3.生贄
一見、平和そうに見える日常に潜む影。それは生きとし生けるものが逃れ得ない生と死にまつわる有象無象の物語。
黄泉坂結弦は父親にあこがれていた。居酒屋の店主なのだけれど部下に仕事を任せて昼間から飲んだくれている父親に。だけど、親父の周りにはいつも人がいた。彼らの相談を見事に解決してしまう親父は結弦のヒーローだった。親父のようになりたい。それが結弦の夢だった。
だけど、自分は親父に似ていない。少年の悩みは尽きない。
翌朝、結弦は珍しく寝坊した。年上の女性に好意を向けられて結弦はどきどきしっぱなしだった。平静を繕っていたが挙動不審だったかもしれない。その前にあんなこともあったのだ。押し付けられた左腕が熱を持ってなかなか寝付けなかった。先生の胸は柔らかいだけでなく火傷しそうなくらい熱かった。
これが女の人なんだ……
ラッキースケベともいうべき初めての経験はうれしい記憶であったが、困った現象を引き起こしてくれた。
よりによってこんな日にひかりに起こされるとは……
「ゆーくん、早く起きなきゃ遅刻しちゃうよ。」
兄弟同然に育てられた幼馴染のひかりは遠慮がない。勝手に部屋に入ってくると必死に抵抗する結弦の布団を剥ごうとする。
「もう起きたから! 大丈夫だから先に行っててくれ」
「そんなこと言って二度寝するつもりでしょ!」
「どうした、ひかりちゃん。ゆづの奴、起きないなら蹴飛ばしてやんな……」
ドタバタしているのを見かねて父親まで部屋を覗きに来た。そして下半身だけ布団から出たがらない結弦を見てにやりとする。
結弦には嫌な予感しかしない。
「わーはっはっ! そうか、おめえも男だもんな! 毛は生え揃ったか? 皮の剝き方教えてやろうか?」
「くたばれ。馬鹿親父!」
枕を投げつける。
「ひかりちゃん。先行っててやんな。これは男にはどうしようもない生理現象なんだ。一発抜いたら治まるから」
クソ親父は枕をひょいと避けるとひかりに解説までしやがった。ひとりついてこれなかったひかりもようやく状況が理解できたらしい。
「よくわからないけど朝勃ちじゃしょうがないね。もしかしたら最近一緒にお風呂入りたがらなかったの、そのせい? 私に興奮しちゃう?」
からかうように制服のスカートの裾を持ちあげる。
「そこはお前も恥ずかしがれよ!」
*
『先生好きよ、黄泉坂君』
蛭子はいい仕事をしてくれた。うまく編集できた音声を確認して笑いが漏れる。PCの中には隠し撮りした画像も保存してある。先には山倉佳奈美の情報も役に立った。馬鹿な母親は思い通りに動いてくれた。
さて、これはどう使おうか……
*
「なぜ、奴らは儂の言うことを聞かんのだ! 今の地獄の支配者は儂なんだぞ。それなのに立ち入ることもできないなどおかしいではないか!」
ルシフェルの苛立ちに低級悪魔たちは怯えるばかりで何も答えられない。
「地獄支配には閻魔紋章が必要だと聞いたことがあります」
「マラコーダか……貴様何か知っているのか?」
「とんでもないことです。私などがお耳に入れられることなど、畏れ多いことです」
大悪魔であるルシフェルにとって下級悪魔マレブランケ族の首領であるマラコーダなど取るに足らない存在だ。普段は人界に潜らせて世相操作に当たらせている。それが地獄について報告に来るとは何かを掴んでいるとみていいだろう。
「閻魔紋章の話ならわしも聞いている。しかし、勇者との戦いで失われたと聞いている」
「ならば、勇者が、いえ故勇者が持っているのでは?」
「故勇者は今は地獄の中だ。正式な閻魔大王がいない限り奴は転生もできぬ。奴が閻魔紋章を奪ったのなら、奴が今頃地獄の支配者になっているだろう。それなら話は簡単だ。奴から閻魔紋章を上納させればよい。だが、そうではないのだ」
「なら、閻魔をつついてみるのが良いのではないでしょうか?」
全身鱗に包まれ長い爪、マラコーダの見苦しい姿をさらに卑屈に屈める姿には反吐が出る。だが、人心を惑わす技は一流だ。
「何度もやっておる。何か貴様にいい手があるのか?」
「勇者の一党の縁者を見つけました。閻魔にぶつけてみたいと思います。何か動きがあるかもしれません」
ルシフェルは考えた。どうせ今のままではどうにもならない。せっかく勇者を使って極楽教界の地獄を落としたのだ。このまま支配もできずにいれば蠅の王に手柄を横取りされかねない。
「よし、やってみろ」
「御意にございます」
*
『はーい! マルちゃんで~す。ご無沙汰でした~。
今日は魔獣召喚に挑戦したいと思います。
といっても難しいものではないですYO! 失敗したら危ないですからね。用意するものも簡単。生卵1つ。これだけ! スーパーで売ってる普通の卵で充分。』
仮面で顔を隠しバニーガールの衣装を着たアシスタントが生卵をマルちゃんに手渡す。
『コツはこの魔方陣。失敗すると危ないですから間違えないようにしてくださいNE!』
魔法陣がアップに映される。赤黒いインクで円と六芒星。円の縁には複雑な文様が印されている。
『インクはコンビニで買ってきた墨汁を使います。別に何でもいいんですけどね。これに自分の血を1滴垂らすこと。痛いからってこれを省いたら大変。召喚主の言うことを聞かなくなりますYO!
