第57話
「見事なものよ。叡山の者達は最期の意地を果たしたようだな」
私は叡山が燃えるのを見上げながら、そう呟かざるを得なかった。
叡山の僧兵が逃げるのを追いかけた和田義盛を始めとする御家人達によって、天台座主を始めとする多くの僧侶が根本中堂に籠って、自らを火炙りにする壮絶な最期を遂げたとの報告が複数で、私の下に届いている。
「誠にその通りかと」
息子の源頼貞が、私に寄り添うように呟いた。
「傷ついて捕虜になった僧兵を除く僧侶については、下っ端ならば助命して許してやれ。天台座主自ら根本中堂に籠って、自らを火炙りにしたとか。そこまでの意地を果たした以上、それなりの慈悲を示すべきだろう」
私は更に呟くように命じた。
「良いのですか」
「ここまでのことがあったのに、更に殺めるのか。もう十分だろう。天台座主の意地を認めてやれ」
「そうですね」
息子とやり取りをする内に、私の中でどこか憑き物が落ちたような気さえ、私はしていた。
その一方で、この叡山の炎上は、それこそ宇治や大山崎等で抵抗していた朝廷軍の戦意を急速に崩壊させることになった。
正確な数字ではなく、あくまでも概算だが。
この瀬田や宇治、大山崎の攻防戦において、幕府軍は増援も含めて約10万程に達していた。
その一方で、朝廷軍は不破関の戦いの後の敗走の際に帰国した者が続出したこと等から、約4万程に減少していたらしい。
それでも地形に明るいこと等から、基本的に2倍以上の幕府軍の攻勢を朝廷軍はよく凌いでいたが、瀬田の戦いで敗れたとの噂が奔って、更に叡山の炎上が宇治や大山崎等の将兵の目に入ったことから、最早ここまで、せめて後鳥羽上皇の御前で最期の意地を示そう、と朝廷軍の幹部の多くが京への撤退を決断することになった。
更にそうした撤退が上手く行ったか、というと、地形を活用しにくい撤退戦となると、兵力差が基本的に大きく出るのはやむを得ない話と言ってよく。
幕府軍の追撃に、宇治や大山崎等の朝廷軍は多大な損害を出しながら、京への撤退を行った。
更に幕府軍は、その後を追うように京への突入を果たすことになった。
(尚、叡山を焼いた幕府軍は、私の指揮の下、更に京への突入を果たしている)
藤原秀康や源頼茂、三浦胤義らは、後鳥羽上皇の下に相次いで参上し、上皇の御前で最期の一戦を飾ろうとしたが、後鳥羽上皇の言葉は無慈悲なものだった。
「速やかにこの場から去れ。戦の巻き添えになりたくない」
この返答に、皆が唖然とする間もなく、幕府軍の京への突入が始まった。
「大臆病の君に謀られた」
藤原秀康らはそう叫んで、個々に最期の意地を果たすために最期の戦いに挑むことになった。
以下、最後の京での戦いを順次、述べる。
三浦胤義は、せめて最後は同族の手に掛かって死のう、と叡山を越えて京に進んでくる幕府軍の前に立ち塞がった。
叡山を越えて京に進んでくる幕府軍の先陣は、和田義盛率いる和田一族が主力を占めており、三浦胤義にしてみれば、和田義盛が(かなり年長で伯父としか言いようがない)従兄になることもあり、最後の戦いの相手を和田義盛と思い定めて向かったのだ。
半伝説となった三浦胤義の最期だが。
「和田義盛殿とお見受けする。我が最期の意地と覚悟をこの戦で示すので、後世に伝えて頂きたい」
「うむ。流石は我が従弟というべきその意地と覚悟。お前の兄(の三浦義村)にも確かに伝えよう」
そう二人は言い交わし、お互いの部下を率いて、凄まじい戦を展開した。
だが、所詮は多勢に無勢。
和田義盛の息子の朝比奈義秀によって、三浦胤義は討たれ、その部下の多くも主に殉じた。
そして、夫の死を知った胤義の妻は、尼僧になって夫の菩提を弔ったと伝わる。
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