雨
雨は嫌いだ。
雨が降ると思わず見上げてしまうから。
大きな大きな空に垂れ込める鬱蒼とした雲の蓋。
この世界で自分は孤独だ。ちっぽけでとるに足らない存在。
誰の記憶にも残らない小さな存在なんだ。
そんなことを思い出させるから、雨は嫌いだ。
雨降りしきる夜の街。赤、青、黄色、異種のネオンが雨に滲み、濡れた路面の上で揺らいでいる。灰色の街並みを、人々が傘を差して行き交う。足早に家路へと急ぐ靴音が、アスファルトをしとしとと打ち続ける雨音と混ざって、繁華街の中に雑踏を形作る。誰もが雨宿りする場所だけを見つめている。雨粒は画面のノイズのように音もなく振り注ぎ、落ちる雨影はあらゆる存在を曖昧にぼやかす。手先の冷たさに気をとられて、すれ違う顔を記憶に残そうとするものはいないだろう。
その街の片隅。
路地裏に、ひとりの少女が座り込んでいた。
濡れた路面に膝を抱え、水たまりに映る自分の顔を無言で見つめている。頬を伝う雨水も、髪から滴る雫も気にする様子はない。凍えに震える身体を室外機の熱にあてて、膝を抱える。
ただ、水たまりの中にいる自分だけを見つめている。
赤いマフラー。
藍色の長髪。
セーラー服。
そして、頭を飾る二つの角。
知る者が見れば、その外見は“鬼”の姿形に見えていただろう。ただ、街路を通り過ぎる人々もまた、ひとつかふたつか、小さいか大きいかの違いはあるものの、同じように角が生えていた。この街では角はむしろ誰にでもあり、誰でもなくする特徴だった。
だからこそ、その普遍的な小さな背中は誰の目にも留まらず、ただ孤独で、孤立していたのだった。
「……寂しいよ、犬童さん、茨木さん」
首に巻いた赤く長いマフラーを握りしめ、雨音にかき消されるような、独り言。
名を呼ぶ声は、寄り添いを欲する声は、誰にも届かない。
彼女の“黒川早紀”という名前を知るものは、もうここにはいなかった。
名前を呼ぶものも、思い出すものも、この場にはいない。家族も、友達も、誰も、いない。
雨風は次第に強く、泥だまりは水嵩を増す。
室外機のごうごうとした作動音はそのまま彼女の存在すら霞に溶かそうとしていた。
たったひとり、この世界で自分は取り残された。
忘れさられていく、ひとりぼっちで。
胸の奥から——熱くて、痛い——苦しい。
だけど、吐き出したら、もう忘れてしまう気がしたから。
耐えなきゃ、堪えなきゃ。
覚えていなくては、いけなかった。
この痛みも、熱さも、全部飲み込まないといけないんだ。
でも——でも——つらいよ——
不意に。
桜色の影が差す。
地面に描かれる花びら。
灰色の世界を彩る。
「迷子?」
穏やかな声。
目が合う。
綺麗な琥珀色の瞳。
雨音が遠のく。時が、止まった。
ここだけが、晴れたかのように、雨降りしきる音が滴る水音へと変わった。
そこに居たのは、ピンク色の傘をさした少女の姿だった。
心配そうにのぞき込んでくる。歳はいくつだろうか。幼げだが、自分と同じく十は過ぎても二十もいかないくらいだろう。
角はない。人間だ。
「これ使って」
少女はサキの返答も待たず、桜の花びら柄の傘を差し出す。
目に付くくらい鮮やかな桃色に色づいた髪の毛先から雨の雫が垂れ落ちる。
吐く息は白いのに、自分が濡れるのも構わない。
サキは、呆気にとられていた。
だが、無意識に伸ばしかけていた手に気づいて、引っ込めた。
「……いらない」
少女はサキの目を見つめる。その真っすぐさに、思わず視線を逸らす。
「風邪、引いちゃうよ」
「あんただって」
「そのマフラー」
少女はサキが握り締めていたマフラーを指差す。
「大切なんだね」
「え?」と聞き返す一瞬に、無理やり傘を押し付ける。
花が咲いたように、笑う。
「またね」
パタパタと走り去る。学生鞄を雨避けにして遠ざかっていく。
ちょっと、と引き留めようとサキは立ち上がった。
雑踏の中、少女の小さな背中を目で追いかける。
黄金色の半透明な手足を持ったカメラの“ようなもの”が、少女の肩越しからサキを見つめていた。
そして、カシャ。
あっという間に人込みが視界を遮って、街はひとつの群像になった。
「なにあいつ」
傘の柄のぬくもりがやけに熱く感じた。
ぐっと堪えていた涙が一滴、頬を伝う。