では、卵を魔法陣の中心に置いて召喚の呪文を唱えます。
エロイムエッサイム、お前は鶏ではない。鶏などではないのだ。もっと気高い。魔の眷属よ。真の姿を取り戻せ。サラマンダー!』
画像の中で生卵であったものが光を放つ。光が内側から溢れ出し殻が罅割れる。やがて光が収まるとともに殻が破れた。中から血の色をしたトカゲのような生き物が這い出した。
生き物はきょろきょろ辺りを見回すとやがてマルちゃんを見つめた。飼い主だと認めたのだろう。火のような赤い舌をチロチロとのぞかせると、マルちゃんに向かって歩き出す。マルちゃんの身体をよじ登り右肩に落ち着いた。
『アメージーング! サラマンダーの召喚です。
サラマンダーの餌は生肉。もちろんスーパーで売っているもので構いませんが、鮮度がいいもののほうがいいですYO! 例えば殺したばかりの死体とかね。
生後3カ月もすると火を噴くようになりますから飼い方には十分ご注意を!
マルちゃんでしたーっ! それでは、また次回もお楽しみに!』
カメラのスイッチを切るとアシスタントの少女はマルちゃんの肩に居座っているサラマンダーを摘まみ上げた。上を向いて丸呑みにする。
「やっぱり、ただの生卵じゃない。くだらない」
「まあ、そう言わないで。こういうの求めてる人多いんですから」
*
「十文字先生……信用していたんですがねえ……」
秋川校長が苦々しく溢した。
体育祭を来週に控えたある日、再び千衣は校長室に呼び出された。今度は指導教員の福島先生だけでなく廣井教頭と学年主任の田中教諭も同席していた。
「誰がこれを……」
「誰が、は関係ないです。これは事実ですか?」
思わず漏らした千衣の言葉に教頭が語気を荒げる。
校長室で見せられた封筒の中には写真が1枚とICレコーダー。家電量販店でも売っているありふれたものだ。手紙はない。差出人を示すものは何もなかった。写真には生徒らしいジャージ姿に千衣が抱きついている様子が写っていた。胸を押し付けているようにも見える。ICレコーダーには悪意を持って編集された台詞が一言だけ。
『先生好きよ、****君』
前後が切り取られている以上、状況を知らない第三者が聞けばその台詞は致命的だ。
「違うんです。これはそういう意味で言ったんじゃありません。状況を説明させてください」
「十文字先生!」
福島教諭が厳しい言葉で千衣を諫める。庇いようがないと目を合わせてもくれない。教頭と主任はもっと辛辣だった。
「事実かどうかは関係ないんです。こういう写真と音声があるということが問題なんです。しかも学校サイトに匿名で投稿されたというじゃないですか」
「それに十文字先生、今なにを言おうとしました? 福島先生が止めてくれなければ大人である貴女の身の潔白を証明するために生徒を巻き込むことになるところでしたよ」
「あっ……」
主任の言葉に千衣は絶句した。写真には黄泉坂結弦の顔までは写っていない。手元が写っていないこのアングルなら園芸部だとはわからない。そこまで計算されての罠なのだ。
目の前が真っ暗になる。
*
席に戻ってきた千衣に向かいの席から鏡教諭が声を掛けてきた。優しく応援しているふりをしながら千衣の身体を舐るような視線で嬲る。まじめに仕事をしているようにも見えない。千衣はこの男が好きではなかった。だが、それでも先輩なのだ。邪険にはできない。
「十文字先生、災難でしたね。でもこういうことってよくあることなんですよ。気にしちゃダメです。どうです。今晩、一杯付き合いませんか? 飲んで忘れちゃうのが一番ですよ」
「鏡先生……ありがとうございます。でも、今はそんな気分になれませんので」
「無理にとは言いませんよ。でも、気分が変わったら言ってくださいネ。いつでも付き合いますから」
もちろん、慰めてくれている同僚が自分を嵌めている当の本人であることを千衣は知らない。
「天国でのうのうと暮らすより地獄を這いずり回って生きていきたい。」をお読みくださりありがとうございました。
第3話は、本格的に千衣先生が罠に嵌められます。罠に嵌めた鏡嵐丸とはいったい何者なのでしょうか?
投稿は毎週金曜日に行う予定です。今後もお付き合い頂けたら幸いです。