいなら付き合うよ。」
「ほんと!? ありがとう!実家にはずっと一回は帰りたいと思ってたんだ!」
美織は嬉しそうに笑う。
「でもさ、村って何があるの? 観光地とか?」
「うーん……何もない。」
「即答かよ。」
「コンビニもないし、信号も一個しかないし。」
「それはすごいな。」
「お盆だけは人が増えるけどね。」
「みんな帰省するから?」
「それもあるけど、お祭り。」
「祭り?」
「うん。昔からある山神様のお祭り。村中みんな出る。」
「美織も?」
「子どもの頃は毎年。」
少しだけ、美織の表情が曇った。
「……あんまり好きじゃなかったけど。」
「祭りが?」
「祭りっていうか、夜の雰囲気かな。」
「夜?」
「静かなんだよ。」
「田舎だから?」
「ううん。」
美織は首を横に振る。
「静かなのに、何か聞こえそうで。」
「……何それ。」
「ほら、田舎って虫とかカエルとか鳴いてるじゃん?」
「うん。」
「なのにね、村の山の方だけは、変に静かな日があるの。」
「……。」
「変な話だよね。」
そう言って美織は笑った。
俺も笑った。
その時は、本当に他愛のない田舎話だと思っていた。




